映画のオールド・ファンにとっては必ず、ラフマニノフはあるイギリス映画と結び付けて思い出されるだろう-デヴィット・リーンの「逢びき」である。シリア・ジョンスンとトレヴァー・ハワード、戦後イギリス映画の隆盛を先駆けた名画。
ストーリーは、貞淑な人妻のひと時のメロドラマ、というありふれたものだ。けれども、彼女の回想、自身の語りを通じて展開されるこの映画は、私に映画がどれほど小説的な芸術であるかを、はっきりと分からせてくれた。
けれども、今はこれ以上、映画の話はしない。
この映画全編に亘って-ちょうどヴィスコンティの「ヴェニスに死す」のように-ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番が流れる。そうして、両者は共に、名高いものとなった。
今で言うサントラということになろうが、劇中に流された演奏は、アイリーン・ジョイス女史によるもの。映画のあと、エーリヒ・ラインスドルフ指揮のロンドンpoと録音したレコードの復刻CDが、かつて発売されていた。
私はこれを漸く入手し、聴いた。
はじめに、アイリーン・ジョイスという女流は、オーストラリアはタスマニアの生まれで、女優からピアニストに転向したのだったか、とにかく容貌に相応の、経歴の持ち主である。
だから、華々しい技巧を発揮するヴィルトゥオーゾだとか、鍵盤が割れんばかりに豪壮な、ロシア系ピアニストの弾くラフマニノフとは、しぜんに趣を異にする。
決して腕が立つというのではないけれど、全体に実に丁寧に弾いているという印象が、ある。本邦のある女流ピアニストのように、無理をして強奏するような不自然さは少しもなくて、寧ろ終始中弱音くらいで弾くような、しっとりとした味わいを生み出し得た。
この曲の理想的な名演というのは、少ない。最近私はアール・ワイルドとヤッシャ・ホーレンシュタインが組んだ全集(CHANDOS)を聴いて、凄まじい勢いで弾きまくるピアニストと、濃厚の限りを尽くそうとする指揮者との、極めてスリリングな竸奏に惹かれた。
あるいはまた、モイセイヴィチ/サージェントのライヴ録音(BBC)も、テンポは流れるように速いが弱音を効果的に活かした演奏である。
むろん、アイリーン・ジョイスの演奏はそういうのとも違って、まるで掌中の珠を転がすような、曲に対する愛情を明確に感じさせる。けれどもそれは、決して赤裸々な、聴き手が恥ずかしくなるようなオーヴァーなものではなくて、ある慎みの深さを感じさせるところに、私はこの演奏の不思議な魅力を覚える。
これにはラインスドルフの伴奏もサポート著しく、いかにもザッハリッヒで職人仕事に終始しがちな彼にあっては珍しく、抒情的なしなやかさを生み出している。木管楽器の扱いも巧みで、私が聴いた中では、彼の一番美しい仕事のひとつに、これを数えたい。
伴奏が大言壮語しては、ジョイスの魅力は引き立たなかったろう。「協奏」の魅力ここにあり。
1946年の録音だけれど、DUTTONのマスタリングはいつもながらに聴きやすい。カップリングでは、プレヴィターリ指揮のメンデルスゾーンの1番コンチェルトを面白く聴いた。てらいの無い、率直な快演である。
なるほど、あの映画にはこの演奏が良かったろうと、改めて感心する。「忘れじの女流ピアニストたち」などという企画CDが、以前山野楽器から出ていたが、随分忘れるべからざる名女流が多いようだ。
ストーリーは、貞淑な人妻のひと時のメロドラマ、というありふれたものだ。けれども、彼女の回想、自身の語りを通じて展開されるこの映画は、私に映画がどれほど小説的な芸術であるかを、はっきりと分からせてくれた。
けれども、今はこれ以上、映画の話はしない。
この映画全編に亘って-ちょうどヴィスコンティの「ヴェニスに死す」のように-ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番が流れる。そうして、両者は共に、名高いものとなった。
今で言うサントラということになろうが、劇中に流された演奏は、アイリーン・ジョイス女史によるもの。映画のあと、エーリヒ・ラインスドルフ指揮のロンドンpoと録音したレコードの復刻CDが、かつて発売されていた。
私はこれを漸く入手し、聴いた。
はじめに、アイリーン・ジョイスという女流は、オーストラリアはタスマニアの生まれで、女優からピアニストに転向したのだったか、とにかく容貌に相応の、経歴の持ち主である。
だから、華々しい技巧を発揮するヴィルトゥオーゾだとか、鍵盤が割れんばかりに豪壮な、ロシア系ピアニストの弾くラフマニノフとは、しぜんに趣を異にする。
決して腕が立つというのではないけれど、全体に実に丁寧に弾いているという印象が、ある。本邦のある女流ピアニストのように、無理をして強奏するような不自然さは少しもなくて、寧ろ終始中弱音くらいで弾くような、しっとりとした味わいを生み出し得た。
この曲の理想的な名演というのは、少ない。最近私はアール・ワイルドとヤッシャ・ホーレンシュタインが組んだ全集(CHANDOS)を聴いて、凄まじい勢いで弾きまくるピアニストと、濃厚の限りを尽くそうとする指揮者との、極めてスリリングな竸奏に惹かれた。
あるいはまた、モイセイヴィチ/サージェントのライヴ録音(BBC)も、テンポは流れるように速いが弱音を効果的に活かした演奏である。
むろん、アイリーン・ジョイスの演奏はそういうのとも違って、まるで掌中の珠を転がすような、曲に対する愛情を明確に感じさせる。けれどもそれは、決して赤裸々な、聴き手が恥ずかしくなるようなオーヴァーなものではなくて、ある慎みの深さを感じさせるところに、私はこの演奏の不思議な魅力を覚える。
これにはラインスドルフの伴奏もサポート著しく、いかにもザッハリッヒで職人仕事に終始しがちな彼にあっては珍しく、抒情的なしなやかさを生み出している。木管楽器の扱いも巧みで、私が聴いた中では、彼の一番美しい仕事のひとつに、これを数えたい。
伴奏が大言壮語しては、ジョイスの魅力は引き立たなかったろう。「協奏」の魅力ここにあり。
1946年の録音だけれど、DUTTONのマスタリングはいつもながらに聴きやすい。カップリングでは、プレヴィターリ指揮のメンデルスゾーンの1番コンチェルトを面白く聴いた。てらいの無い、率直な快演である。
なるほど、あの映画にはこの演奏が良かったろうと、改めて感心する。「忘れじの女流ピアニストたち」などという企画CDが、以前山野楽器から出ていたが、随分忘れるべからざる名女流が多いようだ。