遅まきながら「桐島、部活やめるってよ」(朝井リョウ著・集英社文庫)を読了しました。
既に映画化もされている話題作なので、いささか旧聞に属するかもしれませんが、特に新鮮な印象を得たので以下雑感を記しておきます。(やや「ネタバレ」注意)
この作品において、主人公であるはずの「桐島」は、実は作品中に一度もその姿を現しません。高校のクラスメートや一方的に彼を知る生徒たちの、「アイツ、部活やめるんだって?」「ガッコもやめるって話だぜ…」などというワーディングで、第三者としてあっさり語られる存在です。
しかし、「部活をやめる」という桐島の行動に、彼らの心はざわざわと動揺しています。
それは一体なぜなのか…。その辺りの高校生らしいデリケートな感覚が、作品の中に非常にうまく表現されています。
桐島はバレー部のキャプテンとして部活を引っ張り、正義感が強くカッコよくて周りにも気を使う、そんな誰もが一目置く存在です。
生徒の中には、できる奴とできない奴、目立つ奴と地味な奴、カッコイイ奴とダサい奴、リードする奴とされる奴、そしてどちらでもない奴、そんな暗黙のヒエラルキーがあり、男子も女子もそれぞれグループを作ってそれぞれの世界の中で学生生活を送っています。そして誰もがそれを、「当り前のこと」「仕方がないこと」として呑み込んでいます。
しかし桐島は、そういったセクトには属さない。押しつけがましくもうっとうしくもない。誰とも個人として普通に付き合う、自律し安定した存在として描かれています。
生徒たちにとって、桐島とはそういう超越した一個の主体であり、なおかつ身近にいてルールを示してくれる、自分たちが本来あるべき姿を象徴する存在です。
そんな桐島が急にいなくなると聞く。ストレスを感じながらもなんとか折り合いをつけてきた生徒同士の人間関係が、桐島というパーツが一つ欠けることによってどのように変化をしていくのか…微妙に揺れる不安感が生徒の間に波紋のように広がります。
さらに、あの桐島がなぜ部活をやめようと決めたのか。「そんなはずはない」という違和感が、生徒たちの気持ちにもうひとつの混乱を呼ぶことになります。桐島は「次に」行ってしまった…。「置いて行かれた」という彼らの喪失感のような感覚を、私も少し理解できたような気がしました。
さて、著者は、生徒ひとりひとりの動揺を本当に丁寧に拾いながら、一見何も考えていないような「いまどき」の高校生の繊細な葛藤に、丁寧に光を当てていきます。
桐島がいなくなることは、高校生活の中に今あるこの微妙なバランスが崩れるということ。そして違う関係が始まることであり、それは「次に」行くこと、「ひとつ大人になること」につながる。
そうした理解に立てば、桐島の退部は、安穏と閉そく感を兼ね備えた不機嫌な高校生活に爽やかなエンディングをもたらすものであり、大人へイニシエーションの始まりを告げるものと位置付けることができるのかもしれません
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