農大現代視覚文化研究会

「げんしけん」の荻上と「もやしもん」のオリゼーを探求するブログ

「五年生」をさらにまた読み解く

2006年05月30日 09時44分12秒 | げんしけん以前
昨日の訂正。「4人それぞれが、他の3人の事をどう思っているか」と書いたが、「4人それぞれが、『4人』の事をどう思っているか」、つまり自分自身をどう見ているかという視点が欠けていた。アキオは部外者を徹底、本田さんも鳩村も自分がまさか『本当に』醜いとは思っておらず、吉村さんだけが客観的に自分と、全体の構造を把握しているというのが凄い。そこで全体を調停しようと、アキオに忠告をしたんだろうが、本田さんが意外に頑張ってしまったんで、116ページの表情が出てしまったと、そんな感じなのかなぁ。

そして第12話、芳乃さんの一目惚れ。既に何度か書いている通り、長谷川さんを好きになったのは、河合くんへの罪悪感への裏返しである。ここんとこの風通しをもーちょっと良くしてくれれば、「五年生」が多人数にとって名作に化ける可能性があったと思うんだけどどうかねぇ。「芳乃さんは河合くんに一目惚れした」とかゆー設定でもよかったと思うんだけど。ここんとこの隠蔽が強すぎたせいで、物語全体の風通しが悪くなってると思うよ。

ラブホシーン。裸の男女が月刊誌で4ヶ月、100ページ超に渡り哲学的論争を繰り広げる、マンガ史上後にも先にも無いであろうシーン。これを許したアフタヌーンは本当に偉い。まぁクラカチットの街まで載せるような雑誌だからな。基本的に余裕があるんだろう。余裕があるってのは素晴らしいねぇ。アキオって早漏なんか。木尾士目や俺がやるうつ伏せ方式だと長持ちするんだけど、本当にアキオって木尾士目じゃないのねぇ。芳乃さんの泣いたトリガーが、アキオの「あんまり会わないほうが調子いい」だったのは凄いな。元は自分で言ってたのに。

芳乃さんの一目惚れ告白は、アキオも先日本田さんで覚えがあるしねぇ。でも芳乃さんはそれを知らないので、何でアキオがそこまでショック受けるのかわからんのが伏線効果。本田さんの泣いてまで「好き」ってのを見た後じゃねぇ。「本当に好き」ってのが幻想なんですが、幻想同士がうまく噛み合うと感動的な話になってしまうのは「げんしけん」を見れば分かる通りなので、無下に否定できません。失敗した時に積極的に採用すればいいんじゃないですかね。タチわるー。アキオが「芳乃さんが自分の事が好き」なのを疑うのは、単純に自分の自信の無さの裏返しです。なんでこんなダメな俺なのにあんな才女が俺の事好きなんだ、嘘じゃないか。という感じですね。欺瞞が暴かれるのは怖いです。暴くのはなかなか気持ちいいです。暴かれた人間が混乱する所が特に。後々自己嫌悪になりますが。まぁ人間、欺瞞してかないと生きていきませんからねぇ。

「この感じだよな」がなかなか謎なんだけど。好きな人の事を言及する時の態度の事かねぇ。後輩ズを見ての。んで芳乃さんの初恋告白。人間不信は木尾主張? 人権はウザいので、すっとこさんとしては基本的に尊重しつつ放置し、自分のが脅かされた場合は徹底的に抵抗していきたい。勝手だなぁ。ほんでこの後の15話終わりまでの台詞回しが見事なんだよねぇ。

16話。一目惚れが気の迷いなのは芳乃さんも薄々気づいているっつーか、いずれにしても長谷川さんに抱かれても、超気持ちのいいみかん以上のリターンは無いわけで、リスクは山ほど付いて回ると最初から知ってればそりゃアキオにすがるのも仕方ない。ちなみに全部晒すのは、すっとこさんなら5時間くらいかかるかねぇ。これは余談。まぁしかし、一目惚れは構造を知ってたってどーにも対処できんもんなんだから、一目惚れの構造の原因を潰すか、自爆するかしか方法無いのよねぇ。

過去話開始。ポイントは芳乃さんが河合くんの事をどう考えているかの流れ。あてずっぽで言うと、6月の飲み会の中に河合くんはいると思うが、いたっていなくたって別にどうでもいい。よって17話はスルー。問題は18話。冒頭2.5ページは191ページ以降の続きだからね。童貞だった河合くんが、経験深い芳乃さんの体にハマっちゃって、大変な事になると。ここでミもフタも無いこと書くと、男ってのはタダでヤラしてくれる女が好きなんです。好きってのも多様で、河合くんの場合は肉欲と愛情がもう切り離せないくらいになっちゃったんですね。しかし芳乃さんからすると愛情と肉欲は切り離して考えられるわけで、それは負担なんですね。河合くんはただヤリたいために芳乃さんが好きなだけなんですが、芳乃さんはその欺瞞が許せないので振ったと。そーゆー河合くんを作ったのは芳乃さん自身なのにねぇ。罪悪感はアキオに愚痴をこぼしてとりあえず昇華するんですが、心にじわじわ溜まってくるわけなんですね。それが放心の表情に表れる。んでも芳乃さんの童貞好きは本心でしょう。無邪気な童貞男子を自分の思いのままの男に育てたいんかね。光源氏の逆パターンか。

ちなみに後述しますが、「五年生」の伏せられた構造の最たるものは、この河合くんの経験を、アキオに追体験させている事でしょう。具体的には芳乃さん×河合くんのパターンが、吉村さん×アキオで反復されているのです。これについては後述。そーいや男物のシャツ着てるね芳乃さん。北川さんを彷彿とさせます。後で共通点を探そう。んで気持ちのやり場のなくなったアキオは、ついうっかり就職活動初めてしまったと、はい3巻終わり。もう芳乃さんに会う可能性のある東京にはとても行けないもんね。

