日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

時が良くても悪くても(テモテの手紙Ⅱ4章、1~5節)

2013年06月02日 | Weblog
時が良くても悪くても(テモテの手紙Ⅱ、4:1~5)

 この深夜祈祷会において私に祈る機会を与え賜うた神に感謝を捧げます。
 早い梅雨の季節に入ったと伝えられました。しかし今日は、天気はよく、すこぶる快適な1日でした。季節は移りかわり、日々の生活はつつがなく過ぎていきます。そのような素晴らしい日々を与え賜うた神に感謝します。しかしこのような快適な日々を過ごすことがいつまで続くかと、懸念されます。J・ハチャット牧師は5月聖会で、今すでに「終末」が始まっていると述べています。確かに日本においても、世界においても。神の福音があまねく行きわたっているとは決して言えません。あらゆる面において病んでいます。世界の平和は侵され、地球の破壊は進んでいます。 こんな時、私たちの心の中には、底知れない恐怖、漠然とした不安があります。それは心の中の闇です。それが私たちを苛立ちに誘います。これは何よって解放されねばならないのでしょうか?何を求めればよいのでしょうか?
 この世は理性では割り切れないと教えてくれたのは親鸞聖人です。人は自ら望んで世界の平和を侵しているわけではありません。地球を破壊しているのではありません。善を求めて、結果として悪に至る。それが罪です。欲せざるして、これを欲す。そこには人の知恵の限界があります。人は善を求めて努力を重ねる。その努力が何を生み出したか。努力は報われたか?その結果が現代です。
 ギリシャ神話にシジフォスという人物が出てきます。神の怒りにふれたシジフォスは、休みなく岩を転がして、ある山の頂まで運びあげよ!という刑罰を受けます。しかし、苦労を重ね、山頂にたどり着くと、その岩はその重みで山頂に留まることなく、転げ落ちていきます。何度繰り返しても同じです。このようにしてシジフォスは、この行為を永遠に繰り返します。これは神(デウス)が、シジフォスに与えた、永遠の罰であり、許されることのない罪を表しています。
幸せを求めて、求め求めて、努力を重ねても、求め得ることのない果てしのない徒労、不毛な行為を表しています。そこにあるのは限界的状況であり、絶望的状況にすぎません。これを人生にたとえて、生きる望みの無い不条理の世界だと、実存主義者は言います。実存主義者アルベ-ル・カミュは言います。「人生は生きるに値するか。人生の目的は何か?」と。カミュはその著『シジフォスの神話』の中で次のように述べています。「不条理という言葉があてはまるのは、この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死に物狂いの願望が激しく鳴り響いていて、この両者が、相対峙したままである状態についてなのだ」と。理性を否定しながら、理性によってこの世を、人生の目的を解釈しようとする人の矛盾を表しています。しかし、彼は神を否定します。この矛盾を解決するものこそ神の存在であることを知らねばならないのです。理性では割り切ることのできない神の存在を知らねばならないのです。
 この不条理の世界こそ、今の世の中であることを知らねばなりません。先に述べたように「終末」は始まっているのだという人もいます。「終末」は永遠に引き延ばされなければならないのです。人生とは果たして徒労の人生でしょうか?生きる価値の無い人生でしょうか?この不条理の世界こそ、神が人に与えた試練なのではないでしょうか? この試練に打ち勝つ力を私たちは持たねばならないのです。神よその力を私たちにお与えください。神を信じること、そしてその教えを世の中に広めていくこと。それが、今、キリスト者に課せられた課題なのです。時が良くても悪くても、福音宣教に努めなくてはならないのです。
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