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パールシーと西欧の衝撃 その②

2008-02-12 21:17:55 | 読書/インド史
その①の続き
 エーダルジーは当時の他の全てのゾロアスター教祭司同様、彼の天職について伝統的な訓練を受けただけであり、全く馴染みのない知識の世界に引きずり込む西欧人宣教師の攻撃に対抗することは出来なかった。ヒンドゥーのバラモンと同じく、ゾロアスター教の神官たちは自分たちの宗教の知識を独占、教典アヴェスターを詠唱し解釈するのは神官階級の仕事であり平信者が関ることは認めなかった。結婚も神官階級同士で行い、平信者との婚姻は禁じ、息子が父の後を継ぐ。当時の聖職者たちは、儀式の執行者として信者から報酬をもらうことだけに満足し、自ら唱える経の意味にも無知だった。

 ウィルソン他の西欧人宣教師たちは、ゾロアスター教の二元論は神の絶対性を否定するものと非難、さらに火の礼拝を偶像崇拝と攻撃した。十字架にかけられたグロテスクな磔男像を教会の中心に据え、崇めるのは偶像崇拝に当たらないと盲信していたらしい。ただ、ウィルソンは実際パールシーの間に、殆ど改宗者を得られず、パールシーが昔と変わらず信仰や礼拝を「非常に熱心に続けた」と嘆いている。西欧人宣教師はヒンドゥーはじめ他の異教徒にも同じような攻撃と布教活動をしており、帝国主義の尖兵的存在だった。

 しかし、宣教師の活動は西欧の影響によるパールシー共同体の崩壊効果を促進する。教育を受けた平信徒は神官が彼らの道を誤らせたと感じ、19世紀が下るにつれ、長年知識階級として祭司階級に抱いていた尊敬に変わり、軽蔑の種がまかれた。特にボンベイ(現ムンバイ)では、権威を行使する団体としての神官階級がなかったことと、家庭付祭司が単に祭式を行うことで得られる僅かな収入で満足してきた一方、個々の平信者は巨大な富を築いていた事実により、平信者の優越意識は助長された。平信者が進歩や科学、物質的繁栄を獲得しようと夢中になっている時、実際に働く神官は、その先祖からのやり方に忠実であろうとしただけだったので、時代遅れで無知で貧しい者と見られるようになってくる。

 西欧の衝撃によるアイデンティティの危機に対し、パールシーの間では宗教改革の運動が起こってくる。皮肉なことに初期の改革者の大半はエルフィンストン研究所から輩出している。西欧式の教育を受ければ巧く世間を渡っていけるだろうとの両親の希望で、学校に送られた中産階級の人々も慎重に改革を始める。インド人初のイギリス下院議員であり、「インドの偉大な父」と謳われたダーダーバーイー・ナオロージーもエルフィンストン研究所で学んだ一人。1851年、ゾロアスター教徒改革者協会を創設したナオロージーの尽力により、女学校、図書館、文学協会、討論クラブ、政治結社、女性の状況改善のための団体、法律協会、教育雑誌…以上挙げた組織は全てパールシーの間で最初のグループだった。

 どの宗教も同じだが、改革運動は保守派や正統派から強い反発を買う。改革派自身、信仰をどの程度まで近代化するについて意見が異なっていた。実は18世紀にパールシーの聖職者たちの間で宗派対立が起きており、様々な祭司集団の間に軋轢が生じていたのだ。教義上の争いもあったが、実際には各祭司集団の権威付けが主な原因だった。つまり、あちらの寺院よりウチの方が格が高い、との祭司の見栄があり、その威厳を高めるため伝説や論争を発展させる。平信者こそいい迷惑だったが、彼らは商業に携わったため、それ以前は聖職者の特権だった読み書き能力を獲得していた。そのため、昔のように神官のご高説は受け入れられないようになっていたのだ。

 西欧式教育を受けたパールシーの中には、本を出版し、西欧にパールシー共同体の歴史や信仰、慣習を知らせようとした者もいる。このため西欧の学者には“啓蒙された”パールシーに合うような学説をとるようになる。だが、“啓蒙された”のは比較的少数であり、多くの者は生活するだけで精一杯、改革派と伝統主義者は平信者の頭越しに激しい論争を続けた。
 正統派も改革派も教養のある祭司が必要であるのは分かっていた。 しかし、祭司は少年時代に長い祈祷文を暗唱するのに大変な時間を費やさねばならず、成人してからも絶えずこの記憶を新たにする必要があった。次第に祭司の息子たちは日の出と共に起き、早期は伝統的な祭司の学校に行き、それから1日の残りを平信徒の仲間と一般教育を受けに行くといった妥協策が取られる。

 これも、繰り返しが多いばかりで、比較的僅かの物質的報酬しかなく、共同体での地位が確実に低下している祭司の職に就こうとする者はますます少なくなった。そのため、祭司の息子でも最も知的なものでなく、遅鈍な者がその職に就くようになり、祭司階級の威信はますます低下する。この状況を変えたのは皮肉なことに西欧の学者や協会だった。
その③に続く

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