MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2523 「いい人生だった」と思って死ぬために

2024年01月02日 | 日記・エッセイ・コラム

 2023年の12月は、米大リーグ、ロサンゼルスドジャースへの移籍が決まった大谷翔平選手の話題で持ちきりだった観があります。報道によれば、10年総額7億ドルというスポーツ史上最高額の契約金は、今後10年間にわたって毎年200万ドル(約3億円)ずつ支払われ、残りの6億8000万ドルは彼が40歳になってから支払われるのだそうです。

 日本円にして1000億円を超える金額は、もはやほとんどの人が想像つかないと思いますが、平均的なサラリーマンの年収の2万年分、これだけあればスカイツリーが2本建つと聞けば、その金額の重みは何となくわかります。

 スポーツに疎い私などにはこの金額が妥当かどうかはわかりませんが、それでも日米の多くの人々がこの報道に「おめでとう!」と笑顔で接しているのを見ると、彼のプレーの価値は世界中で(少なくとも)それくらいには評価されているということなのでしょう。

 もしも自分が40歳で引退して、その時1000億円が懐にあったとしたらどうやって暮らしていったらよいのだろう…そんな妄想に胸を膨らませる御仁もいらっしゃるかもしれません。

 実際、毎日毎日100万円ずつ使ったとしても1年で使えるのは(わずかに?)3億7000万円かそこら。80歳までの40年間使い続けても150億円くらいにしかなりません。どんなに頑張っても天国にお金を持っていくわけにはいかないのですから、こうした規模のお金を有効に使うには、(自分で何かを買うのではなく)「何かのために使う(もしくは使ってもらう)」という、別の感覚が必要なのでしょう。

 多少の長短はあったとしても、人間の人生の長さはある程度決まっています。たくさん稼いだ人も、まあそうでもなかった人も、使える金額は結局限られている。逆に言えば、一生を満足して終えられるかどうかは、稼いだ金額とは(そんなには)関係のないものなのかもしれません。

 そんなことを考えていた折、12月18日の経済情報サイト「日経ビジネス」が、医師で推理作家の久坂部 羊(くさかべ・よう)氏の近著『人はどう老いるのか』(講談社現代新書)の一部を紹介していたので、参考までに概要を小欄に残しておきたいと思います。(「『いい人生やった』と微笑みながら死んだ父が遺した教え」2023.12.18)

 老いれば誰しもさまざまな面で、肉体的および機能的な劣化が進むもの。目が見えにくくなり、耳が遠くなり、もの忘れがひどくなり、人の名前が出てこなくなり、指示代名詞ばかり口にするようになる。動きがノロくなって鈍くさくなり、力がなくなり、ヨタヨタするようになると久坂部氏は(一人の医師として)その冒頭で指摘しています。

 世の中にはそれを肯定する言説や情報が溢れているが、果たしてそのような絵空事で安心していてよいのか。氏によれば、沢山の上手に楽に老いている人、下手に苦しく老いている人を見てきた経験から、誰しもが初体験の「老い」を失敗しない方法というのは確かにあるということです。

 欲望と執着が苦しみのタネであることは、二千六百年前にインドで釈迦牟尼がつまびらかにしているところ。同じ頃、中国では老子が「無為而無不為=無為なれば、しこうして為さざるなし(無為に至れば、自然にすべてがうまくいく)」と言っていると氏は話しています。

 つまりは、多くを求めるから苦しみが生まれ、あれこれ望むからいろいろなことが上手くいかないということ。ところが(ある意味)欲望肯定主義の現代では、「もっと求めろ」「もっと望め」と人々を煽り、苦しみのタネを増やすことに価値を置いているように見えるということです。

 死や老いは受け入れたほうが楽で、余計な問題も引き起こさないのに、それを否定する健康法や医療、お得な情報ばかりが世間にあふれている。これらにはすべて裏にビジネス、すなわち金儲けが潜んでいて、赤字を見越してお得な情報を提供する人はいないというのが(こうした状況に対する)氏の見解です。

 「長生きをしたい」とか、「いつまでも元気でいたい」という思いは誰にでもあって、それを捨てるのは簡単ではない。そうした状況の中で我々は、どのように老いていくのが幸せなのか。

 実は、それができている人というのは実際にいて、我々は、そうした達人に学ぶのが一つの方法ではないかというのが氏の提案するところです。

 例えば久坂部氏の父親はそういう考えの人だったとのこと。この論考で氏は、余計なことをしない効能や安心や安全を求めすぎない気楽さ、あくせくしないことの賢明さなどを父親から学んだと話しています。

 氏の父親がよく口にしていたのは、次のような言葉。それは、大きくまとめると①「無為自然」(=作為的なことはせず、自然に任せる)、②「莫妄想(妄想するなかれ)」(=不安や心配や迷いは妄想だからしないほうがいい)、③「少欲知足」(=欲を減らし、足るを知ることが苦しみを減らす)の三つだということです。

 氏の父は、幸福や長生きに向けて無駄な努力はせず、糖尿病になっても甘いものは食べ放題で、煙草も吸い放題。健康のための運動や節制は一切しない老人だったとのこと。そんなやり方で、87歳で「いい人生やった」と微笑みながら自宅で亡くなったので、(勿論、運もよかったのでしょうが)「生きた手本」となっていると久坂部氏は回想しています。

 さて、「足るを知る」とは、古代中国の思想家である老子の言葉。 「足るを知る者は富む」、つまり「何事に対しても、“満足する”という意識を持つことで、精神的に豊かになり、幸せな気持ちで生きていける」ということを表しているとされています。

 いつか足りなくなるのではという不安があると、常にもっと欲しいと思うのは理にかなったもの。しかし、「多ければ多いほど良い」というカルチャーにどっぷりと浸かったままでは、いつまたっても「もう十分だ」と納得することはできないでしょう。

 残りの人生を数え、本当に必要なものは何なのかを問い返す事。人生にはそんな時期が必ず必要になるのだろうなと、年の初めに私も改めて感じさせられたところです。



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