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草原の記―司馬遼太郎のモンゴル記

2006-05-10 21:09:37 | 読書/東アジア・他史
 モンゴルに強い関心を持っていた司馬遼太郎は1973年と1990年にかの国を訪れているが、その印象をまとめたエッセイが『草原の記』。 司馬がモンゴルに興味を持っているのを、旅で出会った中国の知識人は不可解に思ったそうだが、何故彼がモンゴルに関心を持つに至ったかは他人には知りえな い。恋に落ちたと同じく、ある対象に心を奪われたのだろうが、儒教的価値観に縛られない精神の持ち主だったこともある。

 司馬はこの本の中で、中華帝国とモンゴルのような遊牧民との関係をこう書いている。
「以下の想像は歴世の中国人には申し訳ないが、むしろしばしば農民の方が草原への侵略者だったのではないか。彼らは人口増加の挙句、常に処女地を求め、匈奴の地である草原によろばい出て鍬を打ち込む。遊牧民は草原の土を掘ることを極度に嫌がった。
 草原は動物のように生きた皮で覆われている。その皮は薄く、しかも舗装されたように固く、それによって表土の下の土壌が風に吹き飛ぶことから守られてきた。さらには草が網のように根を張ることによって表土を引き締めてきたのである。

 農民にはそういう頓着はなく、鍬で一撃してその表土を粉砕してしまう。その後列日が粉のようになった土を煎り、冬の風がそれを吹き飛ばして、ついには岩骨まで出るに至る。ひとたび表土が吹き飛ばされれば、2度と草原は戻らないのである。
 農民が土を耕すことは天の喜ぶところとされる。遊牧民の天はそれを悪としてきた掘るなということを匈奴や、その後のモンゴル人たちは言い続けてきたはずであった。が、農業帝国の記録の中で彼らの言い分が書かれたことはない」

 近代になりモンゴルにチベット仏教が入ってきて、土を耕してひっくり返すと罰が当たる(地中の虫への殺生?)、という思想のために、ますます農耕から遠ざかったそうだ。
  中世は世界を震撼させたモンゴルも、近代は完全に中華帝国に踏みにじられることになる。遥かゴビ砂漠を越えて押しかけてきた漢族商人が、「黄金の泉」とモ ンゴル人が呼び神聖視していた場所に交易所を設け、草原は一変する。交易所を中心に商店、旅館も出来てたちまち漢人街を形成した。この地はまもなく買売城と漢族は名付ける。商売町の意味だ。
  漢族商人は買売城交易で流通経済を持ち込み、自給自足が基本だった遊牧経済が大きく崩れる。漢族は茶をモンゴルに売ることによって、草原にも貨幣を持ち込 んだが、以後モンゴル人が茶を得るために漢族の高利貸しから羊などを担保にして金を借りる。すぐに質屋が流れ、次々と羊を手放す羽目になった。19世紀の モンゴルは貧困が草原を覆い、買売城の漢族商人だけが肥え太り、多くのモンゴル人は牧畜という唯一の寄る辺を失って流浪する。

 現代のモ ンゴルの首都はウランバードルだが、その前身は庫論(クーロン)といい、1762年以降ここに北京からやって来た清国の弁事大臣が駐在した。モンゴル人は 市街を好まず草原にいるのを喜ぶ。18、9世紀に庫論の主な住民は漢族だった。1921(大正十年)年頃でさえも、人口十万のうち、7万は中国人だったら しい。街に住むモンゴル人はラマ僧と窮民だけだった。1924年、モンゴルがロシアに次いで世界で二番目に共産主義国家を作ったのも、漢族から国を守るた めだった。現代のウランバートルに中国人は僅かにいるだけとか。
 モンゴルに蒙古という字を当てるが、蒙とは無知蒙昧から来ており、要するに馬鹿阿呆の意味だ。

