その①の続き
ザンジバル革命で虐殺されたのはアラブ人だけでなくアジア系少数民族もおり、犠牲者数は5千~1万2千人と見られ、生き残った人々も財産の半分を没収され、ザンジバルを出国する羽目になる。身の危険を感じたフレディ・マーキュリー一家も脱出、イギリスに向かった。フレディの母もこの時を回想して、とても怖かったと話している。この革命騒ぎでもザンジバルのイギリス人は無事だったそうだが、やはり国外に逃れた。
革命により黒人主導のザンジバル人民共和国が成立するが、大統領となったのはアフロ・シラジ党(ASP)のカルメ議長。革命評議会を牛耳るオケロやウンマ(大衆)党の急進主義による政情不安を危惧したカルメは、大元帥のオケロを外遊に出したまま追放、治安回復と称し隣国タンガニーカに警官隊投入を要請する。革命と同年の1964年4月26日、ザンジバル人民共和国はタンガニーカと合併、百日足らずで消滅した。一旦はタンガニーカ・ザンジバル連合共和国と名称されるが、後のタンザニア連合共和国(通称タンザニア)である。
オケロはその後、ケニアやコンゴ民主共和国(旧ザイール)などをさまよって故郷のウガンダへ戻り、悪名高いアミン大統領によって暗殺されたと言われているが、詳しい消息は不明とか。
ザンジバルの黒人にはスルタンによる統治下でアフリカ大陸から奴隷として連れて来られたり、イギリス時代に丁子農場の労働者として移住して来たアフリカ人と、アラブ人が支配する前から島に住んでいた先住民のシラジ人がいるという。シラジとはイラン南西部の都市シーラーズから来ており、紀元前後にここからザンジバルに渡航してきた王族の末裔を自称しているのがシラジ人。但し、外見は黒人と全く同じだが、彼らは「アラブ人よりも正統なイスラム教徒」と自負しているそうだ。シラジ人はペンバ島に多いそうで、「ザンジバル&タンガニーカ」の管理人は彼らについて、こう述べている。
-しかしシラジ人の由来は実際のところかなりマユツバで、紀元前後に来たのなら当時はまだイスラム教は存在せず、ペルシャ(現イラン)では拝火教(ゾロアスター教)が全盛だったはずなのだが、神話にそういう「ツッコミ」を入れるのは野暮というもの。スルタンはじめアラブ人に抑圧されていた先住民の間で、「ホントは自分たちのほうが格上だぞ」という神話が生まれていったのかも知れない…
先日見た『アーリア人』(青木健著、講談社選書メチエ438)に、紀元後のサーサーン朝時代、シーラーズのある南西部(現ファールス州)の海港は貿易で栄えていたことが載っていた。海港を本拠地としてアラビア海、インド洋に船出し、東アフリカとも広く貿易を行っていた。遠くオマーンやイエメンにもかつてはゾロアスター教徒ペルシア人のコロニーがあり、現地駐在員や船員のための拝火寺院も建てられていたそうだ。そうするとシラジ人がペルシアから渡ってきたという神話は、全くの出鱈目ではない可能性もある。
ただ、パールシーが典型だが、ゾロアスター教徒は純血を尊び、例外を除き結婚は同教徒と行い、近代まで近親婚を繰り返していた民族である。ザンジバルに来たペルシア人ゾロアスター教徒が、黒人と混血を重ねイスラムに改宗したというのも考え難い。
ザンジバルに誕生したフレディを現地人はどう見ているのだろうか?4年前のネットニュース「イスラム教徒、マーキュリーの誕生パーティに反対」の記事にはこうある。
-ザンジバル(タンザニア)のイスラム教団体が、同国でフレディ・マーキュリーの生誕60周年記念イベントが行なわれることに抗議している。クイーンのフロントマンだった故マーキュリーは'46年9月5日に同国で誕生した。
イスラム教団体は、ゲイであることを公言し派手な生活を送っていたマーキュリーはイスラムを冒涜するものであり、土曜日(9日)に行なわれる予定のビーチ・パーティをキャンセルするよう申し立てている。ザンジバルは、'04年から同性愛の関係を結ぶことを法律で禁じている。
Association for Islamic Mobilisation and Propagationのリーダーは「我々は、若者にザンジバルでは同性愛が許されているとの印象を与えたくない。我々には、社会のモラルを守るという宗教に基づく責任があり、イスラムのモラルを堕落させるのは禁じられるべきだ」との声明を発表してる。NME.COMによると、もしパーティが開かれた場合、同団体はデモを行なう恐れがあるという。
このムスリムの抗議は因縁以外の何物でもない。フレディはゲイであることは正式に公言しておらず(もっともバレバレだったが)、非ムスリムである。ゾロアスター教徒を冒涜、迫害したのもムスリムであり、それゆえインドに逃れたのこそパールシーの先祖だった。そして 19世紀までは同性愛に寛容だったのこそイスラム圏であり、wikiにも「イスラーム世界の少年愛」との解説がある。
