「坊主、丸儲け」は日本の諺だが、聖職者ほどビジネスに敏く利権を確保するのに長けた人種はないのは、洋の東西変わりない。その点、利子を取ることをシャリーア(イスラム聖法)で固く禁じているイスラム世界も同様で、むしろ日本の宗教法人顔負けの脱税をやってのけている。オスマン朝後期の財政を麻痺させたワクフと呼ばれる制度がそれだった。
ワクフは元はアラビア語で「停止」を意味し、転じてこれが財産凍結を目的とするワクフ制度となり、主として不動産に用いられる。例えば、ある大地主がその土地の一部または全てを“ワクフ”と指定したとする。すると、その土地から生じた利益はイスラム教のためにしか仕えなくなるのだ。つまり、教団や宗教学校、学術団体、慈善団体などの維持発展に用いられるため、その使い道は原則として所有者に決定権があり、同様に原則として1度ワクフに指定したら永久にそのままとなる。この制度は各種の学校や病院、孤児院、養老印などの施設の不朽に役立ったのは事実だが、やがて金持ちたちの財産防衛策にも転用された。
つまり、ワクフと指定された土地その他財産はいかに強欲な帝王でも没収若しくは課税もできない。それゆえ気紛れな権力者たちの手から己の財産を守るため、私財の大半をワクフに指定、形式上は宗教組織や個人の援助に収益を当て、実際は一族をそのワクフの管理者や先住者として、必要経費という名目で収益の大半を確保するという抜け道が生み出される。これは「家族ワクフ」と呼ばれ、この種のワクフの流行によりオスマン帝国後期、徴税機能が立ち行かなくなる。
このワクフの起りは諸説あるが、既にウマイヤ朝時代、ビザンツ帝国の制度を取り入れ始められたとする見方もある。アッバース朝となれば一般化、さらにマムルーク朝となれば発展した。その後継のオスマン帝国がこの制度を廃止または縮小することなど、完全に不可能だった。何故なら聖なるシャリーアに定められている法に異議を唱えることは、背教行為と見なされるからだ。
たとえ純粋にイラスムのために設置されたワクフでも、欧州中世の教会領や日本の寺領が聖職者たちを堕落させたように、イスラム世界の神学者たちにも同じ影響を及ぼすに至る。彼らの多くは権力者たちの御用学者と化し、間接的にせよ小作農民の搾取により、特権者生活を維持するようになった。
ムスリムがユダヤ、キリスト教徒に優越の拠り所とするのは、定まった聖職者という階級を認めていない点である。だが、これも実態とは完全に乖離している建前であり、現代イスラム世界より聖職者が特別な権限を有するところがあるだろうか。初期のムスリム神学者たちは別な生業を持っており、宗教関係の仕事はボランティアのようなものだった。だが、やがて彼らはムスリムの五行のひとつであるザカート(喜捨)で養われ教団関係の仕事に専念、事実上の聖職者階級となる。また高名な神学者となれば、金持ちたちからの献金も多かった。
「モスクの大きさより、イマーム(導師)の知恵」というトルコの諺がある。これは堕落した聖職者に対する民衆の皮肉を意味する。高名なモスクとなれば、その「モスク領」は広く、収入も大。そうなれば、いかに純粋な情熱から宗教指導者の道を選んだ者さえ、その精神がいつまで続くか危うい。この「モスク領」は現代イスラム諸国の大半で、土地改革の最大の問題となっている。政府が改革を実行しようとすると、宗教界の扇動で「反イスラム」と反政府活動と繋がる要因となるからだ。
トルコに限らずシーア派が国教のイランも事情は背景は変わらず、イラン・イスラム革命(1979年)の指導者ホメイニーも海外逃亡中の生活費や活動資金はバザールの大商人の献金が支えていた。商人や地主までも聖職者に喜捨したのはイラスムの義務以外に、見返りにイスラム法に適った取引や契約を指導、その保障や国家からの不当な介入、搾取に抗し、商人層の利益を守ってくれるのを期待してである。
イラン革命時、日本のマスコミの多くは「人民の解放闘争」と共感を示していたという。宗教関係者が反国王側に終結した理由のひとつに、パフラヴィー国王が十数年に亘りモスク領の小作人の自作農化を進めたことだった。宗教者勢力を削ぐ目的があったにせよ、人民を解放しようとしたのは国王側だった。にも係らず宗教が絶対の国では、当の小作人たちからも「神を恐れぬ行為」として受け取られたのは皮肉である。「人民の解放闘争」の結果、モスク領により小作人が縛られるようになったのは言うまでもない。
■参考:『イスラムからの発想』大島直政著、講談社現代新書629
『シーア派』桜井啓子著、中公新書1866
