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無教会全国集会2014

2014年度 無教会全国集会ブログ

発題3「主に生かされる集会のあり方」

2015-03-08 13:43:38 | -3 主に生かされ…

徳島聖書キリスト集会 吉村孝雄

プロフィール
1945年中国の満州生まれ。
1967年5月末に、矢内原忠雄の一冊の本でキリスト教信仰を与えられた。
それによって考え方が根本的に変わり、理科数学などの教育を通して福音を伝えたいと願って高校教師になった。勤務先でキリスト教に関わりのある書物の紹介を記した印刷物の発行、配布、生徒たちと放課後に聖書やヒルティの読書会を継続。
1994年、み言葉を伝えるために教員を退職。
月刊「いのちの水」発行、徳島聖書キリスト集会代表。


主に生かされる集会、それは一人一人が、主に直接的に結びついているほど、自然にそのようになる。

主と結びつくとは、ヨハネやパウロが書いているように、私たちが主の内にあり、また主が私たちの内にあることである(ヨハネ15の4、エペソ3の17、ガラテヤ2の20)。

さらに言い換えれば、キリストの霊が私たちの内に宿っていることであり、み言葉が常に魂の内にある状態である(ローマ8の9)。

  神は愛である。それゆえに、愛なる主と結びつくとき、私たちも小なりといえども、神の愛を与えられる。その愛とは、罪や病気、人間関係で苦しむ人、さまよっている人へと向けられる。

「知識は誇らせるが、愛は造り上げる」(Ⅰコリント8の1)。 まず信じる者同士が互いに愛しあえと繰り返し言われている(ヨハネ13の34など)。それはまた互いに祈りをもって交わることであり、その祈りに応えて主が聖霊を注いでくださり、その実としての愛がさらに集会に深まり、互いに具体的に助け合い、励まし合うという状況が生まれる。そのような主の愛は、必ず周囲にも流れだし、キリスト教に無関心な人、さらには敵対する人にも流れていく。福音はそうした状況の中で伝えられていく。

このように、あるべき集会の姿とは、生けるキリストにより、聖霊に導かれつつ、互いに祈り合い、助け合うというものであり、それは、単に聖書講義を聞くだけの集りとは大きく異なっている。

聖書に、そうした具体的なあり方が示されている。

使徒パウロは、エルサレムの貧しい信徒のために、ギリシア、マケドニア地方の各地のキリスト教の集会からの献金を集めて、それを届けるために命がけでエルサレムへと向った。

 また、パウロを支えた多くのキリスト者がいた。マケドニアの信徒たちがパウロの必要を満たしたと記されている(Ⅱコリント11の8~9、フィリピ書4の15~16)。

 パウロは、伝道の旅において、さまざまの困難、苦難に出逢っている。

…幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い…(Ⅱコリント11の26)

 このような状況に出会いつつ、次々と場所を移動しているのであって、特定の町でゆったりとテント造りをして生計を立てていたのではない。

また、ローマにいるキリスト者たちに宛てた手紙の最後の部分にも、彼が多くの人たちの助けによって、その伝道の働きをなしたことが記されている(ローマの信徒への手紙16)。

… 私たちの主にある姉妹フェペを主にある者にふさわしく彼女を迎え入れて、どんなことでも助けてやって欲しい。彼女は、多くの人たちの援助者、とくに私の援助者であった。

…キリストにあって私の協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。彼等は命がけで私の命を守ってくれた。それゆえに、異邦人のすべてのキリストの集会の人たちが感謝している。

 この夫妻が命がけでパウロの命を守ったというが、そうした文字通り献身的に福音を伝える人を支えようとした人たちが、キリスト教が広がっていく過程で多くいたことが推察できる。

パウロは、このような具体的に人名をあげつつ、いろいろな人たちに感謝している。彼は、信徒たちの祈りに支えられることの重要性を深く知っていた。それゆえに、しばしば自分のはたらきのために祈ってほしいと強く願っている。

…兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、霊(聖霊)が与えてくださる愛によってお願いします。

どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください、

わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように…(ローマの信徒への手紙15の30~31)。

集会の関係者が、福音伝道のような何らかの信仰に関する重要な働きにかかわっている時、あるいは特定の人が苦しみのさなかにあり、耐えがたい状況にあるのが判明したとき、キリストのからだであるエクレシアの者たちが、共に祈るのはごく自然なことである。

福音を信じたといっても、絶えざる導きがなければその信仰は失われていくことが多い。主イエスの種まきのたとえのように、福音の種を何者かが取り去ってしまうからである。

それゆえに、そのようなことにならないよう、絶えず祈り、そうした悪の力を入り込ませないようにと、主に働いていただくのである。

…私たちは絶えずあなた方のために祈り、願っている。(コロサイ書1の9)

…目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈れ。

同時に私たちのためにも祈って欲しい。

神が御言葉のために門を開き、私たちがキリストの奥義を語ることができるように。(同4の2~3より)

このように、パウロ自身も各地の信徒のために絶えざる祈りをささげ、各地のキリスト者の人々も、またパウロの働きのために祈りによって霊的に支える一方、生活を支えるための具体的な支えも提供したのであった。

これは、互いに「祈られ、祈り、主にあって愛され、愛し合う」関係である。

このことは、主イエスが、互いに愛し合え、と繰り返し命じたことと同じ意味をもっている。真実な他者への祈りとは、真実な愛の表れであるからだ。

このように、パウロは彼だけの力で福音伝道を続けたのでは決してなかった。さまざまの地でいろいろな人たちが、パウロを献身的に支え、尽くしたのである。それは彼に神の言葉がゆだねられていたからであり、その神の言葉を伝えることにすべてをかけていた人だったからである。

そしてその人たちの内に、生きてはたらくキリストがおられ、聖霊の火が燃えていたからである。その内なるキリストが、信徒たちにパウロや同労者たちを助けよと語りかけ、そのための困難をも乗り越える力を与え、それによってみ言葉が広く伝えられるように導かれたのである。

キリスト教の集会のあり方、それは使徒たちの記録の最初の部分にも記されている。

…彼等は、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。(使徒言行録2の42)

使徒の教えとは現代の私たちにおいては神の言葉であり、み言葉中心の集りということである。相互の交わりとは趣味娯楽で交わるのでなく、聖霊がはたらく交流であり、それゆえに、互いに愛しあい、祈り合う場であり、パンを裂くとは、もともとはふだんの食事のたびにキリストを記念し、霊的なパン―キリストを受けようとすることであり、祈りは、いっさいの原動力である聖霊との交わりであり、さらに聖霊が豊かに与えられ、与えられたみ言葉と聖霊をもってこの世に出て行くための力が与えられるようにと求めるのである。

集会の内に生きて働いておられるキリスト、聖霊が住んでいることが最も大切なことで、それがあれば、その内に働くキリスト(聖霊)が次々と指し示し、祈りやなすべきことをも導くようになる。そこから、賛美を歌うことも豊かになっていく。賛美はまた祈りでもあるからだ。そしてその示されたことを行なう力も同時に与えられることになる。

キリスト教の集会は、このようないろいろな点において、ほかのいかなる人間の集りとも異なる。

事実、そうした力によってキリスト教の真理は、さまざまの困難、迫害を乗り越えてローマ帝国の各地に驚くべき短期間で伝わっていったのであった。 キリスト教の集会は単に「学ぶ」という場でもなければ、意見や考えを出し合ったり議論したりする場でもない。そうしたことは、信仰のない人でもいくらでも可能である。キリスト者の集りは、そこにおいてキリストに出会い、み言葉と聖霊を受ける場であり、それによって主の平安と前進する力を受ける場である。そしてその聖霊による生きた交流―互いに愛と祈りと生きた賛美がなされる場である。このことは、限りなく高い目標であり、私たちにおいても、生けるキリストに導かれつつそのような集りへと成長していきたいと願うものである。