ザンジバルの現地人全てがイスラム教団体に共感しているとは思えないが、改めてイスラム圏でのロックの受容の難しさを感じさせられた。
■参考:「フレディ・マーキュリー/華やかな孤独」(リック・スカイ著、シンコー・ミュージック)
◆関連記事:「ボヘミアン・ラプソディ」
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ザンジバル革命で虐殺されたのはアラブ人だけでなくアジア系少数民族もおり、犠牲者数は5千~1万2千人と見られ、生き残った人々も財産の半分を没収され、ザンジバルを出国する羽目になる。身の危険を感じたフレディ・マーキュリー一家も脱出、イギリスに向かった。フレディの母もこの時を回想して、とても怖かったと話している。この革命騒ぎでもザンジバルのイギリス人は無事だったそうだが、やはり国外に逃れた。
革命により黒人主導のザンジバル人民共和国が成立するが、大統領となったのはアフロ・シラジ党(ASP)のカルメ議長。革命評議会を牛耳るオケロやウンマ(大衆)党の急進主義による政情不安を危惧したカルメは、大元帥のオケロを外遊に出したまま追放、治安回復と称し隣国タンガニーカに警官隊投入を要請する。革命と同年の1964年4月26日、ザンジバル人民共和国はタンガニーカと合併、百日足らずで消滅した。一旦はタンガニーカ・ザンジバル連合共和国と名称されるが、後のタンザニア連合共和国(通称タンザニア)である。
オケロはその後、ケニアやコンゴ民主共和国(旧ザイール)などをさまよって故郷のウガンダへ戻り、悪名高いアミン大統領によって暗殺されたと言われているが、詳しい消息は不明とか。
ザンジバルの黒人にはスルタンによる統治下でアフリカ大陸から奴隷として連れて来られたり、イギリス時代に丁子農場の労働者として移住して来たアフリカ人と、アラブ人が支配する前から島に住んでいた先住民のシラジ人がいるという。シラジとはイラン南西部の都市シーラーズから来ており、紀元前後にここからザンジバルに渡航してきた王族の末裔を自称しているのがシラジ人。但し、外見は黒人と全く同じだが、彼らは「アラブ人よりも正統なイスラム教徒」と自負しているそうだ。シラジ人はペンバ島に多いそうで、「ザンジバル&タンガニーカ」の管理人は彼らについて、こう述べている。
-しかしシラジ人の由来は実際のところかなりマユツバで、紀元前後に来たのなら当時はまだイスラム教は存在せず、ペルシャ(現イラン)では拝火教(ゾロアスター教)が全盛だったはずなのだが、神話にそういう「ツッコミ」を入れるのは野暮というもの。スルタンはじめアラブ人に抑圧されていた先住民の間で、「ホントは自分たちのほうが格上だぞ」という神話が生まれていったのかも知れない…
先日見た『アーリア人』(青木健著、講談社選書メチエ438)に、紀元後のサーサーン朝時代、シーラーズのある南西部(現ファールス州)の海港は貿易で栄えていたことが載っていた。海港を本拠地としてアラビア海、インド洋に船出し、東アフリカとも広く貿易を行っていた。遠くオマーンやイエメンにもかつてはゾロアスター教徒ペルシア人のコロニーがあり、現地駐在員や船員のための拝火寺院も建てられていたそうだ。そうするとシラジ人がペルシアから渡ってきたという神話は、全くの出鱈目ではない可能性もある。
ただ、パールシーが典型だが、ゾロアスター教徒は純血を尊び、例外を除き結婚は同教徒と行い、近代まで近親婚を繰り返していた民族である。ザンジバルに来たペルシア人ゾロアスター教徒が、黒人と混血を重ねイスラムに改宗したというのも考え難い。
ザンジバルに誕生したフレディを現地人はどう見ているのだろうか?4年前のネットニュース「イスラム教徒、マーキュリーの誕生パーティに反対」の記事にはこうある。
-ザンジバル(タンザニア)のイスラム教団体が、同国でフレディ・マーキュリーの生誕60周年記念イベントが行なわれることに抗議している。クイーンのフロントマンだった故マーキュリーは'46年9月5日に同国で誕生した。
イスラム教団体は、ゲイであることを公言し派手な生活を送っていたマーキュリーはイスラムを冒涜するものであり、土曜日(9日)に行なわれる予定のビーチ・パーティをキャンセルするよう申し立てている。ザンジバルは、'04年から同性愛の関係を結ぶことを法律で禁じている。