3巻。19話後半。まぁアキオにしてみれば、とっとと芳乃さんの事は忘れて次のステップに行こうとしてたら「まだ続いているよ」とか言われてもねぇ。しかもアキオからすれば「どっちの方がより好きか」というレベルの話なわけだし。芳乃さんからすれば好きのベクトルが全然違うんだけど(「この人といると安らぐ・この人がいなくてもまぁ平気」と「この人といるときだけ安らげる・この人がいないと不安」は全く別、ああゲーム理論だ、最初から順に+3,-3,+10,-10)。そりゃ区別つかんよねぇ。そう思われているのも承知で、それでも電話せざるを得ないほど追い込まれている芳乃さん、自らの欺瞞のツケを自律神経失調症という代償で払ってます。妹さんなにげにかわいいですね。ちなみにまたミもフタも無い事言うと、初恋や失恋で胸がキュンとなるってのは、急性の自律神経失調症です。「なんでこんなに胸が苦しいの!」ってのは実際苦しいからなんですよ。経験者は語ります。普通にこうしてタイピングしてても、いきなり左耳の聴力が落ちて耳鳴りがするんだもんなぁ。んで何の理由も無く元に戻るの。しかしこれを根本的に治療するのは、身体の感じているストレスを全部落とさないと完治できないので(例えばめんどくさい仕事したくないとか、嫌な野郎に会いたくないとかゆう社会人としては感じざるを得ないレベルのストレス)、まぁ無難にストレスと上手に付き合っていくしかない、と心療内科のお医者さんも言ってますねぇ。おっとちょっと飛んだ。

余談ですが、以前のすっとこさんは、「寝すぎると強度の頭痛に襲われる」という症状がありました。「寝すぎると○○する」がオギーみたいでちょっと嬉しいですが、頭が割れるように痛いのでシャレになりません。頭痛がしても脳は痛みを感じないはずなのにねぇ。ちなみに痛い瞬間にCTを取った事があるんですが、脳内に動脈瘤とかの異常は無かったので、今にして思うと心身性のものだったんですねぇ。思うに、寝すぎると発動する身体の欠陥、てのはたいていオギーや芳乃さんと同じ、心身性のものでしょう。治療するにはトラウマの原因を探し出して、それを抹殺しないといけないんですねぇ。患部が心の中にある病気、と言えばいいのか。

隆行くんとの会話は、これまたいろいろな示唆が。例えば物理的に鼓膜が損失している、ってんなら聞こえなくて当然だが、鼓膜があるのに聞こえない、しかも隆行くんの場合、あるきっかけから、徐々に聞こえるようになっている。さらに加えると、この回の最後で、芳乃さんが自律神経失調症で「耳鳴りが聞こえると」「周りの音が聞こえない」と言っている、また、後々隆行くんは言葉を取り戻している。以上を総合すると、隆行くんの難聴も心身性のものであると判断できる。問題なのは、隆行くんに何があったかとゆー事だが、実際の所、確かに遺伝子は関わっているのである。つまり、心身性の病気の原因がトラウマだったとして、同じ症状の心身性の難聴が遺伝によって発症するとするなら、遺伝子にはトラウマ(と同じもの)を遺伝する能力があるという結論になってしまう。自分で書いてて本当かよと思うが、そもそも遺伝子ってのはアミノ酸配列を書いたタンパク質の設計図に過ぎないんだが、とすると、トラウマの正体はある種のタンパク質であるという結論に達するんだけど、要するに心身性の病気を処方薬でどうにかできるのってこのへんがメカニズムなのかなぁ。難聴の原因になるのはどのタンパク質なんだろう。分子生物学って面白いなぁ。

本田さん怖すぎる。医者の診断は示唆に富んでいるが長くなるのでパス。佐久間さんの自律神経失調症の知識は所長の本の受け売りだったわけだが、自律神経失調症の本は自律神経失調症になるか、自律神経失調症に関わらないと、普通は買わないわけで、となると所長になにがあったのかが興味深いが、まぁ弁護士っていう仕事上いろいろあっただろうし、いろいろな人と会うしなぁ、という事でお茶を濁しておこう。

アキオと吉村さんの会話もまたすごい。アキオは他人事気取りだが、張り詰めた伏線の糸が切れた原因のいくつかにアキオも関わっているわけで、具体的には芳乃さんや本田さんや鳩村を全く受け入れなかった点にある。本人も薄々気付いているけどね。そりゃアキオの主観からすれば「面倒事を俺に持ち込むな」というのも当然だが、その態度が周囲の環境をさらに悪化させた事には気付いていない。しかも吉村さんはそれに気付いている。なんなんだ彼女は。問題点全体の構造を把握して、最悪の部分にメスを入れる存在が彼女の役割とするなら、あんだよもう、彼女まで作者つまり木尾士目かよ。俺何人のキャラに作者認定してるんだトホホと思うが、そもそも「五年生」のキャラが全員木尾士目の創造したものだとすると、全員にどこかで木尾士目が自身を投影していると考えられる、と書くのも詭弁くさいんだがどうかね。

長くなりすぎたんでここで切る。この後、他人事気取りだったアキオが決定的に目を覚まさせられる事になるんだけど、はてさて。

「五年生」をさらに読み解く

2006年05月29日 01時39分55秒 | げんしけん以前
「五年生」実に恐ろしい話である。

この物語は、登場人物の心理を読者が推測し、その推測した心理がぴったり噛み合った瞬間の恐ろしさを体験するマンガであると言える。根底に流れるキーワードは「罪悪感」。木尾士目は全ての登場人物に「罪悪感」を植え付け、最後に癒す人、壊す人をきっちり分けている。いや、全ての登場人物と言ったが、主要キャラで罪悪感を植えつけられていない人が1人だけいる。吉村さんである。彼女はきままな自我であり、混沌(エス)を産み出す原因であるアキオに罰を与える超自我として存在するので、超自我に罰を与えられる存在はいないのである。精神分析用語を使うとわけわかんないので、以後使いません。

1巻から順に見ていこう。と思って1巻をざっと見たんだが、第1話と第2話の絵が違いすぎると思った。木尾士目の絵の感じ……うまく言えないんだが……「陽炎日記」&「四年生」時代の絵と、「五年生」の絵の境が、「五年生」の第1話と第2話の間にあるのは偶然か意図したものなのか。特に芳乃さんの顔に顕著なように思えるのだが。邪推すれば、芳乃さんの卒業を期に世界観が一変したのを意図しているのかもしらんが、単なる偶然という事にしておこう。