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ワクフは元はアラビア語で「停止」を意味し、転じてこれが財産凍結を目的とするワクフ制度となり、主として不動産に用いられる。例えば、ある大地主がその土地の一部または全てを“ワクフ”と指定したとする。すると、その土地から生じた利益はイスラム教のためにしか仕えなくなるのだ。つまり、教団や宗教学校、学術団体、慈善団体などの維持発展に用いられるため、その使い道は原則として所有者に決定権があり、同様に原則として1度ワクフに指定したら永久にそのままとなる。この制度は各種の学校や病院、孤児院、養老印などの施設の不朽に役立ったのは事実だが、やがて金持ちたちの財産防衛策にも転用された。
つまり、ワクフと指定された土地その他財産はいかに強欲な帝王でも没収若しくは課税もできない。それゆえ気紛れな権力者たちの手から己の財産を守るため、私財の大半をワクフに指定、形式上は宗教組織や個人の援助に収益を当て、実際は一族をそのワクフの管理者や先住者として、必要経費という名目で収益の大半を確保するという抜け道が生み出される。これは「家族ワクフ」と呼ばれ、この種のワクフの流行によりオスマン帝国後期、徴税機能が立ち行かなくなる。
このワクフの起りは諸説あるが、既にウマイヤ朝時代、ビザンツ帝国の制度を取り入れ始められたとする見方もある。アッバース朝となれば一般化、さらにマムルーク朝となれば発展した。その後継のオスマン帝国がこの制度を廃止または縮小することなど、完全に不可能だった。何故なら聖なるシャリーアに定められている法に異議を唱えることは、背教行為と見なされるからだ。
たとえ純粋にイラスムのために設置されたワクフでも、欧州中世の教会領や日本の寺領が聖職者たちを堕落させたように、イスラム世界の神学者たちにも同じ影響を及ぼすに至る。彼らの多くは権力者たちの御用学者と化し、間接的にせよ小作農民の搾取により、特権者生活を維持するようになった。
ムスリムがユダヤ、キリスト教徒に優越の拠り所とするのは、定まった聖職者という階級を認めていない点である。だが、これも実態とは完全に乖離している建前であり、現代イスラム世界より聖職者が特別な権限を有するところがあるだろうか。初期のムスリム神学者たちは別な生業を持っており、宗教関係の仕事はボランティアのようなものだった。だが、やがて彼らはムスリムの五行のひとつであるザカート(喜捨)で養われ教団関係の仕事に専念、事実上の聖職者階級となる。また高名な神学者となれば、金持ちたちからの献金も多かった。
「モスクの大きさより、イマーム(導師)の知恵」というトルコの諺がある。これは堕落した聖職者に対する民衆の皮肉を意味する。高名なモスクとなれば、その「モスク領」は広く、収入も大。そうなれば、いかに純粋な情熱から宗教指導者の道を選んだ者さえ、その精神がいつまで続くか危うい。この「モスク領」は現代イスラム諸国の大半で、土地改革の最大の問題となっている。政府が改革を実行しようとすると、宗教界の扇動で「反イスラム」と反政府活動と繋がる要因となるからだ。
トルコに限らずシーア派が国教のイランも事情は背景は変わらず、イラン・イスラム革命(1979年)の指導者ホメイニーも海外逃亡中の生活費や活動資金はバザールの大商人の献金が支えていた。商人や地主までも聖職者に喜捨したのはイラスムの義務以外に、見返りにイスラム法に適った取引や契約を指導、その保障や国家からの不当な介入、搾取に抗し、商人層の利益を守ってくれるのを期待してである。
イラン革命時、日本のマスコミの多くは「人民の解放闘争」と共感を示していたという。宗教関係者が反国王側に終結した理由のひとつに、パフラヴィー国王が十数年に亘りモスク領の小作人の自作農化を進めたことだった。宗教者勢力を削ぐ目的があったにせよ、人民を解放しようとしたのは国王側だった。にも係らず宗教が絶対の国では、当の小作人たちからも「神を恐れぬ行為」として受け取られたのは皮肉である。「人民の解放闘争」の結果、モスク領により小作人が縛られるようになったのは言うまでもない。
■参考:『イスラムからの発想』大島直政著、講談社現代新書629
『シーア派』桜井啓子著、中公新書1866
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ワクフが社会福祉に役立った面はありますが、篤志家が多かったというよりも脱税に利用されたのは否めません。
ワクフの起源に、サーサーン朝ペルシア時代の制度を取り入れたと見る学者もいます。この時代、ゾロアスター教の神官が絶大な権力を持っていたから、イスラム化した後でも特にイランならありえそうですね。
イスラム世界でルネッサンスや宗教改革が難しいのは、教祖が「最後にして最大の預言者」となっているイスラムの性質にあると思います。「ビドア」(逸脱)は最悪と見なす傾向が強いそうです。
このワクフに関する知識で、イラン革命にますます幻滅してしまった。
イスラム諸国にも、西洋のルネッサンスとか、宗教改革に当たる革命が必要ですね!!