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武将の手紙~『戦国のコミュニケーション』

2020-07-26 | 2022夏まで ~本~
戦国時代、遠く離れていた土地の武将同士が、
同盟を結んだり、政略結婚をしたり・・・
あるいは、居ながらにして、遠く離れた敵方の武将を寝返らせる・・・

なんで、そんなことができるんだ!?
ネットはもとより、郵便制度もなく交通網が整えられているわけでもないのに・・・
と、疑問でした。

そんな疑問に、山田邦明『戦国のコミュニケーション 情報と通信 新装版』
(吉川弘文館)は、実際の文書をもとに、解説してくれます♫

本書では、「注進」「密書」「情報の錯綜」など、さまざまな例の他に、
コラムとして、書状の約束事や言葉遣いなどにも触れられていて・・・
実におもしろい本でした。

ま、漢字仮名交じりの崩し字で書かれた当時の文書を
素人が読むことは、なかなか出来ませんけどねw


(書影は版元ドットコムより。)


その中で、印象に残っていたことをいくつか・・・。

まず、当時の交通網は、わたしが思ってたよりも、ずっと整っていたようです。

ただ、現在と比べると、海や川など水上交通に頼ることが多かったとか。(249頁)
しかも、水上交通は天候に左右されがち・・・
急ぐ場合は、やはり陸路ということになります。

「道路自体は整備されてきている」ものの、
「路地断絶」状況は「一般的に広がっていた」とありました。
つまり敵地は通れないと言うことですね・・・

それだけに情報を伝える、飛脚や使者といったメッセンジャーは
大変な困難があり、交通の問題以上に大きな課題だったそうです。


(2019年春撮影の小田原城。)


こうした苦労の末に、届けられるわけですから、
書状は基本的に重要な秘密事項。
読み終わったらば、返すことが当たり前だったようです。

現代の感覚から言うと、びっくりでございます!

さらに、情報を得て、相手に伝える場合は、基となる書状の現物なり写しを添え、
情報もとへの自分の返書の写しも、相手に送る・・・
つまり、何通もの書状をセットに届けることも、よくあったと・・・

情報がいかに大事であるか、そして、その信憑性を裏付けることも
必要とされていたことがうかがえます。



(2016年冬撮影の鉢形城跡。以下2枚も同じ。)


武将の知られざる性格が手紙からうかがえることも、
本書の魅力の一つでした。

取り上げられている武将は、長尾為景(謙信のパパ)、北条氏綱、北条氏康、
朝倉義景、上杉謙信、毛利元就・隆元、北条氏邦、北条氏政、伊達政宗・・・
と、わたしが知っている名前だけでも、こんなに!

・・・北条氏綱って気遣いの人ね、あら、為景に鷹をおねだり!?
上杉謙信って、かなりのイラチだわぁ、
毛利元就って筆まめなパパね・・・という具合。

アタクシは、春風亭昇太師匠と同じく、土(の城)大好き!
土の城といえば、後北条氏でしょう!
でもって神奈川県人でございますから、小田原ですよ!

幕末・近代史から、戦国史に惹かれがちな昨今、
小田原、北条家に思い入れが強くなるのも、むべなるかなと・・・♫

この本では、北条家がちょこちょこ登場するんです。
というのも、著者の山田邦明先生は、修士論文で北条氏を扱われたのだとか。
嬉しい限りでございます♫




中でも、一番、気になったのが・・・、
第八話、「確かな情報ー北条氏政と北条氏邦の交信」。

北条氏政は後北条家の四代目。
北条氏邦は氏政の弟にして、
鉢形城(埼玉県寄居町)の城主です。

ここで、ちょこっとさかのぼりまして、天正10(1582)年。
上杉謙信、武田信玄、北条氏康は既に亡く、東国情勢は大きく変わっていました。

とりわけ、上杉家では養子の景勝と景虎が景虎の後継者争いが
内乱(御館の乱)に発展。

景虎は、前の代・上杉謙信と北条氏康の間で和睦が結ばれたときに、
人質として送られた、氏康の実子、つまり氏政の弟です。
もちろん氏政は弟を支援、当時、同盟関係にあった武田勝頼に出兵を要請します。

