その一の続き
64年7月のローマ大火後に行われたキリスト教徒迫害の犠牲者数は、タキトゥスをはじめとするローマ時代の史家が誰も書き遺していないため、正確な数は今もって不明という。
ただ、現代の研究者たちによれば、処刑が手の込んだセンセーショナルなものであったこと、ローマ以外の都市のキリスト教徒コミュニティの規模から推測した結果、2~3百人の間だったというのが定説。
これだけの数の人々の処刑は、キリスト教に無関係だった一般市民の眼を引くには十分だった。ネロが単なる処刑よりも残酷な見世物にするつもりでいたからだ。ヴァチカンにあった競技場が刑場に供せられる。
一部の信者は野獣の毛皮を被らせられ、野犬の群れに喰い殺されて死ぬ。その他の人々は、ローマ時代には一般的な処刑法だった十字架に架けられる。残りは夜の見世物にとって置かれた。地表に並び立った杭に1人ずつ括りつけられ、生きたまま火をつけられるのだ。燃え上がる人柱の集団をローマ市民は観客席で、ネロは競技場内に引かせた戦車の上から観賞した。
近代までは全世界で公開処刑は当たり前だったが、キリスト教徒への酷い処刑に、快哉を叫ぶローマ市民ばかりではなかった。総じてネロやキリスト教徒には厳しい見方を取るタキトゥスさえ、こう書いている。
「この人々がより重い罰に値したとしても、処刑の仕方の残酷さは、それを見る市民たちの胸を同情の念で満たした。市民たちは知っていたのだ。キリスト者と呼ばれるこれらの人々への残酷な運命は、公共の利益のためではなく、ただ一人の人の残酷な欲求を満足させるためであることを知っていたのである」
人々から忌み嫌われていたキリスト教徒を放火犯に仕立てることで、自分に向けられていた市民たちの疑いを晴らそうとしたネロの意図は完全な失敗だったが、ネロが放火したという噂は後世まで残ることになった。
同時にタキトゥス含めローマの史家・文人の多くは、キリスト教に嫌悪感を抱いており、タキトゥスも『年代記』でこう述べていた。
「キリスト教徒は日頃から忌まわしい行為でローマ人等に恨み憎まれていた」「この有害極まりない迷信が、最近再び都で猖獗を極めていた」
“日頃から忌まわしい行為”とは何だったのか、『年代記』未読なので不明だが、想像はつく。他の宗教を認めぬキリスト教徒はローマにある神殿を糞尿で汚したり、建物を破壊、偶像崇拝を根絶するとばかりに神像破壊に血眼になったはず。かつての日本のキリシタンと同じく。サーサーン朝ペルシアに亡命した景教徒もテロ行為を繰り返し、現地のゾロアスター教徒を激高させた。
忌み嫌われていたのはユダヤ教徒も同じだが、ネロの2番目の皇后ポッパエアはユダヤ人の保護者であり、ユダヤ人居住区は大火の被害を受けなかったにも関らず、放火犯だと疑われ迫害されることはなかった。ポッパエアがユダヤ人を保護したのは、後者が金品や宝石なとの贈り物をしていたことがあるようだ。
そしてキリスト教徒とユダヤ教徒は、布教する前者としない後者という決定的な違いがある。『ローマ人の物語Ⅶ』には『クオ・ヴァディス』からの一場面の紹介がある。ローマ有数の知識人でありネロの側近でもあるペトロニウスを、ローマで布教中のペテロが訪問、キリスト教に帰依するよう熱心に説く。それに対しペトロニウスはこう答える。
「あなたの説く教えは、きっと正しいものだろう。だがわたしは、死なねばならない時は、自ら毒杯をあおることを知っている。だから、放って置いてほしい」
『クオ・ヴァディス』紹介後、塩野七生氏はこう述べていた。
「放って置かないのが、キリスト教なのである。キリスト教の立場からすれば、放って置かないのも当然だ。彼らが信じる神は唯一神であり、その神を信じない人は真の宗教に目覚めないかわいそうなひとなのだから、その状態から救い出してやることこそがキリスト者の使命と信じているからである。だがこれは、非キリスト者にしてみれば、“余計なお節介”になるのだった」(ハードカバー版463頁)
