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トルコとインド人ムスリム その①

2010-10-23 20:42:50 | 読書/インド史
「瀕死の病人」と謗られつつ、20世紀初頭までイスラム世界の盟主として君臨し続けたオスマン帝国。トルコ近代史は一般に欧州列強とバルカン、中東など関係で見られがちだが、ムスリムの多いインドや東南アジアとも連動があった。特にインドのムスリムは近隣のアラブと違い、遥かに遠いトルコのカリフ体制を支持する特徴があった。

 エルトゥールル号遭難事件(1890年)は日本とトルコの友好の基礎となった出来事だが、軍艦エルトゥールル号を派遣した皇帝アブデュルハミト2世の真の目的は日土国交樹立よりも、イギリスに対抗し、汎イスラム主義をアジア各地で宣揚する狙いがあった。
 この軍艦の辿った航路は興味深い。スエズアデン、ボンベイ(現ムンバイ)、コロンボ、シンガポール、サイゴン、香港…そのままほぼ大英帝国の植民地や保護領の港市を繋いでいる。それはソマリアオマーンなどアラビア半島南部とアフリカの角、イラン、バルチスタン、インドを経て、マラッカスマトラに向かうコースであり、中国のムスリムにも接する機会があった。ボンベイやコロンボでは3万人以上のムスリムが歓迎、シンガポールでも東南アジア水域で絶えて見られなかったオスマン帝国の軍艦に、スマトラやジャワから多数のムスリム君侯が駆け付けたという。

 まさにアブデュルハミト2世はオスマン帝国皇帝であるだけでなく、「帝国外のムスリムにとっては栄えある君侯にして宗教指導者」という実感が生まれるに至った。インドの新聞各紙はオスマン海軍の軍規道徳の高さ、インド・ムスリムのスルタンへの親愛をこぞって強調した。この遠征は大英帝国の支配下にあったインドなど、アジアのムスリムへの示威行為そのものであり、司令官はじめ乗組員は全員、各寄港地のモスクで金曜礼拝を欠かさず行い、現地のムスリムを感動させている。
 ちなみにエルトゥールル号はオスマン帝国初の親善使節団のため日本でも歓迎を受けており、特使は明治政府要人と会談している。昔、東北大に留学したトルコ人男子学生からそのエピソードを聞いたことがあり、伊藤博文にイスラムの素晴らしさを説いた使節もいたという。イスラムに改宗すれば、どのような得があるのか質問した伊藤に、使節は妻が4人持てると答えるが、漁色家の伊藤には魅力を感じなかったとか。

 トルコでは民族主義の芽生えが遅れていたが、西欧列強やロシアの侵攻を受け、19世紀後半から汎テュルク主義が台頭してくる。1908年、これにより青年トルコ人革命が起き、アブデュルハミト2世は失脚に追い込まれた。その4年後に勃発したバルカン戦争により、トルコばかりかイランでもナショナリズムが高まり、インド人ムスリムもその覚醒に影響を受ける。多数派ヒンドゥーに比べ、ムスリムは宗主国に協力、同調的だったが、それまでのイギリスへの忠誠心に動揺が始まった。インド亜大陸でこそムスリムは少数派だが、世界規模で見ると、 6千万人という当時世界最大のムスリム人口を擁していたのがインド亜大陸である。

 トルコ側から見れば、インドのムスリムの動向はイギリスの世界戦略の背後を突くことが出来る。実際トルコ側からもエルトゥールル号はじめインド・ムスリムに対する働きかけが始まっていた。後にT.E.ロレンス(アラビアのロレンス)率いるゲリラ隊に破壊されることになったヒジャーズ鉄道も、アブデュルハミト2世の命で建設されており、聖地巡礼という美名によりインドや東南アジアのムスリムからも多くの喜捨が寄せられた。中東に関心を抱き始めたイギリスに、これは最大の憂慮となった。ムスリムの反英運動は、インドばかりか中東政策にも打撃を与えるものだったからだ。

 インド・ムスリムの覚醒は、議会主義的方法でインドの独立国家建設を進める遥かに遠いトルコのカリフ制を擁護しようとする運動 (ヒラーファト)の2つの方向に向かった。トルコの第一次世界大戦敗戦もあり、当初は②のヒラーファト運動の方が強く、それは問題の困難さがあった。
 ムスリムの反英運動に注目したのこそガンディーである。彼はヒラーファト運動の指導者アリー兄弟(ムハンマドとショウカト)と接近し、それによりヒンドゥー・ムスリムの一体化を果たしていく。なお①の指導者は、パキスタン初代総督で建国の父と謳われるジンナーである。
その②に続く

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2 コメント

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Unknown (牛蒡剣)
2019-06-20 20:59:17
従来エルトゥールル号の来日は日本との国交樹立
目的できたということは知っていましたが、
インドや東南アジアのムスリムへの政治的影響
ひいてはイギリスのインド アジア政策への牽制
という大きな戦略的一手だったとは驚きです。

正直軍艦好きとしてはエルトゥールル号派遣
は無謀でそこまでして来日する価値があるとは
思えなかったのですがなんか納得できました。

エルトゥールル号は艦齢36年(軍艦は3~40年
ぐらいが寿命)でしかも日清戦争前夜で日本海軍の主力艦がほぼ鋼鉄製の艦艇で更新されてさなかにもかかわらず木造艦艇。木造艦艇だと10年前後で大改修が必要ですが64年に改装したっきり。かなり
無理して運用していたのは確実です。ある意味事故は必然で、いままでそこまでのリスクをとる理由が
分からなかったのです。
牛蒡剣さんへ (mugi)
2019-06-21 21:46:40
 当時の軍艦の寿命は3~40年ぐらいだったのですか。しかも木造艦艇ではあの遭難は当然でしたね。この出来事は「海難1890」というタイトルで映画化されました。
https://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/b8b79143c54580888afae32a2384260a

 エルトゥールル号派遣の最大の目的は日本との国交樹立ではなく、インドや東南アジアのムスリムへの政治的影響、そしてイギリスのアジア政策への牽制でした。
 トルコは伝統的に陸軍国家だし、トルコを訪れた作家・塩野七生氏によれば海軍博物館は陸軍のそれに比べてかなり貧弱だったとか。その辺りが軍艦を重視しない原因になったのかもしれません。