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つなぎの英語 ~NY NY 10016~

旅するように生活したニューヨーク。このまちで使い慣れた英語表現を紹介しながら、「NY的なるもの」への熱い想いを綴ります。

ニューヨーク・スタイル「つなぎの英語」NO. 6

2004-12-19 10:45:16 | ニューヨーク
 前回は曖昧表現でした。今回は逆に断定の表現でいきましょう。

●Of course

Of course はご存知のように「もちろん」です。Of は本来“オヴ”の発音ですが、“オフ”としか聞こえませんのでオフコースです。強い肯定だけではなく、軽く「そんなもんだ……」程度のときも使います。It shoulb be like that, of course.「そんなことだよね、もちろん」。Of course not.「もちろんそうじゃないよ」も使いやすい表現。

●Absolutely

 ニューヨーカーが断定的に言うときはこれ、Absolutely!(アブサァルートリィ)です。「あったりまえでしょ!」という感じ。発音しにくいし語呂も悪いのですが、我(が)の強いニューヨーカーだから余計に使いたがるのかもしれません。
 Absolutely, I am right and he is wrong about it!「絶対、私が正しくてあの人が間違ってるわ」。

 お酒のウォッカの銘柄『Absolut』は、“純粋アルコール”という意味と“絶対これ”を引っかけた広告戦略“Absolute Vodka”シリーズでアメリカで大成功しました。なお、ウォッカは英語ではヴォドカ。ついでにカクテルのマティニにも使う食前酒ベルモットは英語では Vermouth ヴァームースですから、オーダーするときは注意。

●Definitely

 Definitely.(ディフィニットリィ)これもかなり断定的な表現です。もともとの形 define(デファイン)が「定義する(名詞形 definition)」とあるように限定的に断定するときに使いますが、やや固い言い方になると思います。Definitely, you have to leave here by 10 am to get there by 2 pm.「 向こうに2時に着くには、絶対にここを10時には出なくっちゃね」

●Exactly

 Exactly(イグザクトリィ)は「簡単明瞭」「そういうこと」。そうでもないときは Not exactly 「そうでもないんだ」です。Not exactly は、ニューヨークでレンタカーのテレビコマーシャルでよく聞いたせりふで、それが流行語にもなりました。出張ビジネスマン二人が空港でよその会社のレンタカーを利用するのですが、サービスが悪くて不運が続く……という比較広告で、レンタカーのカウンターまで行くのに雨に降られたり、車を借りたはいいが故障して山奥で狼の遠吠えを聞いたり。そんなとき、そのレンタカー会社を選んだビジネスマンが相棒に責められる。それに言い訳がましく連発して答えるせりふが Not exactly, ... we have to manage it.「ん~、こんなはずじゃなかった。なんとか切り抜けなきゃ」 です。

●Certainly

 Certainly.(サートゥンリィ)は「たしかに」とか「そのとおり」です。よく聞くのは、Certainly, Sir! で、上司・顧客などからなにか命じられたり聞かれたりしたとき、「かしこまりました!」とか「そのとおりです!」という表現。Nori, would you do me a favor? Certainly Sir, whatever you like.「徳子、ちょっと頼みたいことがあるんだけど」「いいですとも、なんでもおっしゃってください」。

●No doubt/Without doubt

 No doubt, .../Without doubt, ... いずれも「疑いもなく……だ」。こういう表現は日本語と同じで、疑いがない、のだから「当然」ということになります。No doubt, that's all for today.「(スペースがないので)当然、これで今回はおしまい」。



●ニューヨークの日系コミュニティ NOW & THEN その5
ニューヨーク日米交流事始め

 20世紀初頭に海外に出た日本人のうち、貿易、官吏に従事する者はあくまで少数でした。当時のニューヨーク在住日本人の大多数は、ヨーロッパ系移民と比べて多くのハンディをかかえ、言葉と生活習慣、人種差別問題を背景に、家庭労働を中心に底辺生活を送っていました。米系企業に就業できるものはほとんどおらず、わずかな日系企業は本社派遣エリート社員で占められ、日本で高等教育を受けた者でも、単純労働に従事せざるを得ない情況だったようです。
 ニューヨークにおける日本人の社会的地位は、日露戦争後、日本倶楽部(1905。のちの日本クラブ)、ジャパン・ソサエティ(1907。別項でふれます)などの創設を見ながら日系コミュニティが確立されていくとともに、徐々に改善していきます。職業も、日本料理店(当時は中国料理も扱った事例が多い)や簡易ホテル(移民下宿)の経営から、料理人、医師、園芸職人、牧師、写真家、看護婦、さらには新聞記者などと多様化します。
 エンタテインメント分野でも軽業ショーの60数名の一団がシカゴ、ニューヨークを巡業し盛況を極め、その後団員20数名が独立、ボードビリアンとなりニューヨークの舞台で活躍した例もありました。また、ニューヨークを中心に世界的オペラ女優となった三浦環(たまき)、ダンス興行の伊藤道郎、さらにカーネギーホールで2度オーケストラ・コンサートを行なった作曲家山田耕作がいました。
 こうして徐々に日本人のプレゼンスが高まるとともに、ニューヨークでの日米交流の萌芽も育っていきます。明治29年(1896)に着任した内田総領事は、NY法曹クラブ、センチュリークラブ、NYアスレティッククラブなど今日に連なる高級社交クラブに入会し、積極的な民間交流を図りました。また内田総領事夫人は初めて上流階層のニューヨーカーと社交関係を結んだ日本人女性だったようです。
 そんな中で、日米交流史上、特筆される日本人がニューヨークにいました。その名は高峰譲吉です。高峰については後日、改めて詳しく取り上げます。
(次回へつづく)




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