やっぱり「四年生」から入るか。芳乃さんの疑念は、自分が「さげまん」なんじゃないかという事。もちろん漠然とした疑念ではなく、男の扱いが下手なのではないかという事、もっと具体的に書くと、自分と付き合った男がダメになってしまう事を恐れている。過去の2人(84ページ)はダメになってしまったし、アキオも1年の時は成績が良かった筈なのに……とは言え、芳乃さんとアキオが付き合い始めたのは実は3年次の8月からなので(五年生3巻で判明、「四年生」時点では未定)あまり関係は無く、ダメ男くさかったアキオの就職も決まって、アキオの両親との面会もうまくいって、二人が添い遂げるところを想像してめでたしめでたし……というのが「四年生」。

んで「五年生」1巻。順風満帆だったアキオが(自分のドジで)留年。さらに芳乃さんの元カレの河合くんも退学していた事が判明。芳乃さんの自分に対する疑念が募る所にアキオの冗談にならない一言。芳乃さんは泣く。アキオは驚く。ここまでが2話。3話ではアキオの疑念を芳乃さんが先に述べつつ、「少しは防げる……?」と自分から述べてアキオがちょっと感動している。そのままみかんになだれ込む。3話終了。

4話から5年生開始。新キャラ3人登場。ムチムチ吉村さん。野郎鳩山。まだ名前の出ない本田さん。オナニー話は余談かね。木尾士目の意見陳述って所か。倉橋さんも当て馬。一人称がころころ変わる同士、倉橋さんを見るのは同類嫌悪なすっとこさんですよ? 多分俺あんなんだし。自分の頭のよさが自信につながってるとあんなんなるのかねぇ。1巻終了。

2巻。アキオの学生っぷりと、芳乃さんの社会人っぷりのギャップをお互いに確認。アキオが自分勝手で、それによって生じるひずみを芳乃さんが吸収している、という言い方はどうかなぁ。あと、やっぱり男はいつでもみかんしたい。女はみかんしたい時としたくない時がある、ってギャップはでかいんだよね。遠距離恋愛で、男はみかんする時のために準備をできるけど、女は生理(すまん)の関係で、みかんしたい時としたくない時がある、なんて普通の男は知りません。すっとこさんも「五年生」5巻で初めて知りました。彼氏のいる女性は彼氏にはっきりと言って、この事実を普及せしめるべきです。頼むよホント。お互いのために。

芳乃妹&家族登場。親父さんが帰ってきた時、芳乃さんが母親&妹をみて何を思ったのかは不明。アキオとの結婚の可能性かね。妹をアキオに見立てての、アキオ両親との面会の思い出か。裕介&有賀さん再登場おめ。裕介に遠距離恋愛の感想を述べる。木尾士目の実感?「家族」についても木尾士目の実感かねぇ。しかしこの「家族」ってのがやっかいな共同体だって最近気づいて、って「五年生」でも家族ってのはあまり重要なテーゼじゃないから置いておこう。一言だけ書いておくと、この世にごまんと種類があり、1つ1つ全く違うのに、「家族」という同じ言葉でくくられるのは良くない。しかも「世間」とは異なる価値観があり、世間に順応できる個人を作る家族ならいいんだけど、順応できないといろいろ悲惨だよー? という話。「四年生」のアキオの家族がそんな感じかね。知らんけど。とりあえずここまではアキオも芳乃さんも、環境の変化に応じて関係を微妙に変化させるも、互いの気持ちにほぼ変化は無いわけだ。第8話終了。

後輩編の開始。いきなり持ち込まれる混沌。アキオに焦点を絞ると、一目惚れというものが実在し、自分がその対象になるという事を認識するのがヤバイ。芳乃さんとの、なんか煮え切らない恋愛より、いわゆる「運命の出会い」的な方が「本当の恋愛」であるという誤解だな。すっとこさんや岸田秀の考えだと、いわゆる「運命の出会い」「一目惚れ」というのは、抑圧した過去の記憶の反復に過ぎない、と。過去の失敗した記憶の賠償を心が求めているだけであるとゆーこった。本田さんの場合は、アキオに一目惚れをした原因は明らかにされていないが、後々の芳乃さんの場合は「五年生」のメインテーマとも言える。

アキオが言う通り、「よく知りもしない相手をんな簡単に好きになれんのか」だが、つまるところ過去の抑圧された記憶と、何らかの共通点があれば、一目惚れは発動してしまうのである。これは無意識の問題なので、そのメカニズムは普通の人には理解できないだろう。よっぽど自分の心を見つめる訓練をしないと無理だろうねぇ。性欲との直結はわかりやすいね。笹ヤンは抑圧と性欲の複合っぽいんだけど、それはまたそのうちの話。この「一目惚れ」がやっかいなのは、このようにメカニズムを知ってても余裕で発動してしまう所なんですよ。そうなるともう自律神経失調症並の苦痛に襲われて苦しい苦しい。これを無理やり抑圧すると、さらに抑圧がひどくなるので、とっとと告白して自爆した方が楽です。万一うまく行ったらめっけもんですが、たいていうまく行かないのは「初恋はうまくいかない」という言葉の伝える通りです。ああ。

んでもまぁ、抑圧した記憶が発動しても本人に責任は無いんですがねぇ。んでも発動した故に行動した結果には責任を負わないといけないのがつらいとこ。本田さんは鳩村に一目惚れ、鳩村は本田さんに一目惚れ、しかし、吉村さんが鳩村を好きなのは……5巻を読むと、やっぱりそうなんだろうなぁ。吉村さんの恐ろしい所は、自分の受けたダメージを、他の3人にもきっちり返して帳尻を合わせてしまった所にある。みんなが自分勝手をするならば、それに辻褄を合わせる人間が必要だという事か。このへんは後述。
4人それぞれが、他の3人の事をどう思っているかが、この部分の面白い所なんだが、説明すると長くなりそう……とりあえず108ページの吉村さんの説明は重要。この関係の根本の原因は、本田さんがアキオと鳩村を両天秤にかけた所にある事に気づいているのか。

男女関係におけるみかんの効用なんか、男女関係そのものの解説をしないといかんので、この場じゃ無理っす。吉村さんの呪いは、元ネタは京極夏彦の「姑獲鳥の夏」かね。11話終わり。ここまでが「五年生」の準備段階に当たる。伏線の仕込みが全部終わったわけね。そして、芳乃さんの一目惚れをきっかけに、張り詰めた伏線が動き始めるわけだ。それに関しては次回以降で。

