みやびのまなび

インディゴの子をさずかり、幸せなご縁に恵まれ、真実を学ばせていただいている。
みやびと子供の成長のきろく。

みやびの成長 ⑱

2008-04-27 00:05:03 | みやびの成長 ( 親になるために )
最近面白い本を読みました。

「バカ」になれる人ほど「人望」がある   伊吹 卓 著

私は、馬鹿にされたくないと思い続けていたことに最近気が付きました。
競争心、嫉妬心の塊だったとも気が付きました。

私は子供のころから姉と比べられていると思っていました。
勉強も芸術も体育も姉のようにはできませんでした。
そんな私は姉に嫉妬していたのだと思います。
両親は私たち姉妹を比べたつもりはないと言っています。
それなのに、私は比べられてきたと思いこんでいました。

やっとその事実に気がつく出来事がありました。
私は自分の競争心、嫉妬心の強さにショックを受けました。

最近次元の話を現代健康研究所で教わりました。
今の自分は人間としての資質は何次元なのかしらべてくださるということになりました。
私は人間味ある3次元で、主人は6次元でした。

その結果がでる数秒前、私以外の人が高いことを意識では望んでいました。
そしてその結果を喜ばしいことだと思っていました。
でも、時間の経過とともに、心に落ち着きがないことに気が付きました。

私は親から「それはこうした方がいいんじゃない」というアドバイスを言われたら、すごい悪態をついていました。主人がなんか言ってきた時には、理詰めで黙らせたりしました。それほど、指摘されること、馬鹿にされることに拒絶心が強かったのです。
その代り、世間では何も注意されないように、可もなく不可もないように、自分の神経をピンピンに張っていました。

そんな私は、その次元の結果を自分がダメ出しされているように思ったのです。

「何をがんばる?」「大人になってまで、また何で評価を受けなくてはいけないの?」「また比較される環境なの?」どんどん不満があふれてきました。おまけに死までチラついている…。

でも、もしその結果が違ったら、私はどうだっただろうかと思いました。それは、その状況で人の上にいたいと思う競争心であり、自分よりも上なんだと勝手に思い込んでいる人に対する嫉妬心でした。

私は、昔から自分のそばで競争心が強い人がいると嫌になります。

でも、それは私が競争心を持っているということをその人が教えてくれていることに気が付きました。

そして嫌だと思うその気持ちは、その人より勝ちたいと思う気持ちがあるということから生まれてきた「嫌」という感情だと気が付きました。

結局、私は頭でしか他人にいちいち影響されないということを分かっていなかったということもわかりました。
その根本に近い部分に自分の競争心と嫉妬心があることがわかりました。

私、主人に謝りました。
「今までライバル心を持っていたのは、私の方だった。ごめんね。」

3次元がレベル低くて、高次元が良いとは誰も言っていません。
病気が悪いというわけでもありません。
死が悪いわけでもありません。
負けることが悪いわけでもありません。

今までの私が頭で考えたすべての判断は、人間社会の平均、常識を元にしたための大間違えだったということも再認識しました。

はじめに書いた書籍の他にも「バカ」になることをすすめる本を読んだことがありました。でも、その時はここまで理解できませんでした。

松下幸之助さんに関する書籍を読んででてくる内容で「弁慶の七つ道具」の話がとても印象に残っています。

「知識とは弁慶の七つの道具のようなものである。つまり武器である。しかし、武器であって、その人自身ではない。それを使いこなすには力がいる。…」

知識を生かす柔軟性が欠けている場合、時にはむしろ有害であること。そして、弁慶の持っている武器は弁慶だから持って使いこなすことができたこと。が書いてありました。

知識とは、物事を人間の理解可能な範囲内で人間が決めた概念のようなものであって、それは人間1方向からみたものの情報に過ぎないということがわかりました。
ようするに、知識をもっていても意味があまりないということだとわかりました。

知識をたくさん持っているから頭が良いと思われることに意味がないと思いました。

最近、バカでいることを楽しんでいます。
「知りません」「わかりません」「できません」「はぁ…。」
しかも人の反応に興味なし。地位や名誉なんて意味なし。

だんだんバカでいることの心地良さを噛みしめられるようになりました。
仕事も、以前ならできる人になるために、時間外でもバリバリ仕事をしていたのですが、最近は定時まででマイペース。
知ったかぶりはしない。知っていても聞いて復習。

「バカ」が良くない、劣性と限りません。
優性、劣性も誰が決めるのか、それ事態そもそもおかしい。

私は、高校を卒業して大学にいかず社会人になった友人、先輩と一緒に仕事をしていた時、その人たちがとっても楽しそうだった印象があります。
ある医療事務コンピューターのお客様相談窓口で仕事をしていたとき、いつも穏やかで、楽しそうにしている先輩に出会いました。
その先輩は、なんでも前向きにとらえるようにしていて、とても楽しそうでした。そして、「わからない」「バカだから」とサラッと言っていました。
お母さんになって、ご自身のお子さんが目に病気をもって生まれてきた時でも、「この子はこの子」と相変わらず「前向き教」でした。
「前向き教」とは、その職場で先輩がつくった「前向きにしか考えないという精神をもつ団体を勝手に名付けたものです。」こんな名称までつくって楽しんで仕事をしていました。