 1973年にモンゴルを旅した司馬遼の通訳をしたモンゴル女性ツェベクマさんも、激動の時代に巻き込まれた半生だった。大正13(1924)年生まれのツェベクマさんは、娘時代女学校に通い、その教師は高橋シゲ子という日本人だった。高橋先生は日本語で教育し、しつけは厳しかったものの、「日本化してはいけない、私はあなた達にモンゴル人としての誇りを持って欲しいのです。それだけが私の教育方針です」と言っていたらしい。
  のちにツェベクマさんは日本留学体験もあるモンゴル男性と結婚するが、大学教授だった夫は文化大革命で“右派”として槍玉に挙げられ、集会で吊るされ、壁 新聞で攻撃された挙句、投獄された。特に夫婦とも日本語が巧みだったのがまずかった。ツェベクマさんは幼い娘を連れて外モンゴル(モンゴル人民共和国)に 亡命する。司馬遼は彼女の性格をこう表現している。
「しかし彼女の性格の仕組みは絶望という休眠の機能を持ってないようで、川の岩を跳びながら渡るように、次の岩に向かって身を翻すひとであった。詩的に言えば、騎馬民族の末裔としか言いようがない

 ツェベクマさんも2年前の3月、病気で亡くなられた。享年79歳。

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4 コメント

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Unknown (hui)
2006-05-10 22:16:10
お久しぶりです。



そう言えば、ツェベクマさんをNHKの番組でお見かけした事がありました。司馬先生の街道シリーズです。

さすがに司馬先生は、物の見方が斬新というか新鮮ですね(でしたね)。

北方の騎馬民族が徐々に南下(侵略)、というイメージしかありませんでしたが、農耕民の野良仕事が騎馬民族にとっては「侵略」であったとは気がつきませんでした。



ところで、現在の歴史界では、日本人のルーツをめぐって何やらもめている気配でもあるんですか?
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価値観 (Mars)
2006-05-11 21:06:10
こんばんは、mugiさん。



現代の私たちから見れば、「焼畑」は非効率的な方法と思うでしょう。しかし、同じ畑で農作物を作ろうとしても、やはり肥料は必要ですね。もしかすると、農作物を育てるということが、私たちが考えている以上に、土地の養分を奪うものかもしれませんね。



儒教の影響が残る国家では、日本人が考える以上に、自分以外の他の価値観を認められない事に、最近、特に感じます。また、戦前の日本にしても、現代の日本にしても、恐らく、儒教的価値観とは、似て非なるものだと思います。例えば、朱子学にしても、全てを受け入れるのではなく、必要最小限の部分のみ、取り入れた事からも、それが伺えます。



ところで、mugiさんは藤原正彦氏著書の「国家の品格」という本はご存知でしょうか?養老孟司氏著の「バカの壁」よりも早く200万部を突破したそうですが。私は未読ですが、国家に品格を求めるというのであれば、氏の考え方には、到底、理解できませんが、、、。

(TV出演もしたそうです。国益、国益と求める国家は、品格がないといっていたようです。であれば、それこ、理解できません。やはり、数学者であれば、数式でのみ、価値観を計るものかもしれません。)

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街道シリーズ (mugi)
2006-05-11 22:13:56
>huiさん、こんばんは。

私もNHKの街道シリーズでツェベクマさんを見かけました。他界されたのは残念です。

彼女は来日した事が1度もないのに流暢な日本語を話すのは、やはり女学生時代の日本人恩師によるところが大きいと思われます。



司馬遼太郎は陳舜臣氏との対談で、清朝以前から中国の交易地帯で入植した農耕漢民族が草原を耕していたと言ってます。冬にこの地にいた遊牧民は夏に来たら畑になっているので怒る。はじめのうちは土地が広いから別の草原に行ったりしても、しまいには怒りが昂じて漢族の領域に武力で押し入る、その関係の繰り返しと言われていたのには、目からウロコでした。



日本人のルーツをめぐっては、決定的物証や史料文献がないから、いくらでもこじ付けが出来ます。どこかの国とこじ付けたがる連中が多いのでしょうね。
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品格 (mugi)
2006-05-11 22:19:41
こんばんは、Marsさん。



現代の農業肥料の大半は化学肥料ですよね。これを使用し続けると、土地が荒れてしまう可能性があります。もしかすると遊牧はエコロジーに合っているやり方だったかも。



儒教的思想では全て遊牧民族は悪と断罪されました。私もこれまでは遊牧民イコール野蛮人略奪者のイメージがありましたが、これは定住民の価値観でした。

現代己以外の価値観を認められない最たるところは、儒教圏とイスラム圏なのは明らかでしょう。



「国家の品格」は私も未読ですが、「バカの壁」は面白く読みました。

国家に品格を求めるのは理想であって、力がなければ品格も無理ではないでしょうか。 昔私の知人がこんな事を言ってました。

「金持ちだとバカも利口に見えるが、貧乏なら利口も馬鹿に見える」
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