一点だけ忘れないように書いておくと、芳乃さんとオギーはやはり同一人物である。ポイントは「五年生」5巻142ページ2コマ目と、「げんしけん」6巻86ページ5コマ目。話し始める前に喉の調子を整えるという共通点がある。ここまで露骨に描かれるとねぇ。それが木尾士目なのかどうかはわからないけど。

「五年生」を読み解く

2006年05月27日 23時03分15秒 | げんしけん以前
「げんしけん」最終回の感想を書く前に、「五年生」の分析をする必要があると思った。てゆうか、芳乃が長谷川さんに一目惚れをした理由がやっとわかった。まぁどこから語ろうか。

きっかけは「げんしけん」本スレで、オギーと芳乃似てない?という発言に「・自律神経失調症・微乳・男と別れた経験あり」というレスをすっとこさんがした事による。余談だがその直後のレスに「オギーって自律神経失調症だっけ?コミフェスの気持ち悪くなっちゃった場面だけでそうと決めてしまうのはちょっと違わない?」というレスがあったが、雨に濡れて着ていた服をそのままにしていた人が、咳をしてだるいとか言い始めたら「風邪をひいた」と判断して医者に連れて行くのが人類の英知という奴です。本人が「風邪だ」と言うまで医者に連れてかなかったら死にます。んでも、風邪を今までに一度も見たこと無い人だったら風邪だとわからないかもしれません。よって、自律神経失調症だと気づかなくても仕方ないです。俺はやった事あるんでわかってしまいますが。てゆうか、未だ耳鳴りします。

閑話休題。芳乃さんが男と別れた経験があると書いてハタと気づいた。一目惚れの理由は抑圧された過去の経験によるというのは前に書いたが、その理由は当時まだわかってなかった。気づいたのは4巻で、アキオと芳乃の大学入学時からの過去話の中で、芳乃が男と別れた話をしている。相手は河合くん。姿形は作中に出てこない。1巻に名前だけ出てくるけど。芳乃さんの河合くんに対する態度を見ていると、アキオには河合くんの悪口を言いまくっているが、アキオが芳乃さんの無防備な所を見ると、芳乃さんは明らかに放心している。また、「四年生」84ページのアキオのセリフ「結構気にしてんだよアイツ」「今までつきあった男みんなダメにしてっから」というセリフもある。事実1巻で大学やめてるし(これが伏線のための伏線か)。また「五年生」3巻173ページの芳乃さんの河合くんに対するコメントを読むと、「自分が河合くんのハンドリングに失敗した」と言っている。つまり総合すると、河合くんをダメにしたのは自分だという自覚があるわけだ。そこをアキオに茶化されたら泣くほど落ち込んでるし(1巻)

その自分が育て間違えた河合くんが、夜中にプロポーズしに来て、大学やめるほど「ダメ」になってしまった罪悪感が、芳乃さんの一目惚れの原因かと。

河合くんは作中に出てこないのは、この辺の事情を隠蔽するためで、多分長谷川さんは、河合くんと共通する何かを持っていたんだろう。外見か、よどみないタイピングか、もしくは無意識でしか知覚できない何かか。

この先、下世話な深読みになる事を承知で書くと、作者の分身として作中に登場しているキャラは、芳乃さんか河合くんか、どっちかじゃないかなぁ。芳乃さんが木尾士目だとすると、自律神経失調症の表現のリアルさ加減がしっくり来るし、芳乃さんの癒しの物語である「五年生」で、木尾自身が癒されるという解釈もできる。また、河合くんが木尾士目だとすると、ほんとーに「やっちまった」可能性もあるし(ああ、俺の心にも心当たりが)、芳乃さんがその相手だとすると、復讐と謝罪を行っているという解釈も可能。もちろん以上が下世話な邪推という可能性はもっと大きい。しかしあの、作品の表現を壊してまでする、必要以上の隠蔽感が木尾士目の警戒心を感じさせるのである。「五年生」が娯楽作品なら、もーちょいバラして物語の辻褄を読者に提示してもいいんじゃねー? それをしない理由はなんだ?

しかしこう考えると、「五年生」にムダな部分が無い事に気づく。2ちゃんねるの過去ログや、Webに現存している感想を読んでも、以上のような解釈は存在していないようだ。あーでも、AV借りに行って悩むのはムダだ。あそこだけは木尾士目の趣味全開やね。しっかしナンパものはたまに面白いとか、AV借りに行って悩むのが嫌とか、まるですっとこさん自身を見ているよォだ(苦笑)。そのうち書くけど、「げんしけん」の作者投影キャラが笹原だとして、なんかスゲーすっとこさんに似てると思っているが、ひょっとしたらすっとこさんと木尾士目って似ているのかもしんねー。オタという共通点があるせいかもしれんが。一度会ってみたいもンだ。「自分が恥をかかずに自己満足できるなら自分だけ苦労するのも厭わないタイプの人間」か、俺は、イヤだねえ、この前の軽井沢とかよ。

あと精神分析的に言えば、吉村さんが超自我当たるとか無理やりな解釈もできるねぇ。あそこでアキオをどん底に突き落とさなかったら、芳乃と復縁してなかったんだし。あと、これはオギーと芳乃さん両方見るとわかるけど、人間を最も狂わせる感情は「罪悪感」なんだねぇ。もちろん多少の罪悪感は、同じ失敗を2度しないという戒めになるけど、大きすぎる罪悪感は下手すると人生を縛ってしまうのだなぁ。そりゃ悪いことしたら罪悪感ないよりある方が正常だけど、この先の一生を棒に振ってまで謝らなければならない事態もそうそう無いし、棒に振った所で相手への謝罪にはならないんだから、そこそこの所で切り上げる勇気を持つべきなんだよなぁ。その際に厚顔無恥と言われても仕方ないが、罪悪感は罪悪感として心に秘め、罪悪感に飲み込まれないようにしないといかんよ。本当にな。

最終話読んだ

2006年05月25日 11時58分36秒 | げんしけん
感無量だが、いろいろな疑念が確信に変わり、故に8.5巻は俺にとって存在しなければならない。できれば存在しない方が望ましかったが、そうも言ってらんない。