バカは楽しいです。
見栄、体裁ばかりに気を取られていたころは本当に神経がピリピリしていました。

私は、ますますバカを楽しんでいこうと思います。

みやびの 成長 ⑰

2008-04-27 00:04:26 | みやびの成長 ( 親になるために )
『 人間万事塞翁が馬 』

塞翁が馬とは、人間の吉凶・禍福は変転し、予測できないことのたとえ。また、だから容易に喜んだり、悲しむべきではないこと。

いま思えば、過去にあった悲しい、辛いできごとは、今のうれしさ、幸せな毎日につながっているなということがわかりました。

寛希が自閉症だとわかり、その病気を調べていくにつれて、不安、恐れ、悲しみが深くなっていきました。公立幼稚園の入園面接では、心は悲しみと悔しさでボロボロでした。抱っこ法で私たち家族を担当してくださった方は、よくあの状態から立ち直ったと本当に心配されたそうです。でも、その悲しみ、悔しさのおかげで、「なにくそー」と新しい方向へと前へ前へと進む出来事となり、今では私たち家族は救われ、幸せだと感じられる毎日を過ごさせていただいています。


私は、小学校の3年生ぐらいからは友達に合わせることを努力しました。友達が欲しかったのです。そして、自分の世界も強い子でした。
私の家族、親族は成績もよく、運動もでき、いわゆる優等生タイプです。私はその親族の中で一番の落ちこぼれだったのです。
両親はずっと私に「あなたはやれば良いのよ。本当は頭が良いんだから」と言ってくれていました。
私は素直にそして都合よく「私は頭が良いんだ」と思っていました。
ちょこっと勉強したら、学年通信で名前がでることもあったので、そうかぁと本当にそう思っていました。

そんな状態でむかえた高校受験で、遊びと友達付合いばかりを気にしていた私は、自分の成績が普通でしかないことに受験の恐れを感じました。
そしてプライドだけがあった私は何にも勉強しない成績で確実に受かる高校を推薦で入学しました。

女子高校へ入学した私は、真面目に予習をするようになりました。するとすぐに成績はトップクラスになりました。その学校は都内の中心にあったのですが、地方からも来ている人も多かったです。そこそこの都会育ちだった私は、最高潮に天狗になりました。そして入学して早々、友達の悪口を言い始めました。
女子校です。何人もの友達を敵にまわしました。
それでもプライドがまだまだ高い私は、「この学校は私にふさわしくない」と思いました。リセットしたいと思いました。中学時代に勉強をおろそかにしてきた罰だとも思いました。

私は、親に学校を辞めたいと言いました。父は反対しましたが、私の意志がかなり固かったのを感じたようで、しばらくして納得してくれました。

私は、高校1年の1学期で学校をやめ、その年の夏休みに編入試験を受けて、都立高校へ編入させてもらいました。

編入したからといって、リセットできたわけではありませんでした。編入した直後は、対人恐怖症というのでしょうか、怖くて、授業中に先生にあてられて回答する声が椅子とともにガタガタと音を立てて震えていました。帰ってから一人で泣く日もたくさんありました。でも、わがままで行かせてもらった高校ですから耐えました。

不思議だなとおもいます。小学校、中学校でも友達の相談や愚痴をきいていて、いつも人に合わせることを心がけていたのに、どうしたのか高校デビューをしてしまったわけです。
でも、そこで多くのことを経験できました。

人の悪口を言うこと。いじめにあうときの気持ち。人を怖いと思う気持ち。いじめにあっていることを誰にも言えない気持ち。親が心配している様子をみる気持ち。一般的なレールを外れた気持ち。自分が悪かったとわかり、どうにかしたいけど、でも何もできずにいる不安な気持ち。

多くの経験をすることができました。

そして、編入試験のための勉強をするために個人塾に通わせてもらい、その時に尊敬する数学の先生に出会い、数学が大好きになりました。

その数学の先生は、ある1つの問題の解法を私の解きやすい方法を選び、その方法で教えてくれました。それまでいろいろな塾や個人指導の先生にも教わる機会がありましたが、その先生たちは先生自身がわかりやすい解き方を一方的に教えてくれるだけでした。
数学の解き方も1つだけではありません。

また、その先生は編入試験の直前の授業の終わりに、「強いやつがいる?」とボソッと一言低い声でクスクスと笑って、そのまま教室をでていかれたことがありました。

私に今まで「なぜ女子校を辞めたいのか」と深く責めたり聞いたりすることを誰もしないでくれました。でも、そのことを知ってほしいとも思っていました。数学の先生に言われたとき、少し心が落ち着き、癒されました。
一言でも十分癒されることを経験しました。

これらの経験は、寛希をさずかり意味があったと思えるようになりました。

寛希をさずかり、今ようやく過去を受け入れられるようになりました。
今までの私は、いじめられ、高校を変わったということが汚点であるとおもっていました。
たしかに自慢できることではありませんが、こんなに多くのことを気づくことができたので、その当時は本当につらくてつらくて、毎日の空が曇りに感じていましたが、とても良い経験をさせていただいたと思っています。

寛希はおかげさまで近所の小学校に入学しました。
しかし、治療を優先させ学校へは通いません。勉強は私たちが家で教えます。
でも、この選択をすることができたのは、自分が高校をやめるという、普通のレールから外れる経験をしたことがあるということも、そう決断することがしやすかったのだと思いました。
もちろん、同居している私の両親のサポートも大きく、学校、教育委員会とのやりとりは、すべて主人がやってくれています。
多くの方にも支えていただいています。
感謝の気持ちでいっぱいです。