我が家がお世話になっている現代健康研究所の高橋先生とのご縁は、同じインディゴの子をもつ、ママ友から紹介していただきました。
そのママ友とのご縁もとても面白い。
2年保育の公立幼稚園の入園面接で、寛希はひっかかりました。
障害児枠の面接も受けましたが、落とされるという現実に直面したとき、私はとっても落ち込みました。
周りの療育を受けてきているお子さんは、できるようになっていることが多いのに、私は、寛希に親の名前なども一切教えていませんでした。
できることを増やすのではなく、病的なところがなくなり、自然に成長していくことを大切にするように指導をうけていたからでした。
障害児枠の再面接の時に、小児科の先生が「幼い」と指摘されました。
そこから、私は保育園の障害児枠に希望をだすのか、私立幼稚園を探すのか、いかないのかという問題にぶつかりました。
ルナの岩佐先生は、私が幼稚園に行かないことを納得しないだろうと思っていたと後にお話してくださいました。
その当時の私は、「幼稚園をいけないなんて。」「どこも入れなかったらどうしよう。」と焦っていました。
そして、今まで他の治療や療育施設に通わないことが条件だったルナの指導に不安を感じ始めました。
自閉症の治療を受けているほかのお子さんに触れたのが初めてだったので、いろいろなことができるお子さんと寛希の差が気になりました。
私は新たな治療を探し始めました。
寛希が2歳11ヵ月のとき、「自閉的傾向がある」と言われた時から、インターネットで情報を集めはじめ、最初に、家庭保育園という家庭における幼児教材からはいっていきました。
そこで、障害児担当のカウンセラーの方が訪問してくださりました。
このカウンセラーの方から、「自閉症の謎に挑む」というルナ子ども相談所の岩佐先生の書籍を紹介され、私はすぐに読み、寛希は自閉症だとわかりました。
すぐにルナ子ども相談所へ予約をとりました。
岩佐先生に「自閉症だよ」と言われた時、今までの不安をわかってもらえたという気持と自閉症だといわれた現実と交わった複雑な思いで、その場で泣いてしまいました。
このときまで、私しか寛希が自閉症だとは思っていませんでした。
2歳からはじめた英語教室も他の子と一緒に模倣することもなく、マイペースでした。
歌はすきだったので、歌は歌っていましたが、かんしゃくがひどかったです。
私は寛希を会社に連れて行ったり、色々なところに遊びに行きました。
いつもクタクタになって帰って来ていた私を、母は、なぜ遊びにいってクタクタになってかえってくるのかわからなかったそうです。
ある日、自閉症のテレビ番組を見ていたとき、寛希のよくする遊びをしている場面をみました。何でも物を回転させる仕草をみたとき、もしかしたら・・・と不安がよぎりました。
1歳半健診の時、寛希はひっかかりました。でも、子育ては円(○)だからと親、親戚に言われ、言葉の遅れはそのうちに追いつくと自分に言い聞かせて、保健所相手にバッサリと喧嘩して帰ってきました。
公園友達も多くが、寛希は「お母さんのいうことをよく聞いて良い子ね」と言ってくれていました。理解力がないなんて思っていませんでした。主人の両親もほとんどの人が自閉症とは思っていませんでした。
今思うと、自閉症を知らなかっただけでした。
私は、ただ電車へのこだわりが強い。かんしゃくが強い。2語文を話さないだけで、歌は上手。友達に興味をしめさないで、友達のお母さんのところにいって話しかける。ラムネをむしょうに食べたがる。偏食。そして、3歳になる数ヶ月前にチック。
その当時は、「ただ」と思っていたことが、自閉症の症状でした。
3歳になってから大きな病院へと家族は言いましたが、私はすぐに寛希が生まれて入院していた国立成育医療センターへ予約をとりました。
「先生、自閉症ですか?」とたずねると「あえて病名をつけるなら自閉的傾向があるですね。」と言われました。
その時、私はその意味がイコール自閉症とまでは知りませんでした。
主人も、母も病院で先生と話しました。
「お父さんとはコミュニケーションできますね。」と先生は言われ、私は落ち込みました。
私の母は、「娘(私)が会社へ行っている間、私が相手をしていましたが、ニコニコ笑いますし、こちらに対して反応しますし、理解していないとは感じませんでした」と言っていました。
でも、現実は自閉症でした。
