トーキング・マイノリティ

読書、歴史、映画の話を主に書き綴る電子随想

パールシーと西欧の衝撃 その①

2008-02-11 20:25:06 | 読書/インド史
 パールシー(インドのゾロアスター教徒)は、富裕層が多く社会的に活躍する者が多いマイノリティーとして知られる存在だ。おそらく日本人と同じく、アジアでは西欧の衝撃を乗り切り近代化に成功した数少ない民族だろう。だが、その道のりは決して平坦ではなく、一応独立国家の日本と異なり、かなり苦渋と混乱もあったのだ。

 19世紀になり、都市に住むパールシーに大きな変化が表れる。その主な要因は商工業の発展、西欧式教育やプロテスタント・キリスト教の影響だった。東インド会社はキリスト教の布教を禁止していたが、英国の宗教諸団体からの強い圧力を受け、1813年にこの禁を解く。パールシーの主要な中心地であるボンベイ(現ムンバイ)に最初の伝道団が着いたのは1820年代だった。同時期にグジャラート語(インドに移住して久しいパールシーの当時の日常会話)だけでなく、英語で教育する学校を建設する運動も始まる。
 1827年、「欧州の言語、文学、科学、論理学」を教えるため、エルフィンストン・カレッジが設立された。1840年、これは他の学校と統合されエルフィンストン研究所となり、パールシーは19世紀を通じてこの生徒の大半となる。かくして西欧式教育を受けたパールシーの中産階級が形成され、その中には医者、法律家、教師、ジャーナリストなどの職に就く者もいた。

 研究所では宗教に関し公には公平な政策が取られ、公立学校ではどんな宗教教育もなされなかった。だが、英文学を教えることは必然的に生徒をキリスト教思想に近付け、また、西欧の科学は多くの伝統的なヒンドゥーやゾロアスター教の信仰と抵触した。この衝撃の中でパールシーの少年たちは、まず自分たちの聖典について無知であるのを恥とした。彼らは自分たちの信仰の基本的な教義は知っており、その守るべき義務を教えられていたが、当時のカトリック教徒にとってのラテン語のバイブルと同じく、多くの昔の知識や伝説を含むアヴェスター(ゾ教の教典)そのものは平信徒には謎でしかなく、聖職者のためのものだった。

 パールシーの平信徒が自分たちの教典に無知であるのに注目した宣教師がいた。1829年ボンベイに来たスコットランド人ジョン・ウィルソンは、パールシーの敬虔で間違ったことを嫌う性格に強い印象を受ける。彼はこの都市でパールシーが「大変影響力のある地位」にいるのも見出す。ウィルソンは欧州人の著書を中心にゾロアスター教の教典や伝説文献を読み漁った。ゾロアスター教に共鳴したのでも、パールシーを理解するためでもない。パールシーをキリスト教に改宗させ、彼らの信仰を攻撃、排斥させるための布石が目的だった。

 ウィルソンは説教だけでなくパンフレット、日刊新聞という新しい媒体による論文を通じ、攻撃を開始する。彼はゾロアスター教の二元論を攻撃、教典の古い宇宙創成論や神話的面を嘲笑、19世紀には既に廃れかけた浄めの儀式の規則を取り上げ、聖書の福音書と対比させた。実は旧約聖書のレビ記にも古代の不条理極まる神事の規則が細々規定されているのだが、それを無視、あえて福音書を引用したところにウィルソンの狡猾さがある。大半のパールシーは聖書は言うまでもなく、彼らの古い教典の内容など知らなかったのだ。この宣教師の示した概略は、現代のキリスト教徒が初めて旧約聖書の特に原始的な箇所を紹介されたら感じるのと同じような衝撃を、パールシーに与えた。

 ある平信徒は性急にウィルソンの提示した内容は、「全く偽り」であり、おそらく「我らの宗教の敵」により作られたものだと否認する。だが、ウィルソンは勝ち誇って、その史料の多くは聖典アヴェスターから取ったものだと提示し、反論を退ける。混乱の中でパールシーは、この論争に臨むよう3人の神官を説得するも、彼らはそれぞれ基本的に異なる防戦法をとり、さらに混乱を深めた。実はパールシーの間にも諸宗派があり、宗派により解釈も異なれば対立もある。他の宗教同様聖職者間でも教義の解釈が一致していたのではない。

 パールシーの3人の神官たちは準備も訓練もなく、突然自分たちの信仰を防護するために駆り出されたのだった。例えれば、常日頃トレーニングを積んでいる者と、稽古もなく夜中に突然たたき起こされた男が土俵で争うようなものである。全くのアンフェア行為そのものだが、その不正と不法に長けていたからこそ、大英帝国を築いたのだ。
 パールシーについての西欧人の記録には、長所に礼儀正しさが挙げられている。いかに神官たちが毅然として陰険な宣教師に立ち向かったとしても、勝負にもならない。彼らの論証をウィルソンが皮肉たっぷりに「寓話的な聖所」と表現する。