21世紀でもキリスト教徒が“余計なお節介”をするのは変わらない。ネットでもそんなキリスト教徒が徘徊しており、拙ブログにもNobなる自称カトリックによる長文コメントに、こんな意見があった。
「己の心を貧しくすることです。徹底的に貧しくなると私たちは神から浄化されます……」(2011-02-19)
キリスト教が国教化されて以降、ネロはキリスト教徒を迫害した最初の皇帝として語られるようになり、キリスト教圏でのアンチキリストの暴君としてのイメージが確立、現代に至っている。
キリスト教嫌いの私でもネロの迫害は酷いと感じる。しかしネロ最大の大罪は母殺しにあると私は思っている。ローマ大火後には迅速な再建施策を実行し、ローマ復興は急速に成し遂げられ、タキトゥスもこれを称賛している。しかし迫害ばかり見るキリスト者は再建施策をまず認めないだろう。
◆関連記事:「強い多神教と弱い多神教」
「もしもイエスが生まれなかったならば」
その意味では兄弟殺しの唐の太宗や清の康熙帝は凄いと思います。
アショーカ王のように若い頃は暴君でも晩年に名君になった君主もいますが、治世を通して名君というのは、在位が短期間でなければ難しいかもしれません。
父親や兄弟殺しの君主はいますが、全てが暴君とは限らず、太宗や康熙帝のような優れた君主もいます。伊達政宗もたった1人の弟を斬っていますが、バカ殿という人はいない。
ポーランドのテレビドラマでは、ローマで発生している迫害から脱出しようとしていたペテロがキリストに出会ってローマへ戻ります。すると、ペテロが行く先に現代の都市が映って終わりました。古代から現代に続くキリスト教と言う事ですね。
クライマックスはやはりキリスト教徒に対するコロセウムの虐殺で、これが一番の見せ場です。ネロは凡庸で狂気の人物、ペトロニウスはネロを軽蔑しながら操るのですが、最後は主人公たちを庇おうとしたのが元でネロの寵愛を失い、大宴会を開いてその中で自殺します。医者に手首を切らせてネロに対して当てつけの手紙を読み上げたり、娯楽を楽しみながらゆっくりと出血多量で死ぬのですが、この辺りはある程度史実に沿っています。
しかし、自殺しながら宴会を楽しむ神経の太さは、さすがに古代ローマの貴族です。
クォ・ヴァディスは映画化もされていますね。行きつけのツ〇ヤにDVDがありましたが、どうせキリスト教史観に基づいた作品だろうと思い、原作、DVDともに見ていません。ポーランド人のアイデンティティはカトリックなので、ローマは悪の帝国でなければならない。
原作者はキリスト教徒が異教の神殿を破壊した史実を知っていながら、伏せていたことも考えられます。淫祠邪教の巣窟なので、異教の神殿を破壊するのは使命と信者は考えていたはず。登場するキリスト教徒は偏屈な人間はいても、基本的に穏やかで善良という設定は日本の時代劇のキリシタンと同じで苦笑しました。
史実でもペトロニウスは自殺を命じられていますが、大宴会を楽しみながらの自殺とはスゴイ。やはりローマの貴族は違いますね。日本の平安貴族なら絶対無理でしょう。
結局、悪徳のローマが神の統治する都に変化するのですが、ローマの文化を代表するペトロニウスの死を作者は惜しんでいて、この辺りはローマを偉大とするヨーロッパ人の考え方だと思います。しかし、作中で異教の神殿を破壊するシーンが出たら、全くキリスト教徒に感情移入ができなくなりますよ。キリスト教徒のユダヤ人も登場しました。