今思い返すと、私は朝は公園で遊んで、午後から母に寛希を預けて会社へ行き、夜遅くに帰ってきて、また家でも仕事をする。子どもよりも仕事優先で、色々なところに遊びに連れて行ったり、ママ友たちとも遊んでいるから子育てはしているつもりでした。表面ではしているように見えたかもしれません。
主人は、仕事が終わって、私のいる会社へきて、私の仕事を付き合ってくれたり、二人で食事をして帰ったりと、二人に子どもがいる行動とは思えないようなことをマイペースにしていました。
さて、寛希が3歳になり、ルナ子ども相談所の岩佐先生の指導のもと、生活が始まりました。テレビなどの電気音を消す。食生活の指導。外出の規制。などがありました。
そして、私は仕事をすぐにやめました。
今度は、自分を責め始めました。私が仕事をしていたからさみしかったのかもしれないと。
そこで、同じく家庭保育園の教材にある抱っこ法を取り入れることにしました。
我が家がやってきているものの多くは家庭保育園で教わったものです。
ルナ子ども相談所、ドーマン法、抱っこ法、コウケントウ、ごしんじょう、舌癒着症の手術などです。
すべて、それぞれまぁまぁ効果はありました。
だいぶそれましたが、話を幼稚園の入園面接の時期にもどします。
ルナ子ども相談所だけに通っていた私は、世間の療育を受けている子どもの状態をみて、焦りました。そこで、次にドーマン法に興味をもちました。
また、そのころ、家からかなり遠い幼稚園への入園がきまりました。
区を1つ越して、自転車で20分ぐらいのところにあります。
主任の先生と、園長先生が入園面接の前に「寛希くん ☆☆幼稚園へおいで」と
言ってくださいました。
幼稚園が決まり、私は、神戸でおこなわれているドーマン法のセミナーに参加しました。
基本は親だけが参加でき、1週間集中しておこなわれます。
そこでお友達になったお母さん(Aさん)が、ルナにも通われているお母さんで、私は何回か顔をあわせたことがありました。
そして、その方から情報を教えていただきました。
それはGFCFダイエット、キレーション(体内に蓄積している有害重金属の除去)、サプリメントに関する自閉症の子どもをもつ親のコミュニティーサイトでした。
すぐに入会して、勉強しました。
そのコミュニティーサイトでは、療育のなかでABA(応用行動分析)、行動療法についても話題が出てきました。
以前、ABAの親の会に入っているお母さんとお話をしたことがあったので、私もそのABAホームセラピーのNPOつみきの会に入会しました。
ドーマン法のセミナーから帰ってきてからは、ますますドーマン法のプログラム中心の生活をしていました。
幼稚園の入園4月になりました。
幼稚園は、とてもやさしい幼稚園でした。私が早く幼稚園に馴染めるようにと先生のご配慮で、私はPTAの役員になりました。そして、裏方が好きだと自己紹介で述べると、園長先生が書記をすすめてくださり、そのまま書記の役につきました。
その書記仲間につみきの会の会員のお母さん(Bさん)がいらっしゃいました。
お母さん友達(Bさん)からABAについてアドバイスなどをいただきました。
ある日、お母さん友達(Bさん)から、つみきの会のセミナーに参加する?と言われ、一緒に参加することになりました。
そこで、BさんのABA療育仲間の(Cさん)を紹介していただきました。
そのABA療育仲間の(Cさん)とも仲良くなりました。
しばらくして、「GFCFダイエットをしているお母さんを探している人がいるんだけど」とCさんの療育仲間のお母さん(Dさん)を紹介をしていただきました。
そのお母さん(Dさん)が、高橋先生を紹介してくださいました。
ご縁をつないでくださったお母さん友達に、本当に感謝しております。
お母さん友達がみな、高橋先生の治療を受けられることに、本当にうれしく思います。そして、私達の子供たちにも感謝の気持でいっぱいです。
いま、考えると、公立の幼稚園に落ちたのも、意味がありました。
現代健康研究所へご縁をいただくためには、練馬区から杉並区の幼稚園へ通う必要があり、落ちたショックでドーマン法の講習会へ参加する必要もあり、GFCFやABAの勉強も必要でした。
人生とは、いらないものは何一つないのだと、鮮明に実感できる経験でした。
そして、私がルナ子ども相談所へ通うことをやめたとき、私が生まれ変わるきっかけ、はじまりとなりました。ルナ子ども相談所は小学校へのこだわりがあります。普通学級に入れるノウハウが欲しいという私の小学校へのこだわりが一致していました。