ところが、勝頼ったら、越後に迫ったくせに、景勝と和睦し、
援軍を出さないまま帰っちゃうんです! 
結果、景虎は滅び、上杉家は景勝の代となります・・・

勝頼にしてみれば、越後の混乱は大チャンス。
父・信玄もなしえなかった、信濃全土の平定と上野(コウヅケ 群馬県)を
支配下に置いたのでした。

北条家にとって、これは許せる所業ではありません!
(令和に生きるアタクシだって怒り心頭!)



ところが・・・
ここへ出てきたのが、なんと織田信長でした・・・
やっと第八話の話、北条氏政、氏邦兄弟の交信につながりましたw

武田家と断行した、北条氏政は、織田信長に接近。
なんとか、奪われた上野を取り返す希望を持っていたからです。
そこへ、弟・氏邦から「織田家が武田征伐に乗り出す」という情報が入ります。

ところが、氏政は、これを容易に信用しません。
氏邦か連絡が入る度に、情報の信憑性を確かめるよう伝えます。

再三のやりとりを経て、
いよいよ確かな情報だと、北条家が動き出したときは、既に遅し。
武田滅亡後の領地は、北条家に関係なく、配分されてしまったのでした。

あ~あ・・・

氏政って、やっぱダメじゃん!・・・と、ついつい思いがちですが・・・
当時は、相手を攪乱するため「偽情報」が飛び交う時代・・・

山田先生はお書きになっています。(193頁)
「あやふや情報を信じて兵を出したりしたらひどいことになるかもしれないという
氏政の心配は、彼だけのものではなく、この時代の人なら誰でも持ち得た」と。

う~ん、仕方ないのかなぁ・・・


(2018年秋撮影。御館の乱の舞台になった、上杉景虎の館跡は、
住宅地に囲まれた公園になっていました。)


氏政は、弟・氏邦にこんなことも言っています。

「この方へも欠け入りの者一切これなき」
=こちらにも欠け入りの者が一人もいない(188頁)

山田先生によると
「ほんとうに武田がおしまいなら、見限って当方に来る武士もいそうなものなのに」(194頁)という、氏政のぼやきの部分なのだそうです。

先生は、続けて、こうまとめていらっしゃいます。

「武田側の統制は結構うまくいっていたのではないでしょうか。
結局は滅びてしまうけれども、武田勝頼は最後まで努力を怠らなかった。
今のところはそう考えておきたいものです」と。

武田勝頼というと、かつては武田家を滅ぼした、ダメ男のイメージでしたが、
最近では、評価が変わってきています。
ここでも、そんな勝頼像がうかがえるのですが・・・


(2018年秋撮影。上杉景虎終焉の地、鮫ヶ尾城跡にて)


でも、でもっ!

アタクシは、御館の乱が・・・
景虎さまの自刃は、絶対に勝頼が援軍を出してくれなかったことが大きいっ!

・・・と、北条びいき、
とりわけ美形だったというw、上杉景虎さまファンのアタクシ・・・
武田勝頼は許せないのよね・・・

その一方で、やっぱり惹かれてしまう・・・
ここでも、最後まで持ちこたえようとしていたというところに
胸がうずきます・・・

・・・・・・と、妙なところで食いついてしまったのでしたw

最後の方は、蛇足だったかも知れません・・・お許しあれ。
長々と失礼いたしました。


◆本文中の(頁)は、山田邦明『戦国のコミュニケーションー情報と通信 新装版』 吉川弘文館から引用したページ数を示します。
読み違い、勘違いなどは、素人の備忘録故、どうぞ、お許し下さいませ。

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