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トーキング・マイノリティ

読書、歴史、映画の話を主に書き綴る電子随想

トルコとインド人ムスリム その②

2010-10-24 20:42:45 | 読書/インド史
その①の続き
 ヒンドゥー・ムスリム間の共闘を果たしてことにより、M.ガンディーはムスリムによるトルコのカリフ制を擁護するヒラーファト運動をインドの反ローラット法運動と結び付けた。それにより、インドのナショナリズムを西アジアに広がる大きな反英運動の波の中に投げ入れ、イギリスに対し大きな脅威を与えることとなった。だが、この結びつきこそ、ヒンドゥー・ムスリム問題に一層の困難をもたらす結果となる。つまり、手を組んだのが議会主義者のジンナーではなく、国家建設には必ずしも結実しない大衆運動を展開しようとするアリー兄弟だったことが、後の印パ分離独立を招く背景となっていく。

 当時ガンディーはインドの政治世界では新参者だったが、ヒラーファト運動を支持し、ムスリムから支持されることにより、国民会議派内の主導権を確立していく。彼はこう主張した。「ヒラーファト擁護運動にヒンドゥーが参加することが、牛を保護するための最大の、最も効果的な運動です」。
 ヒンドゥーが自分の要求を守るため、ムスリムの運動を支持することが最善の方法である、というのが彼の基本的な立場であった。それゆえ、ガンディーほどムスリムの支持を得たヒンドゥーもいなかった。しかし、ムスリムを支持することは実に逆説的な結果を生むことに繋がる。この逆説が後にガンディーの暗殺に繋がることになると、当時誰も予想しえなかった。

 ムスリムはヒラーファト運動を支持するガンディーに対し、全面的な指示を与えた。それ以前のローラット法反対に際し、ガンディーが運動を提起した時の冷淡な態度とは全く異なっていた。ガンディーが初めて「非協力運動(non-cooperation)」との表現を公にしたのも、1919年10月、デリーで開かれたヒラーファト全インド会議においてであった。
 それらの動きに反し、支持を集められなかったジンナーは国民会議を辞任、失意のうちに運動の表舞台から一旦退く羽目になる。ジンナーはガンディーを、宗教に政治を持ち込んだと批判しているが、後にジンナーも同様の批判をネルーから受けている。

 しかし、遠いインドの地でカリフ制を支持する運動を展開しても、肝心のトルコの指導者ムスタファ・ケマルは共和制をとり、世俗国家を誕生させるというトルコ革命を断行した人物である。イスラムも国教とされず、ましてカリフ制など論外だった。オスマン帝国末期の皇帝がインドや東南アジアのムスリムに示威行為をしていた時と、対外政策も大きく変わる。ケマルにとって、カリフを存続させようとするヒラーファト運動など、有難迷惑どころか迷惑千万に過ぎなかった。明らかにケマルはカリフ制を叩き潰す機会を伺っていたのだ。

 イスラム世界で最後のカリフとなったアブデュルメジト2世は決して野心家ではなく、多くの趣味を持つ平凡な王族のひとりに過ぎなかった。バラの栽培とペルシアの細密画の収集に夢中になり、詩を好み毎夜のように催す宴会で、自作の詩を朗読したという。
 だが、問題はカリフという地位にあった。ケマルが独裁権を行使する以上、彼に対抗できる地位はカリフだけなのである。そのため不満分子やケマルに危険性を感じている聖職者たち、かつては彼の同志でありながら政治的に対立してしまった人々が「聖なるカリフ」を盾として、反ケマル派を結成する。彼らはよもやケマルがカリフに手出しすることはない、と考えていた。また、政治的野心のなかったアブデュルメジト2世も、宮廷費用の増額をケマルに要求し、とんでもない話だと一蹴されてから彼を憎みだし、「アンカラ酔っ払い」(ケマルは大酒飲みだった)と呼ぶようになっていた。そして、ケマル一派を倒す陰謀に耳を傾け始めていた。

 これにケマルは全国を遊説することで反撃を開始する。ただ、彼はイスラム教そのものを否定する演説をしたのではなく、攻撃目標は巧みに政治や社会など、イスラム体制としての面に絞られていた。ケマルの演説に民衆は苦しかった希土戦争(トルコでは救国戦争と呼ぶ)中、聖職者たちが、どんな役割を果たしたのか思い出す。彼らは皇帝メフメト6世の、「ギリシア軍は敵にあらず、ギリシア軍に抵抗する者は反逆者なり」という布令を、カリフの勅命だと平気で民衆に伝えたのだった。ケマルは民衆にこう強調する。

宗教を利用する特権階級は、新生トルコに存在させたはならない…神の御名によって特権をふるう者や階級は諸君の敵なのだ。今度のドイツと組んで始めた、ドイツの野心に利用されたに過ぎない戦争に、メフメト6世はジハードを布告した。あの無意味な戦争で、諸君の父や兄弟、息子たちがどれほど数多く犠牲になったことか!その上、ジハードはわが祖国を滅亡の寸前まで追い詰められたではないか!

 ジハードを布告する資格はカリフにしかない。ケマルは直接攻撃を意識して避けつつも、カリフ制度の害悪を国民の頭に叩き込もうとしたのだ。ケマルの遊説による、カリフ制廃止への根回し効果は大きかった。そのケマルにとって、一気にカリフ制の廃止を断行できる機会が訪れた。それはインドのムスリムからアブデュルメジト2世に宛てた手紙だった。
その③に続く

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4 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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トルコとインド (室長)
2010-10-25 11:10:39
mugiさん、
 トルコ史とインド史の間に、イスラム教という宗教を介して、意外な関連性があるという、こういう歴史の視点は、凄く意外です。

 インドが、中東とも関連を有する・・・確かに、パキスタンがイランの隣国でもあるし・・・ということすら、普通欧州のバルカン半島を中心にしか見てこなかった小生にとっては、新鮮な視点だし、凄く歴史の目を広げてくれることです。続きを期待の目で見守っています。
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RE:トルコとインド (mugi)
2010-10-25 21:50:01
>室長さん、

 西欧とバルカンが無関係ではないのと同じく、イスラム圏もまたネットワークがあり、関連性があるのは面白いと思います。インドと言えばヒンドゥー教の国という印象ですが、改めてイスラムの影響力の大きさを感じさせられました。

 キリスト教社会と同様、イスラム世界もまた一枚岩どころか様々な民族や宗派が入り乱れ、複雑さがありますが、聖典を共有しているという点で連帯性も生まれます。現代でも宗教のパワーは侮れません。
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Unknown (牛蒡剣)
2019-06-20 21:10:14
トルコの事情がインドにこれだけ影響があるとは
驚きです。カリフの影響力は想像以上にデカかった!

しかしまあ肝心のトルコでカリフが見捨てられつつ
あったというのも皮肉です。
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牛蒡剣さんへ (mugi)
2019-06-21 21:48:25
 オスマン帝国がスルタン=カリフ制を強調するようになったのは「西欧の衝撃」以降ですが、やはりカリフの威光はデカかった。カリフに相応しいイスラム諸国君主はトルコくらいでしたし。

 カリフ制が廃止された後、アラブ人も含め世界中のスンナ派ムスリムからムスタファ・ケマルに、カリフ就任を要請する動きがありました。ケマルがキッパリ断ったのはいうまでもありません。
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