日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

夏目漱石「三四郎」ストレイ・シープ(迷える羊)

2007年10月27日 | Weblog
 この小説の主人公小川三四郎は、旅の途中に一緒になった女と同宿し同じ部屋に泊まりながら何もせず、女から「あなたはよほど度胸のない人ですね」といわれたほど純情な青年である。決定的なところでは何もできない男である。それは美禰子に対してほのかな恋心をいだいていたにも拘らず、他の男と結婚するという情報に接しても何もできなかったことの中にもあらわれている。結婚するという男は、美禰子の兄=恭介の友人という以外名前すら漱石は描いていない。三四郎や野々宮宗八に関しては多くのページを割いているにもかかわらずである。しかも彼らにとってはライバルである。美禰子にとっては愛情の対象ではなかったのかもしれない。高い教養を持ちながらも、当時の社会状況から考え、自立し得ない女の止むを得ない選択だったのであろう。美禰子がストレイ・シープという言葉を何度も使っていることから考え、彼女の選択の中にはおそらく三四郎も野々宮も入っていたであろう。しかし一人は学生であり、もう一人は貧乏学者である。適齢期の自立できない女にとっては選択の幅は狭まれてくる。さらに結婚に対する積極性に差があったのかもしれない。
 「三四郎」のそれからは先に論評した「それから」だと言われている。どこにつながりがあるのだろうか?
 「それから」の主人公代助は三四郎である。平岡は美禰子の夫となった男である。美千代は美禰子である。「それから」の代助は美千代を愛していながら、平岡に彼女を与えた男である。そして自己の愛に目覚めた代助は、平岡から彼女を奪い返す。決定的なとき何もできなかった男は、「それから」では愛ゆえに雄々しく変わったのである。名前を読み替えて「それから」を呼んでみるとそのつながりが良くわかる。
 夏目漱石の生きた時代(1867~1916年=慶応3年~大正5年)は明治維新を経験した日本が、近代資本主義国家に生まれ変わっていく激動の時代であった。まさに内憂外患(内には江藤新平佐賀の乱、熊本神風連の乱、米原一誠の萩の乱、西郷隆盛の西南戦争等が、外には日清戦争、日露戦争があった。)の中で「富国強兵」の名のもとに資本を蓄積し、労働力を確保し(経済史で言う原始的蓄積過程)、資本主義国としての基礎を固めていく。さらに国家体制を強化するため、封建制の残滓を取り除き、官僚制を作り出す。それと平行して内外の敵に対し軍隊や警察力を強化していく。日清、日露の戦いに勝利した日本資本主義は、国を守るだけでなく、その後の帝国主義的侵略の基礎を作り海外市場を拡大していったのである。
 明治維新がブルジョア革命であり、市民革命であったがゆえに維新以前には存在しなかった新たな知識人の群像が生まれてくる。この知識人(政治家、軍人、官僚、財界人、学者、文化人)が社会を牽引していく。
 夏目漱石の描いた人物は、この知識人である。その姿が漱石の一連の作品の中に描かれていく。「三四郎」の中に登場する人物は、三四郎も、与次郎も、広田先生も、里美兄妹、野々宮兄妹も知識人であり上流階級の人間である。
 そして彼らは市民社会の中で生活し、恋をし、孤独と戦い、人間の内(心)と外(制度)の相克の中で悩み苦しむ。自分を追い詰めて、追い詰めて、出てくる誠実さ(内)を実行しても、制度(外)の壁にぶつかる。そこに解決はない。漱石を含む近代リアリズムの限界がそこにある。近代知識人の実人生における限りない矛盾と混迷と桎梏を闇の中に閉じ込めてしまう。
 人間の内と外に通路を求めた近代リアリズムの課題に、最終的に解決を与えようとしたものが、人間の心(内)の解放を、制度(外)の開放の中に見出したプロレタリア文学=革命文学であった。
 しかし、農民運動、労働運動と結びついたこの文学活動は、資本主義の発展にとって有害と見なされ権力から弾圧される。太平洋戦争が終わるまで日の目を見ることがなかったのである。