輪廻の沼 3

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格闘ゲーマーを批判する大人達へ

2015年11月03日 08時56分53秒 | 心理学

格闘ゲームは大人が言うほど社会的に害か?
これに関しては明らかに否と言いたい。ある大人が「格闘ゲームのような暴力的なゲームのせいで、若者は犯罪に手を染めた。今日の犯罪の多くがゲームのせいだ。」というものであった。

格闘ゲームの犯罪者はいない事もないが、他のゲームと比較しても統計的に低い値を示している。

格闘ゲームは素晴らしい発明である。それまでのケンカやファイトは筋力や経験、身体的長所に裏打ちされた物質量が揃っていないと優劣が決められない。

しかし、格闘ゲームはそれらに依存しない。つまり、老若男女問わず楽しめる事を意味する。ボクシングの世界でパウンドトゥパウンドの話がある、異なる階級がもし同じ階級だったらどちらが勝つかみたいな話である。

格闘ゲームはパウンドトゥパウンドだ。プレイヤーの年齢差、性差を全て埋めてくれる。

格闘ゲームは、生物の成長とも合致する。ある大人が「争うなんて馬鹿げている」と平和主義を唱える。

だが、我々の歴史を見れば分かるように戦争は常に生じてきた。そればかりか、個人的な争い事は常だ。

なぜ人はこれほど争うのか?

答えは簡単である、自然界を見てみるといい。キツネやライオン、猿なんかでも良い、多くの哺乳類は子供時代に兄弟や同じ年の仲間とじゃれあっている。

生物学者には、こうして兄弟同士でじゃれ会う事で戦うための術を身につけているという。

こうした習性は、実は魚類の時代から存在している。アユの友釣りなんかはまさにそう。つまり、我々の心理には「戦いたい」という心理がある。

それが異性や母性と結びつくと生存競争や、母親が子供を守る本能へと変わる。

戦うとは、生物が成長する上で身につける基本的な欲求なのである。教育者やみせかけの規範意識を強要する大人はこれを否定する。

人間はこれを否定するからおかしくなる。

雨降って地固まるというが、雨さえ降らない社会ではなかろうか?今の日本人の多くが、心の世界では乾いている。

格闘ゲームに問題がない訳ではない。一つは痛みを感じない事だろう。相手を殴ったり蹴ったりして相手がどれくらい痛いかが分からない。

教育者はこれが問題だという。

だから、格闘ゲームがしているキャラの技をリアル真似してしまった輩もいる。しかし、その技を真似して社会的な問題を起こすまでに多くの人間がリアルファイトを経験していると思うのだ。

ケンカもした事がないのは、よっぽど大事にされた良い子だろう。こういう良い子が社会的に重大な事件を起こせば、なんであんな良い子が、あんな良い家庭がとなる。

答えは簡単である、人間はそれが当たり前と思っている事が、実は生物の本来の生き方から大きく外れてしまったからである。

格闘ゲームをすることで生物の中にある基本的な欲求が満たされている事を脳学者や教育者は認めていない。

考えてみれば、男女を分けたり、大人と子供を分けたりしているのも人間だけなのだ。人間だけであるにもかかわらず、人間は我々は他の生き物と違うという。

でも、私みたいな人間には人間も他の生き物の違うものかと思う。人間が生き物である以上、欲求の支配から逃れる事は出来ないからだ。

教育や文化、社会は価値というツールを使ってそれを捻じ曲げたけど。それでも人は人であり、欲しい何かがあるから、怒ったり、苦しんだり、喜んだり、悲しんだり、楽しんだりできる。

そこに戦いがあるのなら、それを批判する方こそ内部的な心理は歪んで成長してきたと言わざるおえない。


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