大宴会の中の自殺など、中国王朝でこのような事があったかどうか聞いたことがありません。もっとも、大宴会を開いて自殺するような時間の余裕もないでしょうし、却って皇帝の怒りを招いて更に連座する人間が増えるだけに思えます。第一、平安貴族は結構暴力的ですが、自殺した人間というのを知りません。
クォ・ヴァディスは未読ですが、確か主人公はクリスチャンの女性と出会い、傲慢な性格が変わっていくのですよね?ネロは傲慢な女の影響で暴君化したような。
ネロの宴会では、天井が開いて薔薇の花びらや香水が降ってきたことにはスゴイとしか言いようがありませんが、同時代の日本は弥生時代、、、
しかも皇帝のみならずローマの富裕層まで同じ仕掛けのパーティーをしていたのだから、改めて古代ローマの高度な文明が伺えました。
ペトロニウスの死を作者が惜しんでいたとは知りませんでした。キリスト教徒迫害を提言しなかったこともあったのやら。
イエスもユダヤ人だったし、周囲にイエスの教えを説いたのもユダヤ人相手でした。そのため初期のキリスト教徒はユダヤ人が多かったそうです。作者がキリスト教徒による異教の神殿破壊を知っていたとしても、信者には些事にすぎません。
中国王朝で大宴会の中の自殺など考えられませんね。多神教社会のインドでも聞いたことがありません。そういえば平安貴族の自殺も聞きません。
そうです。彼は名門のローマ貴族かつ端正な容姿の若者で、金持ちで高位の軍人です。ここだけだとフェルセンですが、フェルセンと異なり、遠い異国で発生した戦闘にも参加して負傷もしています。
その彼がとある将軍の家で養育されている、ローマに人質としてやってきた金髪碧眼のスラヴ系の女性に一目惚れ、叔父のペトロニウスに相談して、ネロから許可を得た上で愛人にしようとします。ネロの宴会は、このローマ貴族がヒロインを口説く場面です。宴会に出席する前にヒロインが入浴して化粧をしてもらう場面がありますが、金粉入りの化粧品を使うローマはやはり先進的です。
宴会で主人公がヒロインを口説くものの強引すぎて失敗、日を改めて彼女を養育している将軍の家から奴隷たちに命じて強引に連れ出そうとするのですが、彼女もキリスト教徒の力を借りてローマに潜伏します。役目に失敗した奴隷に主人公が激怒して拷問を命じる辺りはひどいものです。当時は奴隷に人権はありませんから、当たり前なのでしょうが。
その彼が葛藤した挙げ句に彼女や周囲のキリスト教徒に感化され、自分もキリスト教徒になるのですが、ネロの迫害に彼女も巻き込まれると言うお話です。ペトロニウスはヒロインの連れ出しを手伝ったりと不道徳な面がありますが、彼の美意識からネロに対しても見苦しい媚び諂いは行わず、キリスト教徒に関心を持つ場面もあります。ヒロインはいささか影の薄い印象がありますが様々な脇役の描き方が魅力的で、この辺りはキリスト教の改心物としてよく書けています。
行き付けのツ○ヤにクォ・ヴァディスのDVDがあり、パッケージはローマの甲冑をまとったイケメンが金髪美女をお姫様抱っこしている写真でした。コピーは確か「守る!この命に代えても」だったような。
パッケージ裏の解説に一目惚れした美女がキリスト教徒で、初めは強引な手段を使って彼女を手に入れようとしたことが載っていたのを憶えています。借りるか迷いましたが、定番のキリスト教徒迫害モノと感じたので止めました。
役目に失敗した奴隷に拷問を命じるのは現代人の倫理では許されませんが、当時は奴隷への折檻は当たり前だったし、19世紀アメリカでも黒人奴隷への折檻は当たり前に行われていました。
そしてヒロインが金髪碧眼のスラヴ系の女性というのは、いかにもポーランド人作家らしい。ポーランドは東欧一の美人国でも知られますよね。冷戦中でも国営ビール会社でヌード女性を描いたビール缶を製造したことがあり、お堅いイメージのある共産圏にしては意外と感じました。
対照的に日本共産党はポルノはケシカランと言っていました。