いや、つまりコミックス1巻分の同人誌出すなんて、難しいのは当然ですよ? でもやらないと俺が納得できないんです。てゆうか脳内では出来上がってるし、ネームもできてるし、後は絵にするだけなんですが、だったら自分でやれよという批判もわかってて、なおかつその分量のために人の手助けも必要で、まぁげんしけんには色々教えられましたよ。間違いなく俺の人生を変えた作品です。でも人生変わった作品はこれまで3作目、竹本泉ともやしもんとげんしけん。あああどれも好きだ。

というわけで論理的な感想は夜にでも、あ、夜は絵チャ会か。じゃあ数日中に。

「ホムンクルス」を読み解く

2006年05月23日 11時58分24秒 | 雑談
よく考えるとこのブログは「現代視覚文化研究」会(構成人数俺一人)なので、現代の視覚文化に関する事なら、なに研究してもいいんだった(開き直り)。まぁ「げんしけん」メインなのは間違いないけど。

そこで今日の雑談は、山本英夫の「ホムンクルス」の解説をする。何しろ人の心を扱ったマンガなので、「げんしけん」とも相性がよく、今のすっとこさんにはピッタリである。そこでちゃっちゃと解説を書いてしまおう。ちなみにテキストは6巻まで。

1巻。頭の胎児のイメージは、ただ単に名越が生まれてない、つまり覚醒してないとかそんな感じ。しかもこの胎児、妊娠初期くらいかな? 今の名越はこのくらいであるという描写ね。社会的には成功してるけど。とりあえずカーホームレスを開始したのが、まぁ受精であると、そんな感じかなぁ。ベンチで読んでる"NO PEACE,NO HONOR"は和訳が出てないくさいので謎。amazonの書評を翻訳に突っ込んでみると、岸田秀が言うところのアメリカの強迫神経症を肯定する内容かねぇ。売れている所を見るとアメリカ人マンセーの本くさいんで内容はだいたい想像できる。なんでこれを名越に読ませてるんだ。まぁ2コマだけなんでとりあえず放置。車の修理の件は山本英夫の取材の成果か。だって今ん所、名越が車フェチである理由が明らかにされてないもんねぇ。7巻か8巻くらいか。サクセスする前に車関係のトラウマがあるとかそんな感じかな。5巻の「記号をちらつかせればすぐ、股を開く」が関連。ケンさんの「私がやりました」は、後でケンさんの罪を告白させる複線かな。トイレでゲロするのはホームレスと、その食事の拒否。翌朝の毛布のエピソードも同様。6巻で「あっち」を抜け出した後は食べるもんね。虚言壁は……女落とすために嘘つきまくってきたとゆー感じか。

70万円の意味は伊藤くんのトラウマ開陳待ち。戸籍や臓器の販売価格と同じなのは、山本英夫の方が原因かね。指を鳴らすのはなんだろうね。すっとこさんの場合は「刑事コロンボ」の影響だけど。あと、1~4巻で出て来るんだけど、伊藤くんが左を向くのは本心。右を向くのは「心に偽っている」という態度でしょう。ここで言う「心」は3巻冒頭で説明している「無意識」ね。つまり意識的についている嘘ではなく、無意識を偽っていると。そう考えると意図的に嘘をつこうとしている名越が唇を上げるのとは違う。

ケンさんのお金語りはそのまま自分の事だと気づかずに言っているが名越は気づいた。んで、車フェチから車を取り上げればああなる。「ピーナツ」のライナスの毛布と同じね。「自分にウソをつかない仕事をする」は、名越が散々自己を偽ってきたとゆーことで、6巻の最後に導入の複線が。デート代とポルシェのために無茶な借金でもしたかね。ご利用は計画的に。ちょっと飛んでホテルのレストランのシーン。はい伊藤くん左向いてます。「人間が知りたい」ってのは本心なのねぇ。

まただいぶ飛んで手術直後。痛み止め飲ませてますが、名越が飲んだ直後の伊藤くんの表情と、部屋を出た時の態度から、これがただの薬ではない事はわかるんですけど、なんなんだろうねこれ。車の中をいじられてるのを気づくのは、まぁ自分のコンピュータの、いつも使っているファイルや設定が改変されてればすぐに気づくのと一緒でしょ。伊藤くんが霊関係を怖がるのもそのうち明かされるでしょ。壁の材質を当ててるのは、あれはあれで凄いことなんですがねぇ。感覚が研ぎ澄まされているという説明でしょう。「もともと人間に興味がねえ」んじゃなくて、人間を実地訓練で知ってしまって絶望したって方が近いよーな。

オカルトの可能性をいくら潰しても、科学の見地とやらは証明できません。無いことは証明できないって「悪魔の証明」って奴だ。ウィトゲンシュタインだな。ESPカードなんかバリバリにオカルトの象徴だな。伊藤くんはオカルトとトレパネーションという、彼のとっての科学の枠に収めたがっているのだが、トレパネーション自体がだいぶオカルトなので、トレパネーションが科学であることを証明するには大脳生理学を完璧に証明せんといかんのだが、まぁ頑張って下さい。星5つはどうしたもんか。山本英夫が本当にやっちまったんじゃねーかと思ってますが。

組長の精神分析については2巻で事細かに説明されてるので蛇足になるのではないかと思いますが、つまりあるトラウマをかかえた人間は、それが間違いでなかった事を証明するために、何度も同じ事を繰り返そうとする傾向があるのですね。フロイト的には「反復」と言います。この場合、組長はともだちの指を切ってしまった罪悪感が、処罰のために自分の指を切ろうとするんだけど切れず、その攻撃性を他人に向けているんだけど、何度切っても自分の指は無事なので救われないんですね。そこで自分の指を切って救われたと。そんな感じの説明でどうでしょう。

さて、1巻をざっと解説しただけでこんなに長くなっちゃったよ。超やれやれ。こんな感じで「げんしけん」を分析して夏コミに出そうとしている俺ガイル。どんな本になるんだー。

