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印度細密画の世界 その三

2013-09-10 21:36:44 | 読書/インド史

その一その二の続き
 ラジャスタニ絵画とパハリ絵画に二分されるラージプト絵画だが、それぞれの地域ごとにも派があり、ラジャスタニ絵画の一派メーワール(現ウダイプル)派の解説に見るエピソードは興味深い。メーワール王国の支配者はマハーラーナー(王の中の王の意)と呼ばれ、中世に盛んになったイスラムの侵略によるヒンドゥーの抵抗のリーダーであり、剛勇と騎士道精神で知られていた。
 だが、王国の要塞チットールガルも決して難攻不落ではなく、3度陥落している。その1回目は1303年、ハルジー朝アラー・ウッディーンの包囲によってだった。

 デリースルタンがメーワールに侵攻してきたのは、メーワール国王ラタン・シンの妃パドミニが目的だった。彼女の美貌はインド中の評判であり、ウッディーンは王妃を欲した。ただ、ウッディーンの包囲は成功せず、そこでパドミニを一目見たら立ち去ると約束する。彼の申し出は聞き入れられ、パドミニは鏡に映した姿を見せた。その後ラタンは礼儀正しく、アラー・ウッディーンを彼のキャンプに送り届けた。
 しかし、そこでラタンは捕らわれてしまう。鏡に映した姿だけで、アラー・ウッディーンの情熱は燃え上がってしまったのだ。彼はパドミニに伝言を送り、自分のハレムに入ってくれれば主人を解放すると伝えた。それに対しパドミニは、自分の威厳に相応しいやり方で迎えられることと、30分の間、夫と別れの会見をするという条件を付ける。

 そして700台の駕籠がすべてカバーされてアラー・ウッディーンのキャンプに向かう。パドミニと召使いの代わりに兵士が隠れており、ラタン・シンを救出、要塞に連れ帰った。アラー・ウッディーンはこの策略に怒り、猛攻を仕掛け、勝利する。
 抵抗が無駄と知るや、女たちは殉死のため特別な部屋に退いた。この部屋は中央に火を焚く深い穴があり、高い天井から沢山のブランコが下がっていた。パドミニや女たちは正装をしてブランコにのり、火の中に落ちて殉死していった。男たちはサフラン色の衣装を着て、戦って死ぬ。有名なジャウハル(集団自決)である。チットールガルは略奪、破壊された。
 1540年、パドミニの物語が描かれ、以降メーワール絵画の挿絵のテーマとして取り上げられるようになったという。パドミニはオウムがお気に入りだったため、彼女はオウムを持った婦人像で描かれているそうだ。

 現代人の感覚からみれば、1人の美女を得たいがために戦をする王、火の中に飛び込み殉死する女たちなど狂気の沙汰としか思えないが、著者はラージプート気質を次のように説明している。
 ラージプートという言葉は武勇、騎士道、愛国精神などと同義語である。「家族が危険にさらされている時、宗教が危うい時、女性が苦しんでいる時、それが戦う時である」とラージプートの詩人は言っている。戦争は一種のレクレーションだったのだ。今でさえラージプートの人は武器を持つことが本当の職業だと思っているという。

 武勇に加えラージプートは種族根性、血族の反目、種族間の敵対もし合ったので、侵入者に対し一致団結して立ち上がることが出来なかった。それゆえラージプートの国はそれぞれムガルに征服されてしまう。戦闘においてもラージプートの軍隊は最後まで戦い、男たちは敗北して帰宅するより死を選んだ。女たちも男たち同様猛烈にプライド高く、負けて帰る夫たちを喜んで迎えることを拒んだ。
 戦うことはラージプート達にとって宗教的義務と考えられていた。だから彼らは同じラージプートだろうと、外国の侵入者であろうと任務の遂行に命を懸けた。