そのこだわりを捨てる覚悟がやっとできたということに意味があったのだと思います。
そのママ友とのご縁もとても面白い。
2年保育の公立幼稚園の入園面接で、寛希はひっかかりました。
障害児枠の面接も受けましたが、落とされるという現実に直面したとき、私はとっても落ち込みました。
周りの療育を受けてきているお子さんは、できるようになっていることが多いのに、私は、寛希に親の名前なども一切教えていませんでした。
できることを増やすのではなく、病的なところがなくなり、自然に成長していくことを大切にするように指導をうけていたからでした。
障害児枠の再面接の時に、小児科の先生が「幼い」と指摘されました。
そこから、私は保育園の障害児枠に希望をだすのか、私立幼稚園を探すのか、いかないのかという問題にぶつかりました。
ルナの岩佐先生は、私が幼稚園に行かないことを納得しないだろうと思っていたと後にお話してくださいました。
その当時の私は、「幼稚園をいけないなんて。」「どこも入れなかったらどうしよう。」と焦っていました。
そして、今まで他の治療や療育施設に通わないことが条件だったルナの指導に不安を感じ始めました。
自閉症の治療を受けているほかのお子さんに触れたのが初めてだったので、いろいろなことができるお子さんと寛希の差が気になりました。
私は新たな治療を探し始めました。
寛希が2歳11ヵ月のとき、「自閉的傾向がある」と言われた時から、インターネットで情報を集めはじめ、最初に、家庭保育園という家庭における幼児教材からはいっていきました。
そこで、障害児担当のカウンセラーの方が訪問してくださりました。
このカウンセラーの方から、「自閉症の謎に挑む」というルナ子ども相談所の岩佐先生の書籍を紹介され、私はすぐに読み、寛希は自閉症だとわかりました。
すぐにルナ子ども相談所へ予約をとりました。
岩佐先生に「自閉症だよ」と言われた時、今までの不安をわかってもらえたという気持と自閉症だといわれた現実と交わった複雑な思いで、その場で泣いてしまいました。
このときまで、私しか寛希が自閉症だとは思っていませんでした。
2歳からはじめた英語教室も他の子と一緒に模倣することもなく、マイペースでした。
歌はすきだったので、歌は歌っていましたが、かんしゃくがひどかったです。
私は寛希を会社に連れて行ったり、色々なところに遊びに行きました。
いつもクタクタになって帰って来ていた私を、母は、なぜ遊びにいってクタクタになってかえってくるのかわからなかったそうです。
ある日、自閉症のテレビ番組を見ていたとき、寛希のよくする遊びをしている場面をみました。何でも物を回転させる仕草をみたとき、もしかしたら・・・と不安がよぎりました。
1歳半健診の時、寛希はひっかかりました。でも、子育ては円(○)だからと親、親戚に言われ、言葉の遅れはそのうちに追いつくと自分に言い聞かせて、保健所相手にバッサリと喧嘩して帰ってきました。
公園友達も多くが、寛希は「お母さんのいうことをよく聞いて良い子ね」と言ってくれていました。理解力がないなんて思っていませんでした。主人の両親もほとんどの人が自閉症とは思っていませんでした。
今思うと、自閉症を知らなかっただけでした。
私は、ただ電車へのこだわりが強い。かんしゃくが強い。2語文を話さないだけで、歌は上手。友達に興味をしめさないで、友達のお母さんのところにいって話しかける。ラムネをむしょうに食べたがる。偏食。そして、3歳になる数ヶ月前にチック。
その当時は、「ただ」と思っていたことが、自閉症の症状でした。
3歳になってから大きな病院へと家族は言いましたが、私はすぐに寛希が生まれて入院していた国立成育医療センターへ予約をとりました。
「先生、自閉症ですか?」とたずねると「あえて病名をつけるなら自閉的傾向があるですね。」と言われました。
その時、私はその意味がイコール自閉症とまでは知りませんでした。
主人も、母も病院で先生と話しました。
「お父さんとはコミュニケーションできますね。」と先生は言われ、私は落ち込みました。
私の母は、「娘(私)が会社へ行っている間、私が相手をしていましたが、ニコニコ笑いますし、こちらに対して反応しますし、理解していないとは感じませんでした」と言っていました。
でも、現実は自閉症でした。
今思い返すと、私は朝は公園で遊んで、午後から母に寛希を預けて会社へ行き、夜遅くに帰ってきて、また家でも仕事をする。子どもよりも仕事優先で、色々なところに遊びに連れて行ったり、ママ友たちとも遊んでいるから子育てはしているつもりでした。表面ではしているように見えたかもしれません。
