MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

 伊皿子坂社会経済研究所のスクラップファイルサイトにようこそ。

♯1847 コロナと孤独と日本人

2021年05月11日 | 社会・経済


 2月25日、政府は、新型コロナウイルスの感染拡大に伴って深刻化する孤独・孤立問題に省庁横断で対応するため、内閣府内に「孤独・孤立対策担当室」を新設しました。
 厚生労働省や文部科学省など(関連する)6府省の職員約30人で構成される同室は、坂本哲志1億総活躍担当相の下、高齢者や子どもの見守りや地域のつながり強化、住まいの支援などに(縦割りを排して)取り組むとしています。
 今後は様々な関係者の声を聴き、夏にまとめる「経済財政運営と改革の基本方針」(骨太の方針)に関連施策を盛り込んで必要な予算の確保を目指すということです。

 昨年の国内の自殺者数は2万1077人と11年ぶりに増加に転じ、特に女性や子供の自殺者の増加が指摘されています。昨年から続くコロナ禍による自粛生活によって、孤独や孤立に起因していると見られる問題の深刻化が懸念されるところです。
 社会における地縁や血縁などの人間関係のつながりが弱まっていたところに新型コロナウイルスが追い打ちをかけ、弱い立場にありながら周囲から手助けを得られない人が増えていること、感染を恐れて外出を自粛し家に閉じこもりがちな高齢者が増えていること、オンライン授業の増加などにより若者が友人と話す機会が減っていることなどを、その理由として挙げる専門家も多いようです。

 もとより、望まない孤独は心身に悪影響を及ぼすだけでなく、医療費の増加や生産性低下を招くとの研究結果が今では数多く示されています。もはや、世界的に孤独や孤立は社会全体の課題とされており、英国政府が2018年に孤独担当大臣を置いたことが話題となったのも記憶に新しいところです。

 思考的に内省的で、(どちらかと言えば)言葉による他者とのコミュニケーションが苦手とされる日本人ですが、今回のコロナウイルスの感染拡大は、そんな日本人の(社会的な)つながりをさらにバラバラにしていく方向に作用しているようです。
 コロナの景況の長期化が見込まれる中、個々に分断される社会において日本人の(孤独に対する)メンタリティはどのように変化していくのか。4月4日の「Newsweek日本版」に、2015年にイランから日本に帰化し現在は異文化コミュニケーションアドバイザーとして活動する石野シャハラン氏が、「あまりにも孤独に慣れすぎた日本人の超危険」と題する一文を寄せているので、この機会に紹介しておきたいと思います。

 イラン人留学生として来日した石野氏が日本に暮らす中で、日本人に対して抱いた印象のトップ3のひとつが「日本人は孤独を好み、孤独に強い」ということだったと、氏はこのコラムに綴っています。
 仕事の後も休日も、1人で過ごす日本人が多いことにまず驚かされる。1人暮らしでも用事がなければ親に電話もしないし、たまに電話しても長電話するでもない。1人で外食チェーンで食事をしたり、1人でデスクランチをしたり、1人で映画を見たり1人旅をしたりしている若者の姿はイランではあまり見かけないということです。

 人生の半分近くをイランで過ごした私には、こうした文化をいまだにあまり受け入れられないでいると氏はこのコラムに記しています。
 もちろん日本人の中にも、群れるのが好きで家に1人ではいられないという人も多い。でも、そういう人の割合は、「いつも誰かと一緒にいたい」「一緒にいられないならば電話で話をしていたい」というメンタリティーの持ち主であるイラン人に比べれば、圧倒的に少数派だというのが氏の認識です。
 イラン人は電話は常に長電話だし、友人とでも誰とでも可能な限りビデオで顔を見ながら話をする。氏もほぼ毎週末、母と兄との3者ビデオ通話で2~3時間話しているが、それは日本人として生きてきた氏のパートナーにとっては(その長さとうるささも含め)大きなカルチャーショックだったということです。

 さて、このコロナ禍で、法的な拘束力や罰則がなくても外出を控え、自宅でおとなしくしていられるのは日本人くらいだというのが氏の認識です。どの国でも、自国民にソーシャルディスタンスを取らせるのに政府は大変苦心している。いくら罰則を強化して、外出禁止を命令しても、隠れて集まる人たちが続出しているということです。
 実際、イランでも行動規制をかけているが、国民は自宅でおとなしくしていることにすっかり飽きていて、通勤もパーティーも社交も、友人・親戚間のお泊まり会もすっかり元のとおりに復活しているのが現実だと氏は言います。

 言われてみれば、海外からの報道からも人々がみな集まりたくてうずうずしている様子が垣間見え、それを鎮めるために出動した警官隊との小競り合いの発生などが数多く報じられています。仕事や旅行などで欧米や中国、東南アジアなどに出かけた際に、何かといえば友人同士でお店などに集まり結構大声で議論しあっている地元の人たちの姿に圧倒されることの多いわが身を思えば、氏の指摘する文化の違いというのもまんざら誇張ではないような気がします。

 ラグビーでいうところの「one for all, all for one」の精神は、日本人ならではの素晴らしい特質だとは思うが、こうした状況が長く続けば、日本人はあまりにも孤独になりすぎてしまうのではないかと、石野氏は懸念を表しています。
 日本の生活に慣れたはずの私から見ても、日本人は他人に頼らなさすぎで、無駄な話をしなさすぎる。コロナ以前から、まるで身体から半径50センチに、物理的にも感情的にもソーシャルディスタンスの丸い輪があるように感じられたというのが氏の指摘するところです。

 他者との距離感は人それぞれだし、精神的・物理的な距離が長いほうが落ち着く人もいるだろう。しかし、全ての人が同じように距離を取って生活したいと思っているわけではない。しばらく話していない友人や家族が、今このときにも孤立し孤独を感じているかもしれないことを、私たちは時に思い出す必要があるのではないかと氏はこのコラムに綴っています。

 さて、誰もが口を利かなくなった朝夕の通勤電車の車内などでも、時折聞こえてくるのは外国人同士の話し声や、あまり耳にしない言語で話す電話の声だったりすることが多い毎日。言われてみれば、確かにコロナウイルスは(マスクの有無にかかわらず)電話も含め、日本人から会話によるコミュニケーションの機会を確実に奪っているような気もします。

 日本が欧米諸国などに比べ、コロナウイルスへの感染者や死亡者が少ないのは広く知られるところです。
 しかし、(そうは言っても)こうしてコロナ禍で苦しいときだからこそ、健康に生きていくためには連絡を取り合い、会えなくてもほかの方法でつながり、冗談を言い合ったり、励まし合ったり、泣き言を聞いてもらったりする時間がもっとあってもいいのではないか。それは非生産的で無駄な時間かもしれないが、生きていくには必要なものだからとこのコラムに綴る石井氏の視線を、私も興味深く読んだところです。





最新の画像もっと見る

コメントを投稿