MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2505 変わる勤勉の価値(その2)

2023年12月01日 | 社会・経済

 1905年、ドイツの社会学者マックス・ウェバーは、経済学の古典の一つと称される『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を著し、時間を無駄にせず勤勉で正直・誠実であれという禁欲的プロテスタンティズムの倫理感が、近代資本主義の普及とともに人類の中に眠っていた莫大な生産力を引き出したと説きました。

 それからおよそ1世紀。社会・経済の仕組みは金融を中心に大きく変化し、情報を基調とする市場の中で、これまで人類に富をもたらしてきた「勤勉さ」は(特に若者たちの間では)もはやあまり価値のない、過去の遺物と化しつつあるのかもしれません。

 「頑張るだけなら猿でもできる」「利益を上げなければ意味がない」といった成果主義的な主張が主流となる中で、いくら真面目に誠実に働いたとしても、それだけでは評価されない時代がやってきているということでしょう。

 2月14日の日経新聞のコラム「私見卓見」に、勤め人改革アドバイザーの安田直裕氏が「『うその勤勉』やめ生産性上げよ」と題する一文を掲載しています。安田氏はそこで、日本人は勤勉な国民といわれ、頑張る姿は社会に好感を持って評価されるがために、「勤め人」は人事評価で好印象を得ようと勤勉さを競い合う。その中で生まれてくるのが(生産性を上げる)「本物の勤勉」であれば良いが、皆さんはつい一生懸命働いている「ふり」をしてしまうことはないだろうかと問いかけています。

 ムダな仕事を増やし忙しく見せることに腐心するサラリーマンは、残業もいとわず、有給休暇も取得せず、時には上司が帰らなければ退社しないなど勤勉さをアピールする。これらはまさに「うその勤勉」で、これではエンゲージメントは上がらず生産性が改善することはないと氏はコラムに綴っています。

 「うその勤勉」は、高い評価を得ようと上司をだますことになり、周囲にも悪影響を与える。こうした行動は時に組織への背任行為となり、美徳どころか背徳だというのが氏の指摘するところです。

 日本の時間あたり労働生産性は、OECD加盟38カ国中で27位(2021年度)。主要7カ国(G7)中最低で、金額は米国の6割弱にまで落ち込んでいる。このまま手をこまねいていては、企業の生産性は改善しないどころか、日本の経済力は衰退の一途をたどるだろうと氏は言います。

 「勤め人」全体が、自分の評価を下げまいとムダな仕事をつくり、忙しく動き回ってきたこれまでの日本。特に、部下を管理する上司自らが「うその勤勉」を実践している状況については、時代とともに変えていかなければならないというのが氏の主張するところです。

 これは裏を返せば、「勤勉さ」は未だこの日本において人格や能力を測る上での大きな尺度の一つであり続けていて、仕事への向き合い方、誠実さを評価する根拠として位置づけられているということの証左なのでしょう。氏も指摘するように、低迷する日本経済、そしてその「生産性」の足を引っ張っているのが(我々の考える)「勤勉さ」にあることは隠し立てのできない事実なのかもしれません。

 そこで話は戻って、それでは「近代資本主義」における「勤勉」を、私たちはどのように受け止めていけばよいのかということ。急に話は固くなりますが、10月11日の経済サイト「現代ビジネス」に、京都大学大学院人間・環境学研究科教授の大黒弘慈氏が、『いかにして、資本主義の「ワナ」を逃れるか?─「勤勉ではない貧者」こそが「来たるべき社会」のモデルとなる?』と題する論考を寄せていたので、参考までにその一部を紹介しておきたいと思います。

 マルクスが構造的階級概念を用いて示そうとしたのは以下の三つ。それは、①ブルジョア社会においては、商品の価値性格が普遍的な「自然事実」という外見をまとって現象すること(「商品の物神崇拝」)、②賃労働による価値形成・価値増殖が、普遍的な労働過程という外観のもとに隠蔽されること(「賃労働の合理化」)、③賃労働と労働との混同が、資本と生産手段、土地所有と土地との混同にまで拡張され、賃金・利潤・地代がそれらに生来備わった自然的な所得とみなされることという、「三位一体の定式」だと氏はこの論考に記しています。

 そして、これらの分析を通じてマルクスが明らかにしたのは、原始的な物神崇拝からは逃れたはずの啓蒙化された日常意識と経済学とが新たな物神崇拝に陥っているということと、この物神崇拝が支配者の操作によるものではなく、構造とそれを再生産する商品所有者の「価値表現」行動から必然的に帰結する「転倒」であるということだったということです。

 資本主義の無理な要求に直面して、物神崇拝の否定は繰り返し生じる。だがそれはつねに資本主義という匿名のメカニズムの背後に潜む「犯人探し」の形をとると氏は言います。そしてその際、最も責任を負わされるのは資本家たちとなる。しかし、資本家たちも(没落したくなければ)市場の要求に服従しなければならない。彼らもまた、構造に強制されるという意味で同じく「犠牲者」にすぎないというのが氏の認識です。

 したがって、一部の資産家や資本家を批判するのではなく、まずは資本主義の構造を総体として把握しなければならない。そして同様に、「勤勉なのに貧困に陥っている者」だけを憐れみ、逆に「勤勉でない貧者」を糾弾するだけでは、労働倫理の戒律を介して結局すべてを金儲けへと還元することにしかならないというのが氏の指摘するところです。

 様々な問題が生まれる近代資本主義。そのシステムにおいては、特定の階級の貧困だけを取り上げるのではなく、貧困それ自体を問題とし、また勤勉でなくても幸せになれるような社会を理想とするべきではないかと、氏はこの論考で問いかけています。 

 救われるべき勤勉な貧者がいる一方で、勤勉でない貧者は報われなくて本当に当然なのか?…来るべき社会においてはむしろ下方に放逐された「無用な」アンダークラス、「勤勉ではない貧者」への処遇こそが(ひとつの)「モデル」となりうるかもしれないとこの論考を結ぶ大黒氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。



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