主人は、仕事が終わって、私のいる会社へきて、私の仕事を付き合ってくれたり、二人で食事をして帰ったりと、二人に子どもがいる行動とは思えないようなことをマイペースにしていました。
さて、寛希が3歳になり、ルナ子ども相談所の岩佐先生の指導のもと、生活が始まりました。テレビなどの電気音を消す。食生活の指導。外出の規制。などがありました。
そして、私は仕事をすぐにやめました。
今度は、自分を責め始めました。私が仕事をしていたからさみしかったのかもしれないと。
そこで、同じく家庭保育園の教材にある抱っこ法を取り入れることにしました。
我が家がやってきているものの多くは家庭保育園で教わったものです。
ルナ子ども相談所、ドーマン法、抱っこ法、コウケントウ、ごしんじょう、舌癒着症の手術などです。
すべて、それぞれまぁまぁ効果はありました。
だいぶそれましたが、話を幼稚園の入園面接の時期にもどします。
ルナ子ども相談所だけに通っていた私は、世間の療育を受けている子どもの状態をみて、焦りました。そこで、次にドーマン法に興味をもちました。
また、そのころ、家からかなり遠い幼稚園への入園がきまりました。
区を1つ越して、自転車で20分ぐらいのところにあります。
主任の先生と、園長先生が入園面接の前に「寛希くん ☆☆幼稚園へおいで」と
言ってくださいました。
幼稚園が決まり、私は、神戸でおこなわれているドーマン法のセミナーに参加しました。
基本は親だけが参加でき、1週間集中しておこなわれます。
そこでお友達になったお母さん(Aさん)が、ルナにも通われているお母さんで、私は何回か顔をあわせたことがありました。
そして、その方から情報を教えていただきました。
それはGFCFダイエット、キレーション(体内に蓄積している有害重金属の除去)、サプリメントに関する自閉症の子どもをもつ親のコミュニティーサイトでした。
すぐに入会して、勉強しました。
そのコミュニティーサイトでは、療育のなかでABA(応用行動分析)、行動療法についても話題が出てきました。
以前、ABAの親の会に入っているお母さんとお話をしたことがあったので、私もそのABAホームセラピーのNPOつみきの会に入会しました。
ドーマン法のセミナーから帰ってきてからは、ますますドーマン法のプログラム中心の生活をしていました。
幼稚園の入園4月になりました。
幼稚園は、とてもやさしい幼稚園でした。私が早く幼稚園に馴染めるようにと先生のご配慮で、私はPTAの役員になりました。そして、裏方が好きだと自己紹介で述べると、園長先生が書記をすすめてくださり、そのまま書記の役につきました。
その書記仲間につみきの会の会員のお母さん(Bさん)がいらっしゃいました。
お母さん友達(Bさん)からABAについてアドバイスなどをいただきました。
ある日、お母さん友達(Bさん)から、つみきの会のセミナーに参加する?と言われ、一緒に参加することになりました。
そこで、BさんのABA療育仲間の(Cさん)を紹介していただきました。
そのABA療育仲間の(Cさん)とも仲良くなりました。
しばらくして、「GFCFダイエットをしているお母さんを探している人がいるんだけど」とCさんの療育仲間のお母さん(Dさん)を紹介をしていただきました。
そのお母さん(Dさん)が、高橋先生を紹介してくださいました。
ご縁をつないでくださったお母さん友達に、本当に感謝しております。
お母さん友達がみな、高橋先生の治療を受けられることに、本当にうれしく思います。そして、私達の子供たちにも感謝の気持でいっぱいです。
いま、考えると、公立の幼稚園に落ちたのも、意味がありました。
現代健康研究所へご縁をいただくためには、練馬区から杉並区の幼稚園へ通う必要があり、落ちたショックでドーマン法の講習会へ参加する必要もあり、GFCFやABAの勉強も必要でした。
人生とは、いらないものは何一つないのだと、鮮明に実感できる経験でした。
そして、私がルナ子ども相談所へ通うことをやめたとき、私が生まれ変わるきっかけ、はじまりとなりました。ルナ子ども相談所は小学校へのこだわりがあります。普通学級に入れるノウハウが欲しいという私の小学校へのこだわりが一致していました。
そのこだわりを捨てる覚悟がやっとできたということに意味があったのだと思います。