 神官の一人エーダルジーは自らの宗教を二元論とか多神教と嘲笑されても動揺せず、アフリマンは独立した邪悪な存在だと言い張る。善悪二元論を展開するも、聖典にある7大創造の教義を4大要素という古いギリシアの理論と結びつけ、昔からあった混交をさらに進めた。ウィルソンは直ちに科学的な理由からこれを攻撃、嘲笑露わに述べる。「ダストゥール(大祭司の称号)・エーダルジーは余りに長い間主要な火の寺院にいて人と接触がなかったので、かなりの程度まで厄介な知性の歩みから逃れていたらしい」。
 科学的面からすれば、聖書こそかなりアブナイものがあるのだが、聖書を知らないエーダルジーの無知に付け入って、居丈高に攻撃と説教を繰り返すウィルソンに、西欧人宣教師の途轍もない尊大さが伺える。
その②に続く

よろしかったら、クリックお願いします
   にほんブログ村 歴史ブログへ


最新の画像もっと見る

5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
日本でのキリスト教の布教 (スポンジ頭)
2008-02-11 23:45:24
こんばんは。

宣教師が科学的知識+聖書のおかしな面を隠してパールシー達を改宗させようとしていますが、なぜ日本に来た宣教師はそういう手段を採らなかったのでしょうか?「信仰心」があまりにも目に見えないので対応できなかったとか。ある意味一神教を強固に受け付けないのも凄いですよ。
私自身は外国の人間がなぜあれほど宗教を信仰できるのかむしろ理解できないのです。
返信する
長い横レス失礼します (のらくろ)
2008-02-12 01:45:21
スポンジ頭さん

>ある意味一神教を強固に受け付けないのも凄いですよ。
それは多分「思想的抗原抗体反応」だと思います。

何年か前の年末特番、「時空警察」に取り上げられましたが、実はわが国へのキリスト教の伝来はフランシスコ・ザビエルが最初ではなかった。日本史、世界史にかなり詳しくてもこのことは意外に忘れがち。何と、6世紀末には間違いなく伝来していたのです。ただし当時は「景教」と言われていました。

6世紀末-7世紀初はもちろん聖徳太子の時代、しかし聖徳太子とは後年付けられた名であって、生前は厩戸皇子と呼ばれていた。イエス・キリストが馬小屋で生まれたと言う点を考えれば、おそらく「景教」の影響は当時の政権中枢たる天皇家にも及んでいたと考えてよいでしょう。

しかし、一神教たる「景教」ではなく、当時の日本の政権中枢は仏教立国を目指したことはご存知のとおり。政権中枢に達しながら断絶した「景教」の系譜は、どうも当時から日本の文化になじまなかったのでしょう。

ただ、ここで注意したいのは、この時点で「景教」としてキリスト教が伝来していたこと。しかも、他の国々(大陸やシルクロード各国)は、その後覇権がペルシャやらモンゴルやら漢族やらとめまぐるしく変遷して「景教」は跡形もなくなったのに対し、日本の場合、おそらく「学界」の研究対象として残り、しかも民族の入れ替わりは全くありませんでしたから、「警戒すべき邪教」としての一神教に対する刷り込みが出来上がったあと、何世紀もしてザビエル=ローマ・カトリックが布教に来た。しかし民族として入れ替わりの無かった日本の場合、すでに「免疫」ができていたのでキリスト教=一神教が受け入れられなかったということなのでは、と推察します。

>なぜ日本に来た宣教師はそういう手段を採らなかったのでしょうか?

ザビエルが布教に来た当時の日本は戦国時代。この混乱期を収束に向かわせたのはご存知織田信長でしたが、彼の軍事的才能はずば抜けたものがあった。大河ドラマでお馴染みの「長篠合戦=武田騎馬隊を鉄砲の三段撃ちで殲滅」は、実は次の17世紀前半のヨーロッパの大混乱を象徴する30年戦争でも使われていないほほど斬新で、基本的には機関銃が登場する第一次世界大戦まで通用する戦法だったといいます。確かに第二次大戦の記録映画でポーランド軍が騎兵を繰り出す映像がありましたが、これなど20世紀前半まで「騎兵」が戦闘の前線で有用との認識が各国にあったことの裏づけと思われます。