聖地巡礼@軽井沢

2006年05月17日 07時09分59秒 | げんしけん
というわけで、風に誘われて軽井沢まで聖地巡礼に逝ってきました。
人間、自分の力ではどうしようも無い事にぶつかった場合は、自分のできる範囲でできることをするべきですが、それがなんで聖地巡礼なのかは自分でもわかりません。前から一度行ってみたかったんですけどね。
火曜の定休日の午前11時に出かけようと決め、12時前には出かけたので、合宿をした貸別荘と、例の橋は発見できませんでした。橋については
http://www.google.co.jp/maps?f=q&hl=ja&q=%E8%BB%BD%E4%BA%95%E6%B2%A2&om=1&ll=36.346725,138.626829&spn=0.004424,0.011587
の3つの橋が怪しいんですが(もしくはこの川の上流)、この川がくさいと睨んだ段階では、すでに深夜だったので、検証できませんでした。暗いよ。
上から順に、軽井沢駅、白糸の滝、旧軽銀座、竜返しの滝、軽井沢プリンスショッピングプラザWest、軽井沢駅前、プラザEast、プラザEastです。最後の写真の場所を探しに行ったようなもんなんで、聖地巡礼について思い残すことはありません。

しっかし暗闇になってから別荘地を車で走り回っていたら、車のドアこすって思いっきり跡ついちまった。修理代、多分10万は行くな、トホホホ。

男がやおいを読むことの難しさについて

2006年05月09日 21時45分00秒 | 雑談
実は先日、すっとこさんはやおい本を読む機会に恵まれた。内容は原口×斑目のわりとガチっぽい内容のもの。タイトルは忘れた。それを読んで感じたことを例の調子で語ってみる。

まず、やおいについて考える前に、男はどうやって興奮するのかについて考えないといけない。男が興奮するには、そりゃ男性向け同人誌やアダルトビデオを見ればいいわけだが、この場合の興奮のメカニズムは、単純に女性とみかんして得られる興奮とは異なると考えられる。つーかそう実感できる。

以下、男性=AVやマンガの登場人物の男性 女性=AVやマンガの登場人物の女性 男=見ている本人

一見、ビデオに裸の女性が出ているから興奮すると思われがちだが、女性を仮想として犯しているとするならば、自分のペースではない画面やマンガのテンポに体が追随しなければ、体はリアリティを感じずに、とても興奮なんかしないのである(多分)。そして、エロマンガがアダルトビデオでも、画面に映るのは女性ばかりで、男性はあまり出てこない。男性に自分を投影しているとするなら、感じている女性より、感じている男性を見て男は興奮する筈だが、AVで喘いでいる男性を見たってキモいだけである。とするならば、男は感じている女性を見て興奮しているのであるとしか考えられない。

これは理論ではなく実感だが、男は女性が興奮しているのを見て、女性がこれだけ興奮しているのだから、男性も同じように気持ちいいのだと解釈して、それによって興奮している。つまり女性が乱れていれば乱れるほど、男は興奮するのである。と、ここまで書いて、別にAVやマンガに限らなくて、実際のみかんでも同じ事だよな、という事に気づいた。結局男は女が興奮しないと興奮しないのである。ああこれって木尾士目が「四年生」のあとがきで「女がバカになる様が楽しいんじゃあ」と書いているのと同じことだ。実際の快感の度合いは、実際に「棒っきれ」をどれだけ摩擦させるかによるだろうけど、興奮すれば、快感もそれだけ増強されるだろうし。

ちなみに男性には女性器が無いので、女性器がいくらあんなことやこんなことされても、実感が全然沸かないので、女性が何をされても全然何とも思わないのである。基本的に女が男向けのアダルトを見て受け付けないのはこれが理由かね。言葉は悪いけど「淫乱な女」なら受け入れるんだろうか。知り合いにいないんでわからんけど。んが、暴力を振るわれれば痛い事はわかるので、SMのハードなものが受け入れられないのも当然と言える。この辺の理屈はあとでまた出てきます。

ではそれを踏まえて、笹原くんはなぜ「あなたのとなりに」を読んで「たつよね」したかとゆーと、単純に千尋がショタで女の子っぽいから、笹原くんの脳内では女性が犯されて興奮するというフラグが立ったのではないかと。すっとこさんもショタものは読んだ事ありますが、ありゃふたなり幼女と区別が付かない(入れる場所が違うだけ)以外、ほとんど同じなので、前述のメカニズムで男も興奮する事は容易です。

では次に、受けがどう見ても少女には見えないやおい同人誌を読んでみましょう。まず、男性がやおいを見て拒否反応を示すのは、何と言っても登場人物が女性であればこそ気にならなかった身体の「各所への実感」が、受けが男性だと「実感」できてしまう所にある。はっきり書けばおしりがむずむずする。さっきの女がアダルトを受け入れない理由を参照。てゆうかこれはやおいを知らない女性でも同じだろう。男だって女だってアナルセックス(すいません)なんてできればやりたくないだろうし。しかし、やおいを読む女性が全員アナルセックスで興奮するわけではもちろん無い。すると、やおいで受けがお尻で攻められているのは、当然アナルセックスだから興奮しているわけではないと考えられる。この辺のメカニズムに気づけば、つまり「やおいでお尻を犯されているのはアナルセックスだからでは無い」事に気づけば、男でもやおいを見て気持ち悪いとは思わない事が可能になる。てゆうかすっとこさんはそう理解している。

ここで「女性はなぜやおいを見て興奮するか」を書かないといけないんだろうけど、それは次の機会に。一応結論だけ書いておくと、やおいが目指しているのは「究極の愛とは何か」なのではないかとゆー事。一応結論だけ先取り。ヒントだけ書いておくと、愛はタブー(障害)が強ければ強いほど、愛の力で乗り越えた感動が大きいという事。最近、近親相姦ものの少女マンガ(「僕は妹に恋をする」とか)が流行ってるのもその一環ね。

ところが、それを踏まえたとしても、マンガの中で犯されている斑目さんはどう見ても男です。本当にありがとうございました。なので、「女性が興奮しているのを見て興奮する」という、普通の回路を持った男は、やおいを見て気持ち悪くならなかったとしても、結局興奮しないのであった。てゆうかすっとこさんの話だ。これがガチホモなら別の意味で興奮する筈だが、やおいとガチホモは似て全く異なるものなので、やおいはホモに興奮されても嬉しくないのではないかと思われるし、俺ガチホモじゃないから興奮しないっすよ、という話になる。

