岸田文雄首相は2月6日の政府・与党連絡会議で、荒井勝喜前首相秘書官の性的少数者(LGBTなど)や同性婚を巡る差別発言について、「国民に誤解を生じさせたことは遺憾だ。不快な思いをさせてしまった方々にお詫びを申し上げる」と謝罪しました。
相次ぐ閣僚の更迭などにより、就任以来(やたらと)「反省の意」を示し、謝罪ばかりしてきた観のある岸田首相。先日は随分前に某女性議員が議場で発した(「愚か者めが!」の)ヤジに対してまで、「謙虚に受け止め、反省すべきものは反省しなければならない」と答弁しています。
周囲で起こるトラブルに、次々と「反省」しているその様子には少し可哀そうな気さえしてきますが、「反省」する姿をほとんど見せたことがない某都知事や前々総理大臣、維新の会の先生方などに比べれば、確かに岸田首相は「反省が似合う」政治家であることもまた事実なのかもしれません。
「そんなに反省している時間があったら、少しは前向きな仕事もしろよ」と宣う向きもあるかもしれませんが、言い返しそうもない者を相手に「傷ついた俺に謝れ」と留飲を下げるのが日本人のストレス解消法というもの。謝ったからといって状況が大きく改善するわけでもないのに、野党やメディアは(自らを省みることもなく)なぜそれほどまでに「反省」の表明を求めるのでしょうか。
総合情報サイト「文春オンライン」が2月6日に掲載した『海外移住して初めて気づいた「謝罪の儀式」の“不毛さ”』と題する記事が、クアラルンプール在住のノンフィクション作家野本響子氏の近著『東南アジア式「まあいっか」で楽に生きる本』の一部内容(文春出版)を紹介しているので、参考までにその概要を残しておきたいと思います。
小さいミスでも、まず菓子折りを持ってお詫びに行く…野本氏によれば、怒りを鎮めるための「謝罪の儀式」を重んじる日本社会のあり方は、マレーシア人には特別異様に映るということです。
マレーシアでは、従業員がミスをしたケースでも、とくにお詫びもなく、責任を追及せず、「しょうがないね」で終わってしまうことがよくあると氏は言います。遅刻したマレーシア人が、ニコニコしながら、「ソーリー」と言って日本人上司に怒られたり、車をぶつけられて、ぶつけた側から「まあ気にするな、運が悪かったのだ」と言われたり…。「人に迷惑をかけるな」と教わって育った日本人とは基本的に価値観が違うということです。
日本には、お詫びをするときに「対面でないと失礼」「謝罪文は手書きでないと失礼」と考える人も多い。仕事の上でのトラブル、中でも、揉めそうな案件や被害者がやたら怒っているような状況では、被害者に必ずお詫びに行くよう指導されると氏は話しています。
言ってみれば、これは相手の気持ちを鎮めるための「儀式」のようなもの。お互いに時間を無駄に消耗するにしても、「形式的な気持ち」が重要視されるのが日本の社会だというのが氏の認識です。
そして、(どんなに不毛でも)この「儀式」に手を抜くと、「誠意がない!」と余計に相手が怒って話し合いに応じてくれなくなり、問題がどんどんこじれていく。日本の社会には、こうした「お互いに時間は無駄にするけれど、感情を収めるために必要なこと」にものすごくコストを費やす文化が根付いているということです。
人間なのだから、ミスをしたり、他人に迷惑をかけて生きるのは当たり前のこと。なのに、他人を責め許さないという「謝罪の文化」は、実は小学生の時代から始まっていると氏はここで指摘しています。
今でも多くの小学生たちは、「反省会」の名のもとに、毎日毎日「反省」させられている。「A君が掃除をサボっていました!」と責められるA君。「サボって悪かったです。これからはちゃんとやります」と言い、先生から「反省文」を書くことを命じられたりしていると氏はこの著書に綴っています。
反省文を書く(書かされる)のは勿論面倒なことですが、(それはある意味)こうした「面倒くさいことをする」ことが、すなわち「反省をしている」ことを伝える術だと教えられているということ。子供たちは、「あのときはお腹が痛かったからです」などと書くと「言い訳するな」とさらに怒られるので、ひたすら「ごめんなさい、僕が悪かったです」と謝ることを覚えていく。つまり、(時間の浪費であっても)「反省文」を書くことによって子供のころから「本音と建前」を叩き込まれていというのが氏の指摘するところです。
こうした教えを叩き込まれた子どもが大人になり、社会の中枢を担っていくようになって「謝罪の文化」が引き継がれていく。そしてそれこそが、日本のビジネスシーンで「誰得?」と言いたくなるほど「お詫びの姿勢を見せること」「それに時間を使うこと」、そして「分厚い報告書を作ること」が重要視される所以だということです。
たとえば地下鉄が遅延したとき、多くの駅員の時間は乗客に謝ることに費やされると氏は話しています。駅員さんを誤らせたところで電車が早く動くわけではないことは(駅員も乗客も)みんな分かっている。それでも、謝らせたい人は誤らせたいし、(「お前が悪い」「そう思っているのか?」と)主張している人をそのまま放置できないのが日本の文化だということでしょう。
そんな時、「謝っている時間があるのであれば、他の仕事をすればいいのに」と(ついつい)思ってしまうと、氏はこの論考に綴っています。こうしてサービス業に携わる人たちの貴重な時間が失われていき、仕事はますます忙しくなる。日本人が「面倒くさい人」たちの相手にかける(このような)コストを少しでも減らせれば、日本経済は(きっと)随分と楽にもなることでしょう。
「相手のため」「良かれと思って」やっていることも多いこの「反省の文化」「謝罪の文化」が、実は合理性に大きく欠け、日本の社会の効率を落としている。日本のサービス産業において、なかなか生産性が上がらない元凶のひとつと考える氏の指摘を、私も興味深く受け止めたところです。
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