 その死から2世紀後に書かれた故、パドミニの伝説は脚色もあると思われるが、中世インドのラージプートと我が国の武士道精神を比べるのも一興と思う。武道を重んじる集団は人種が違っても、行動が似てくるのだろうか。
 未だに日本ではインドや中東の細密画はマイナーであり、大都市の美術館で展覧会が開催されることはまずないのではないか。芸術は国境を越えるというし、これら地域の細密画を見れば、もっと紹介されてもいいと思うのはインドオタクだけではないはず。

◆関連記事:「マハーラーナーと呼ばれた王

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2 コメント

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集団自決 (室長)
2013-09-12 00:20:51
こんばんは、
 インドにこのような集団自決の物語があるとは、なかなかロマンチックですね。確かに、無残な感じもするけど、一人の女性を巡って、武勇を振るう、負けるのが分っている敵軍=大軍と戦う武勇というのは、物語としてはロマンチシズムの世界です。

 どこの国でも、こういう武士道精神というのは、少なくとも物語としては、あるのかもしれないけど、どうやらある程度は史実に基づいているらしいことも、凄いことです。だけど、部族根性で、国という段階への忠誠心というのがないのが、大きすぎる大陸のせいで、進化の過程が一段低く見えてしまう。「八重の桜」などを見ていると、会津という「国」への愛国心というのがきちんとある。必ずしも主君への忠誠心だけではなく、会津という「国」への愛国心があるから、次に「日本国」への愛国心に繋がることが明白です。

 他方で、アラブとかでも、部族中心主義で、より少し大きな単位としての「国家」に対する、民族国家という単位への信頼感、愛国心は薄いのではないか?などと考えてしまう。シリアのように、アラウィ―派、他のシーア派、キリスト教徒、スンニ派(この中にも、いくつかの派閥がありそう)などに細かく分かれていて、民族国家としてまとまることは不可能に近いらしい。これに比べれば、極東の方は、まだしも国民国家が多いように思える。

 インドも、恐らく、多民族過ぎるし、同じ民族内でも、大家族とか、部族とかが重要で、国家全体への愛国心、団結心は、まだ緩いのでしょうね。まあ、その方が、国際情勢的には助かるかも。
 
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RE:集団自決 (mugi)
2013-09-12 21:48:16
>こんばんは、室長さん。

 この本で紹介されていた細密画の各派の解説の中で、やはり上記のエピソードが一番印象的でしたね。王妃以下宮廷の女性たちがブランコに乗って、火に飛び込む…「死のブランコ」があったというのは驚きます。非業の最後だし、私ならとてもやれませんが、ロマンチシズムも感じさせられる物語でした。

 インドは今でもカーストと血族が最優先される社会です。だから部族社会と言っても過言ではなく、カーストや部族追放にされれば、その人は社会で生きていけません。日本的な村八分よりも村十分と言った方が正確かもしれない。葬式や火事は除外する日本に対し、カースト追放された者ならば、その共同体には住めず葬儀も世話してもらえません。この掟はヒンドゥーに限らず、ムスリム、シク、クリスチャン、パールシーも同じです。

 英国支配がインドに民族意識を芽生えさせたとも言われますが、同カーストや種族同士は団結し合い、カーストや宗教が異なれば殆ど異民族扱いでしょうね。裁判時でもカースト制が発揮され、同カーストを支援するため裏工作もザラ、これが司法の腐敗に繋がっています。
 カースト制こそなくてもアラブ世界も事情は似ており、「中東の笛-イスラム世界の縁故主義」という記事を前に書いています。シリアに限らず他のアラブ諸国も、民族国家としてまとまることは不可能に近いはず。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/7eeff34b6aa304e9bded9b63e50c474b

 インドの官憲の汚職や腐敗はシナといい勝負です。民衆はお上を信用していないし、仰る通り大家族や部族などが重要。国家全体への愛国心、団結心は希薄です。インドのような人口、領土ともに大国が一同団結していれば、国際情勢的にはかなり脅威となるでしょう。大陸から離れた島国という点で、英国も日本も助かりました。
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