農大現代視覚文化研究会

「げんしけん」の荻上と「もやしもん」のオリゼーを探求するブログ

愛について

2006年03月10日 08時10分17秒 | げんしけん
現在泥酔中のすっとこさんは愛について語らなくてはならない

人間愛が無いと生きて行けない。ロジカルな文章ではないので誤解無いように翻訳すると、人間うまく生きていくためには、愛を知っていると、愛が潤滑剤になって、例えば人に優しくできるとか、罪を許せるとか、まぁいろいろありますが、愛などいらぬ!とか言ってるよりはマシな人生を歩める可能性が高まるのではないかと。OK?

ここで岸田秀流に言うと、人間は本能が壊れているので、愛の本能なんてありませんとなる。まぁ確かにその通りで、実際全人類共通の愛の形なんざ無いんである。ちょっと考えるとみかんとかハグとかあるかと思うが、じゃあとりあえず売春でも何でもみかんすれば愛ですか?と聞かれれば違うに決まっている。文化によって愛の形が違うので、例えばキスするとか、ラブレターを書くとか、求愛のダンスをするとか、チョコを送るとか、愛の言葉を囁くとか、やおい同人誌を描くとか。いろいろな愛の表現方法が文化によっていろいろあるのである。最後のはなんだ。

つまり愛するとゆーのも訓練とか学習しないといかんのである。普通の人は親に育てられているうちに、親の愛を受けられるので、その過程で訓練、学習を済ませられる、つまり愛するという行動がどのような行為かわかるのだが、ここで親にちゃんと愛されずに育った子がいると、その子は経験と学習を積めなかったために、人の愛し方を知らずに育つ。そして、自分が愛されなかったがために、人に自分を愛する事を求めてしまうのである。こいつが実にやっかいで、自分は貪欲に愛を欲しがるくせに、人への愛し方を知らないので、人に愛を与えられない。よってこの子と交際しても、遠からず破綻するであろう。以前げんしけん脳の恐怖、あるいは笹原兄妹の精神分析で書いたが、すっとこさんの分析によると恵子にこの状態が見られる。

さて次に本題。笹荻について考える。また話をすっ飛ばすが、人は人を愛することによって充足を得られる人と、人に愛される事によって充足を得られる人がいる。オギーについて考えると、大野さんが看破しているように、オギーは愛されるのを望むタイプである。では笹はどうか。先の考察を読めばわかる通り、やはり両親の愛が足りなかった笹だったが、アニメのキャラと脳内恋愛をする事によって、愛を学習しているのが笹である(としている)。すっとこさんも初代に『笹原くんの場合は、自分が得られなかった愛情を、自分が誰かに与えることで充足させようとしたんじゃないかな。』とか言わせたが、笹は人を愛する事によって安定を得るタイプだとすっとこさんは見た。てゆうかもうそう書いちまった。笹が告白されたらどんな反応を示すかシミュレートするのも楽しそうだ。まぁそれはともかく、という事は笹荻は愛される事を望むタイプと、愛する事を望むタイプで、これは非常に相性がいいのではないか。本スレの揶揄の1つに「劇的な成立過程があったとしても、それは永続を保証するものではない」とか訳知り顔で書く連中もいるが、そんな事は言われんでもわかっとるわい。そんな表面的な見方によらずとも、笹荻の事情をこのように考えれば、この二人はきっとうまくいくに違い無い。くそ、うらやましいな。


とゆー事を昨夜酔った勢いで書いたんだけど、こんなん酔ってないと書けんわ。てゆうかシラフの時だったらもーちょっと大人しめだった筈。書いちまったモンしゃああんめぇんで、うpってしまえ。確かもーちょっと言いたい事があった筈なんだけど忘れた。続き書くかも。

最新の画像もっと見る