当時のキリスト教布教の後に「植民地化」があったのは南米各国やアジア・アフリカの変遷を見れば一目瞭然ですが、日本に来ていた南蛮宣教師はこの長篠合戦や、大坂湾での「鉄張船」に度肝を抜かれ、本国に「日本との武力衝突は避けるべし」と伝令を送ったそうです。仮にそうなったとしたら、遠征軍の被害は甚大なものになり、フビライ汗と同じく撤退の憂き目に遭っただけでなく、「日本が南蛮人を撃退した」とルソンやシャムに伝われば、欧州各国によるアジア被占領地域に大規模な抵抗運動が発生し、史実ではその後3世紀続いたヨーロッパの覇権は、早くもその時点で頓挫していたかもしれません。
返信する
Unknown (ルイージ)
2008-02-12 09:52:48
まじめすぎるパールシー面白いですね。
続きに期待です。

スポンジ頭さん
>ある意味一神教を強固に受け付けないのも凄いですよ。

個人的には中世日本が「多神教的」だったのが
理由かな?と考えますね。
受け付けないというよりは埋没とかね。

のらくろさん
私は武田フリークなんですがw

小瀬甫庵
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%80%AC%E7%94%AB%E5%BA%B5

いわゆる「三段撃」は本能寺の変の44年後に
書かれた『甫庵太閤記』が初出です。

武田騎馬隊も徒が従っていた構成なので
双方とも甫庵の創作であるというのが
最近の定説です。
返信する
訂正 (ルイージ)
2008-02-12 11:10:39
×『甫庵太閤記』
○『甫庵信長記』

大変失礼しますたorz
返信する
コメント、ありがとうございます (mugi)
2008-02-12 21:43:01
>こんばんは、スポンジ頭さん。

仰られるように日本にも明治に宣教師が着ましたが、インド他の国と対応が違ったのは、一応独立国であったことと、民衆は外国語が話せなかったこともあると思います。パールシーは西欧式教育により英語が話せたので、宣教師も説教がやりやすかった。
明治に来日したドイツ人宣教師は「日本人はお宮にもお寺にも行く」と記録しています。この人も布教が巧くいかないのに業を煮やし、「神道も仏教も滅びゆく」とも書いてましたが、現代もそうなってませんね。

私もインド、中東で何故あれほど宗教が深く根付いているのか、不思議なのです。様々な民族が衝突し、苛酷な環境ゆえ、悲惨な現実からの解放、救済が宗教に繋がっていったと思います。苦しい時の神頼み、の日本の諺のように、温帯地方で民族の往来が殆どない島国の環境なら一神教は受け入れられない。対照的なのがシナ。日本以上に信仰心が薄いのは共産主義ばかりではないでしょう。


>のらくろさん

私もその「時空警察」、見ました。聖徳太子との関りは眉唾な面があると思います。
ただ、「続日本紀」に天平8年(736)、遣唐使に従って来日した李密翳(りみつえい)というペルシア人景教徒の記録があります。この人物が何の目的で来たのかは不明ですが、既に8世紀、キリスト教徒が来ていた。

司馬遼太郎の小説「兜卒天(とそつてん)の巡礼」で、秦一族は実は始皇帝の子孫ではなく、ユダヤ系景教徒だったというものでした。
1930年代前半でも、インドに景教徒の住む村があったことがJ.ネルーの著書に見えます。他のキリスト教徒と既に同化したと思っていたネルーもこれには驚いてました。ひょっとして、現代もインドにいるかもしれない。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/41186fadef99ca8730cd867ad11c2471

現代も中東にアッシリア帝国の末裔を自称、現代アラム語を話すネストリウス派キリスト教徒の「アッシリア人」がいます。イラク戦争時、TVに出ていたアッシリア系アメリカ人ケン・ジョゼフもそう。ただ、かなり胡散臭そうな人物。

平戸オランダ商館長フランソワ・カロンも「強大なる大王国」と本国に報告しております。
事情に疎い本国オランダ人が何故日本を武力で制圧しないのか、と問われても、これは大変な軍事力と労力が不可欠なので非現実的と反論していました。ジャワ諸島(現インドネシア)が典型ですが、与し易いと見れば早々征服です。


>ルイージさん

人口が減少しているにせよ、ゾロアスター教徒が現代まで生き残っていること自体驚きです。
特にインドに千年以上前に移住してきても、その宗教文化を守り続けているのはすごい。日本人なら一世紀もしないうちに埋没ですよ。それでいながら、多数派ヒンドゥーと見事に共存している(確執が全くないわけではない)のだから、優秀な移民です。訪印した西欧人の記録にも「勤勉、活動的、礼儀正しい、清潔を好む…」とあります。

パールシーについて、私も何度かエントリーにしていますので、よろしかったらご覧下さい。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/1ad0828a6ed361f18ab01fac45eb398b
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/b7d4cf171bcc2639dd306cfa8b0c30f7
返信する