結局やおいが書いているのは「究極の愛」だという事を踏まえてたとしても、ノーマルな男は、愛は男女間で芽生えるものだとしか思ってないので、やおいを見て愛とか言われても困るのだろう。このへんはすっとこさんも理屈ではわかっていても、実感ではわからんものである。すっとこさんがやおい同人誌を読んでも、本当に理屈で解釈するしかないので、合っているのかどうかも実感できない。男がやおいを読む難しさは、以上の点に集約されるのではないかと思われる。

しかし、この同人誌を読んで「俺だったらこのシチュでどういう話にするかな」と思って続編を考えてみたんだが、不思議な事に脳内でキャラを遊ばせると「たつよね」するのである。なんだこりゃ。俺の脳内にいるのは確かに原口と斑目なんだが、なんでそのキャラで妄想すると「たつよね」なんだ? 謎だ。結局の所、男同士をからませているつもりでも、意識下では男女のカラミとして考えているという事か? それなら腐女子の人と同じだ。理屈、実感、意識下。全部解釈が異なるというのだろうか。うーん、わっかんねぇ。男性のやおい作家に聞いてみたいねぇ。

「クラカチットの街」を真剣に読む

2006年05月09日 21時03分15秒 | げんしけん以前
先日は現代マンガ図書館で脳内に焼き付けてきた内容で作品を分析したが、さすがに現物が手元に無いと厳しい。んが、現代マンガ図書館では複写が1枚100円。前後編で116ページの「クラカチットの街」をコピーするには5000円ちょいかかってさすがにちょっとお高い。どうすべぇと考えたが、学生時代にお世話になった図書館がもう1つあったではないか。国立国会図書館。よく国会図書館の雑誌課別室で「なかよし」を請求したもんよ。何をやってたんだ10年前の俺。それはともかく、調べてみるとコピーは1枚あたり25円。現代マンガ図書館の1/4。これは使わない手は無いってんだ、早速社会民主党の隣にある国会図書館に行ってみた。

10年ぶりの国会図書館はすっかり電子化されていて超ビビった。てゆうか資料請求は全部端末からかよ! 説明書も読まずにサクサク使いこなし、アフタヌーンの2002年2月号、3月号、ついでに「げんしけん」第一回が掲載されている6月号も請求する。10年前は出架も人力で、請求してから40分くらいしないと出て来なかったが、今回は20分程度。凄い。とりあえず借りたものを複写受付に行って当日複写を請求する。複写代は1枚25円だが、全部やってくれるので超楽。しかもコピーの質がいい。トーンもしっかり再現されている。凄ぇよ国会図書館。超惚れた。愛してる。結婚しよう。

さて、「クラカチットの街」の分析は前回した通りだが、前回は3人の男が木尾士目の内面を表しているという所まで話をしたが、今回は吹部さんにスポットを当てる。キーワードはラストのセリフ。「あまり女を自覚させないで……」「私が望んだのはこの街を出て行く事だけ」「でも その為に爆弾という力を使ってしまった……」「私は女……?」「それとも……」。相変わらず訳わかンねェが、最後の2つのセリフから、吹部さんは女か、そうでないかという事がわかる。女でなければ何だ? 単純に才能のある女性という事で考えれば、この吹部さんは木尾士目の才能だ。しかしそうなると、ラストで教授とDQNを殺しても、学生を置いて街から出てしまうわけで、その解釈は間違っている。では何だ? さらに単純に木尾士目の元カノ、という事も考えられるが、それじゃ女だ。では何だ、わからねぇ。

「あの人(教授)の描く君は母性が強すぎると思う」というセリフからすると、吹部さんは木尾士目の作品そのものか? いや、吹部さんを描いた絵が母性が強すぎるってんなら、その描いた絵が作品なんだろう。じゃあ木尾士目の作品のモデルである吹部さんは何だ? 木尾士目の過去か? 過去の自分を使った作品が「地面や樹に安易に結びつける構成で」「大きな骨盤で脚を開き蛙を出産する」「それがパターンだろ」、それが自分の過去をモデルにした木尾士目の作品か? つーことかねぇ。知らんけど。ここんとこは俺の考えすぎくさい。ここんとこだけかい。吹部さんが殺そうとしている男3人に「こんな私を愛してくれる?」と聞くのもなんか臭い。木尾士目の精神かなぁ。

吹部さんが木尾士目の(この話での)理想の女性という解釈は間違ってないと思うんだけど、DQN(マンガ家でない木尾)と教授(「五年生」以前の木尾)は吹部さんと死んでもいいと思っているが、学生(「げんしけん」以降の木尾)は死にたくないと思っている方面から解釈できるかねぇ。なんだろう、「五年生」以前の作風? 方法論? むーん、漠然としていてわからん。

吹部さんの解釈はひとまず諦めるとして、肝心の小道具、ボルトを忘れていた。どう見ても男性器の象徴です。本当にありがとうございました。ナットは出てこないけどね。こんなもん1ページまるまる執拗に描くなよな木尾士目。いえーい男性器を1ページまるまる描いてやったぜーとか喜ばれても困ります。吹部さん、街から出る時にこのボルト持ってくんだけど、これもちょい解釈微妙。それが右目に当たるんだけど、その後に吹部さんを取り押さえる時、教授が吹部さんの右目をグーパンチで殴って、吹部さんが失神するんだけど、ここんとこの描写、どう見ても絶頂にしか見えません。足からフキダシが出てて「ビクッ」ってさあ。んで、物語の終盤、吹部さんの右目、閉じっぱなしなんだぜー。これってやっぱりさあ。服着たあと前髪で隠すし。

というわけでせっかく国会図書館まで行って複写してきたのに、十全の解釈は得られなかった。多分いくら頑張っても無理だろう。作者である木尾士目にしかわんねぇっての。てゆうか今の日本で「クラカチットの街」にこれほど注目しているのは俺しかいねぇ。カレル・チャペックの「クラカチット」も買っちまったしなぁ。「五年生」と「げんしけん」のミッシングリンクとして、「クラカチットの街」は大変貴重な資料だ。さらなる読み込みが必要になるだろう。

多重人格とおチャクラ全開の可能性

2006年05月05日 22時43分02秒 | 雑談
こうなったら行く所まで行こう

これまでに何度か書いた、先月中旬のすっとこさんの覚醒について、いろいろ思う所があったのでここに書く。げんしけんとはほとんど関係が無いが、Webの大海に置いておく気分で書く。つまりこれから書く事はこのブログを普段読んでいる人を対象にしていません、一瞬だけオギーの話が出てきますが。つまりこの電波文章を置いておけば、俺と同じ経験をした誰かの参考になるのではないかとゆー一抹の期待を込めておくわけだ。

