何故死んでしまったの…祥一郎の生きた証

私は2015年12月28日、20数年共に暮らした伴侶である祥一郎を突然喪いました。このブログは彼の生きた証です。

祥一郎………また残酷な朝がやってきたよ

2016年01月04日 | 日記
また朝がやってきた

そして、祥一郎を失いどう過ごしていいかわからない時間が、無情にゆっくり過ぎて行く

テレビをつければ浮ついた情報が、痴呆じみた音で無駄に流されている

街へ出れば笑顔の赤の他人ばかりが目につき、お前の幸せなど一瞬で瓦解すればいいなどと思ってしまう

公園でひとり坐っていれば、子供を連れた親子、ペットの散歩をしている老人を眺めて、ますます自分の寂寥感が増幅されていく


家に居て何か作業をすれば、途中で深い喪失感に襲われ手が止まり、焦点の合わない視線で呆然自失

そして、絶えず黒く恐ろしい渇望がふつふつと沸いてくる

簡単に死ねる方法を探す………何もかも放りだして行方をくらます……
他人を殺して自分も………等々


さて、私は立ち直れるのでしょうか

まで深い悲しみに襲われたことが何度かあるけれど、それとは比較できない今回の悲しみ喪失感慟哭を、時間が癒してくれるのか
だとしたら、それはいつなのか


さすがの時間という特効薬も、今回ばかりは役に立たないのではないか

未曾有の苦しみに、そんな悲観論ばかりが鉛が入ったような頭を巡る


祥一郎………
そっちへ行って君に逢いたいけど、最悪逢えなくても、君の居ないこの世界に存在することが、おっちゃんには耐えられないよ
おっちゃんは無になりたい