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北条vs武田~「三増合戦」の地

2020-06-13 | おでかけ
近頃、夫とはまっている「ニッポン城めぐり」のスタンプラリー。
(過去記事→「まだ、しばし籠城へ」)

今も、県境を越えての移動は自粛中ですが、
県内では、ボチボチ、リア攻めを始めています。

ただし・・・電車には、できるだけ、乗りたくないので、車を利用。
密を避けるため、アサイチで出かけて早帰り、
消毒・換気の徹底など細心の注意を払うのは、もはや当たり前です♫



この日は、愛川エリアへ。
一番の見どころは、北条軍と武田軍の激突した、
三増合戦(みませかっせん)の史跡でした。

北条早雲(伊勢早瑞)公に始まる、小田原・北条家は、
早雲の孫、三代目・氏康の時代・・・
この頃、上杉謙信、武田信玄に攻め込まれ、北条領内は不作も続いていました。

そこで世直しのため、氏康は家督を21歳の嫡男・氏政に譲ります。
実質的には氏康がいまだ軍事・政治両面を取り仕切るという、体制でした。

永禄11(1568)年暮れ、武田信玄はが甲相駿・三国同盟を破棄。
翌12年正月、氏政は、武田軍に対抗するため、
敵対関係にあった、上杉謙信と越相同盟を結びます。

それでも、武田信玄が攻めてくるんですよね~
この年だけで、暮れからの分も含めれば、5度も戦っています。
北条軍の1勝2敗2分け、劣勢です。



三増合戦は、その三つ目の戦い、残念ながら黒星を記しました。
主戦場である三増峠は、中世の頃から、信濃や甲斐から鎌倉へ向かう街道に
位置します。

10月、武田信玄は主力2万を率いて小田原を攻撃、
やがて鎌倉、鶴岡八幡宮へ参詣すると見せかけ撤兵。
ところが、平塚で反転、甲斐へ進路をとります。

氏康は、この情報をつかみ、
息子・氏照、氏邦や、一門の北条綱重ら二万の軍を、
甲斐への通り道である、三増峠で待ち受けます。

当初、北条軍が優勢だったものの、武田軍はこれを突破。

当主・氏政は小田原から本隊・1万を率いて出陣したものの、
1日違いで間に合わず・・・
10月6日、信玄の甲斐・帰国を許してしまったのです。


(小田原城趾遠景。2019年春、総構ウォーキングツアーで撮影)


信玄は、その後、11月には、また駿河へ侵攻したのですから、
ちっ、敵ながらアッパレだぜぃ!w


いずれにせよ・・・

北条・武田軍、あわせて4万の兵が戦った・・・
「甲陽軍艦」では、北条軍3269人、武田軍900人が戦死したと
記録されているそうです。(現地案内板による)




平成10(1998)年正月、当時の武士と思われる遺骨と六道銭が発見されたとか。
北条家の家臣の墓とする説もあり、この碑文の近くに埋葬されたとの
説明書きもありました。


400年以上の時を経て、なお・・・
歴史は語りかけている・・のですね。

せめてものご供養にと、「般若心経」を唱えてまいりました。



また・・・

近くにある愛川中学校は、この戦で落城したとされる田代城址です。
学校の敷地内に入ることはできませんが、バス通りに面しているのは
間違いなく、当時の土塁の名残ですね! ↑


愛川は、同じ県内とはいえ、ほとんど初めて。
「城めぐりアプリ」をきっかけに、歴史の跡をたどることができました。
じっくり、「三増合戦史跡めぐり」をしてみたいです♫


◆本日の記事は、現地案内板と、以下の本を参考に、まとめました。
素人故、勘違いや間違いもあることと存じますが、どうぞ、お許し下さいませ。

黒田基樹 『図説 戦国北条氏と合戦』 戎光祥出版
黒田基樹 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版

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