Association for Islamic Mobilisation and Propagationのリーダーは「我々は、若者にザンジバルでは同性愛が許されているとの印象を与えたくない。我々には、社会のモラルを守るという宗教に基づく責任があり、イスラムのモラルを堕落させるのは禁じられるべきだ」との声明を発表してる。NME.COMによると、もしパーティが開かれた場合、同団体はデモを行なう恐れがあるという。
このムスリムの抗議は因縁以外の何物でもない。フレディはゲイであることは正式に公言しておらず(もっともバレバレだったが)、非ムスリムである。ゾロアスター教徒を冒涜、迫害したのもムスリムであり、それゆえインドに逃れたのこそパールシーの先祖だった。そして 19世紀までは同性愛に寛容だったのこそイスラム圏であり、wikiにも「イスラーム世界の少年愛」との解説がある。
ザンジバルの現地人全てがイスラム教団体に共感しているとは思えないが、改めてイスラム圏でのロックの受容の難しさを感じさせられた。
■参考:「フレディ・マーキュリー/華やかな孤独」(リック・スカイ著、シンコー・ミュージック)
◆関連記事:「ボヘミアン・ラプソディ」
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キューバが訓練して送りこんだ革命家が、アラブ人支配階級を追い出し、パールシーのマーキュリー家も逃亡せざるを得なかった!・・・なかなか壮大な歴史が60年代に展開されていたようですね。
我々日本人の大部分は、そういうアフリカの動きには、全く無知です。
一つ小生が聞いた話では、アフリカ東部は、季候が良く、雨も降り、農業を頑張れば、豊かになりうる国が多いという。ケニア、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、タンザニア・・・問題は、民族対立が足を引っ張るとか。これらの国々のほとんどで、少数民族のツチ族が支配階級で、頭脳を独占し、軍部を牛耳る、と聞いたこともある。
それでも、最近は、ルワンダなどで、海外亡命組で、海外で高い教育を受けたツチ族が資本を持って帰国して、新しい知識に基づき殖産興業を開始して、経済が上向いている、しかも、中国資本との提携で、経済の底上げが行われているらしい。アフリカも、21世紀的なグローバル経済で、進歩していくのかも知れません。相変わらず、ツチ族主導らしいのが、気がかりですが。
私も実はザンジバルはもちろんアフリカの歴史はまるで無知で、フレディのことがなかったらザンジバルのことなど調べなかったでしょう。そして明治時代、ザンジバルにまで渡っていた日本人娼婦がいたことは初耳です。その女性はその後どうなったのか気になりますが、日本人娼婦はかつてアフリカにも行っていたとは本当に驚きました。
ルワンダのツチ族のことも私は無知ですが、少数民族の方こそ優秀な傾向があるのかもしれませんね。植民地時代、欧州人は支配協力者としてツチ族を優遇し、ツチ族も利権を得てきたため、未だに多数派の憎しみは続いているのではないでしょうか。パールシーもそうですが、彼らは英国人と共存共栄してきたのは事実だし、そのためインドのムスリムから襲撃を受けたこともあるし、ヒンドゥーからも怒りをかった時もあるのです。
ビアフラ戦争(ナイジェリア内戦)をご存知でしょうか?この時も植民地時代に優遇された宗教の異なる少数民族を、多数派が迫害、虐殺するといったパターンでした。これもまた、傭兵を描いた英国の小説『戦争の犬たち』を読んで知りました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%A9%E6%88%A6%E4%BA%89
いつぞや、国際情勢を観察するときには、ヤクザ映画の筋書きとか、論理とかを参考に思考すると、よりよく理解できると、書いたように思う。
さすがに、評論家の一部もそのことを実行しているようで、下記の記事は、参考になると思う。
http://blog.goo.ne.jp/itagaki-eiken/e/31249351b815caaba76696aa2e5898fd
この評論家の意見も、偶には面白いです。
面白い記事のご紹介を有難うございました。板垣氏は評論家ですか。朝鮮戦争時の金日成は実は中国人で偽物だったというのは、結構陰謀論ではよく見られる意見ですね。その真偽はともかく、中共あたりなら傀儡を立てて牛耳るのは朝飯前でしょう。
そして菅首相は「酒の乱」状態とは。とにかくあのくたびれた首相の顔つきを見ただけで、げんなりさせられます。一国の首相の顔があんなに生気がないだけでも、その国は暗雲が漂っています。