MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯593 共同繁殖という戦略

2016年08月29日 | 社会・経済


 引き続き、少子化問題に対峙する際の「基本姿勢」(のようなもの)に関する議論を追ってみます。
 
 昨今の未婚化、晩婚化の急速な進展を考えれば、「結婚」という(家族関係の核となる)ユニットが従来の形を維持することが難しくなりつつあるという現実を、私たちもう少し真剣に受け止め、正面から向き合っていく必要があるのかもしれません。

 データを見る限り、(従来型の)「結婚」を受け入れられない若者は確かに増えているようです。しかしそれは、若者が出産や子育てを受け入れていないというのとは、また少し違ったニュアンスを纏っているようです。

 戦後日本の核家族において、「子育て」の苦労は、「夫婦の絆」や「男の責任」、そして何より「母親の無償の愛」などが(一身に)引き受けてきた分野と言えるでしょう。

 しかし、社会の変化に伴って、「結婚はしたくないけど子供は欲しい」という女性たちの声が上がりつつあるとすれば、(出産の希望をかなえ、少子化の問題を解決していくためにも)私たちの社会はこれまでの考え方を、基本的な部分で少し切り替えていく必要があるのかもしれません。

 8月7日の毎日新聞は、総合研究大学院大教授の長谷川眞理子氏による、「子どもを増やす方策 共同繁殖の制度設計を」と題する興味深い論評を掲載しています。

  この問題について進化生物学者として主張したいのは、「ヒトという動物は共同繁殖の動物なのだ」という、種としてのヒトの基本戦略にあると長谷川氏は指摘しています。

 母親が子どもに授乳して育てる哺乳類の95%は、母親さえいればそれで十分で、父親という役割は存在しない(必要とされていない)と氏は言います。しかし、中には父親も子育てに参加しないと子どもが生き残れない種もあって、それは、キツネやタヌキなど小型の肉食動物に多いということです。

 一方、氏は、(生き物の中には)さらにそれでも足りない種があると説明します。彼らの社会では両親のみならず、血縁者も非血縁者も多くの個体が一緒にかかわらなければ子どもが育たない。これは「共同繁殖」と呼ばれる戦略で、小型の肉食動物ではアフリカに住むミーアキャット、サルの仲間では南米に住むタマリンの仲間などが有名だということです。

 さて、長谷川氏はヒトを、こうした共同繁殖の戦略が(最も)高度に発達した種だと説明しています。

 共同繁殖でなければ子どもが育たない理由は動物それぞれで異なるけれど、ヒトの場合、脳が大きく、子どもの世話に多くの時間とエネルギーがかかり、学ぶべきことが多すぎるのがその理由だということです。

 人間が狩猟採集生活をしていたころから前近代社会まで、人々はまさに共同繁殖を(それこそ)当たり前に行っていたと氏は言います。

 確かにアマゾン川流域やニューギニアなどに暮らす原住民は、現在でも全体で子育てをしているようですし、日本の集落にも、つい戦前まで「若衆組」「若衆宿」などと呼ばれる共同教育組織がありました。

 ところが、近代社会への移行に当たって一夫一妻の婚姻と核家族が普通となり、都市化によって職場と家庭が分断され、保育所、保健所、病院、学校など、子育てにかかわる機能が分業化された。そして、それぞれのサービスを買うために貨幣が必要になったというのが長谷川氏の認識です。

 氏は、この過程において、人間社会はヒトという動物が本来、共同繁殖でなければ子育てができない動物であるという事実を忘れたと指摘します。

 子育ては親のみでするものという前提に立って、それなのに「それができない人たちがいる」と認識するようになった。だからそういう人々のために(「福祉」の視点から)特別に予算を割かねばならないと考えるようになり、そう考えるからこそ、それは一種の「ぜいたく」なので、余裕がなければ取れない予算と(政府は)考えるようになったということです。

 しかし、ヒトというものは(その生存戦略から言って)そういうものではないのだと、改めて長谷川氏は強調しています。

 社会がいかに貨幣による市場経済と個人主義に変わろうと、両親以外の多くの個体がかかわらねば子育てができないという「生物学的制約」は消えるものではない。祖父母や親類、隣近所の人たちによる無償の共同繁殖体制が崩れたのなら、それに代わる公共サービスを提供しなければ、ヒトの子育ては成り立たないという指摘です。

 産業の近代化とともに、ヒトの子育て戦略が本来の方向から大きく偏ってしまったとすれば、昨今の少子化問題の顕在化は(日本人の)そうした錯誤の揺り返しと言えるのかもしれません。

 自分自身は子どもを持ちたくないと思っている人も含め、ヒトを育てるにはコストが当然かかるという認識を共有したうえで、(社会的な分業を含め)共同繁殖を保証する社会システムを設計しなければならないと結論付ける長谷川氏の指摘を、この論評から私も改めて胸に刻んだところです。




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