先日来すっとこさんの考えているのは、性格とは神経症の産物ではないか、というもの。すっとこさんの「偉そう」という性格にしたって、こないだ自己分析したように、合ってるかどうかわからないけど、原因がありそうだった。とするなら、人の性格というのか、そーゆー細かな神経症の積み重ねによってできてしまうのではないかとゆー事だ。

んで、先日の覚醒で、すっとこさんが変わった部分を列挙する。ちなみに全部本当の事
・IQが115から126に
・性格が丸くなった
・頭を使っても頭が疲労しなくなった
・睡眠時間が少なくても平気、朝の目覚めがよくなった
・口数が(今まで以上に)増えた
・他にもいろいろ……

これは古代からの例で言えば「悟り」とか「おチャクラ全開」とかゆー宗教分野での話になると思うんだけど、近年で言えば自己啓発もこのあたりを目指しているのではないかと。すっとこさんをこの段階に至らしめたツールは「唯幻論」なんだが、他の人は仏教だったり、ヨガだったり、様々なわけで、どーすりゃこの境地に至れるのかは不明、と言うより個人によって全部違うんだろう。苦行をして悟った奴がいたとわかればみんなして苦行するし、仏教読んで南無妙法蓮華経って言えば悟った奴がいたとわかればみんなして南無妙法蓮華経って言うし、自己啓発スクール行って(略)すればするし、しかしそーやって悟れる人間はほとんどいないわけで、とにかく確率は非常に少ないのではないかとゆー事だな。しかしいずれにせよ、悟ったところで歴史に名前を残す奴もいれば、すっとこさん程度にしかならん奴もいるわけで、悟ったからどーこーとゆー話でもなく、さらに努力せんと何の意味も無いよ、という事なんだろうねぇ。

んで、今日考えた事。きっかけは「ダニエル・キイスの世界」。ここでの栗本薫の「私は問題の無い多重人格者」という評論と、香山リカの多重性格分析。それから「ビリー・ミリガン」のダイジェスト(すっとこさんは本編未読)。多重人格者ビリー・ミリガンの、それぞれの人格には驚異的な能力がある、という話。栗本薫の「故に私は仕事が手広い」という話。それからここしばらく「多重人格気味」とかゆー表現を使っているすっとこさんも、ピンキー作ったり、SS書いたり、同人誌作ったり、評論書いたり、精神分析研究したり、最近は絵も描きはじめたり、意外に多芸だったりする(まぁいずれも中途半端なので無芸だが)。

それを踏まえて、ビリー・ミリガンのように性格、才能ではなく、身体能力が突然変わる、という例を我々は知っている。火事場の馬鹿力である。あれも実はビリーと同じ多重人格ではないか。「気が付いたらとても持てないような大荷物を抱えて家の外に出ていた」という、火事場の馬鹿力にありがちな状態を「多重人格の人格が入れ替わり、屈強な性格が現れ、荷物を運んだが、その際普段の性格は表に出ていなかった」という言い換えも可能ではないか。

そんな話どっかにあったなー、と思い出してみると浦沢直樹の「MONSTER」じゃねーか、となる。グリマーさんとヨハン。グリマーさんは身体能力が増大、ヨハンは知恵が増大、ってあれそーゆー話だったのかと今気付いた。つーかそう考えると「MONSTER」のラストもわかるんだが、そんなの説明されねーとわかんねーよ! つまり「MONSTER」を読む前にはビリー・ミリガンを読めっつー事か! 不親切なマンガだ。それにしても何かを思いても、誰かが既に話を作っているわけでムカつく。この程度じゃせいぜい評論家にしかなれないよ、ってぇ話か。しくしく。

んですっとこさんの場合、幼児虐待とかの経験は無い(筈だ)が、小学生の時にけっこういじめられたりしたわけだ。んで、それが抑圧とかなんとかで、神経症的で、故に攻撃的な性格になり、云々、とか説明ができそうな気がするんだがまだ漠然としている。オギーにしたって、あの事件と自殺がきっかけで「攻撃的になった」わけで、それを踏まえなければ大学入学時のオギーは単なるとっつきにくい腐女子、んが、そのオギーの原因を徹底的に解体し尽くすと、目にハイライトが入ってオギーかわいいよオギー、になって、性格が元に戻ると、げんしけんってそーゆー話だったんですねぇ。

俺が言いたいのは、すっとこさんもオギーと同じなのかもしれないよ? という話。俺に何があったかなんて俺を含めて誰も知らんわけだが、オギーがとっつきにくかったように俺も偉そうだった。んが、オギーが笹に告白されて変わったように、俺もいろいろあって変わって、その変わったメカニズムは、多重人格の入れ替わり、と同じメカニズムなのではないか、と考えると、将来大脳生理学が発達して、多重人格のメカニズムが解明されれば、人の性格や、IQや、身体能力すらも自由に操れる、という可能性があると思うんですけど、どーでしょうねぇ。このへんも誰かSFで書いてそー。つーかありがちー。

しかしその場合でも、そーゆー「よくできた人格」ってのが多重人格の1つに用意されてないといけないわけで、なんですっとこさんの人格の1つに最初から用意されてたんですか? という疑問は残る。てゆうかよく考えるとこれ「本当の自分探し」という文脈とピタリ一致するわけで、まぁ「本当の自分」てのは暗に「よくできた自分」を指しているわけで、誰だこんな適切で嘘臭せぇ事言い始めたの! という気持ちになる。うーん。

まぁすっとこさんがラッキーだったのは、この少ない確率に、「唯幻論」のおかげでヒットしたって所か。多分宝くじに当たるより……は高いかもしれん。だってamazonの「ものぐさ精神分析」の書評に「頭が1000倍良くなる」とかゆーのがあって、ああこいつも俺と同じ経験を、とか考えられるわけだ。というわけで「ものぐさ精神分析」を読むとおチャクラ全開になる可能性は、まぁ読まないよりは高いわけで、読んで損は無いと思うんですよ。できればウチの本屋で買ってね、というわけだ。