以前、「寛希の良いところを伸ばすように育てていこうと思います。」という内容をブログで書きました。
この文章を書いておいて、ここで書くのもおかしいのですが、
実は頭でそう思っていても、しっかり理解していませんでした。
最近、私は記憶力が低下しています。
自慢ではありませんが、記憶力には自信がありました。
それがおかしいのですが、自分の興味があることや、言われた事、人などについてです。
興味がないことについてはさっぱり。
覚えようともしません。
そのおかげで、学力には結びついていないので悲しいところ。
でも、便利だったんですよ。
主人や家族が言った言葉をほんとによく覚えていたので、
主人は私に「みょうがを食べたら」と言っていました。
良い面では、「私が聞いていれば間違いなく再現してくれるから」と言っていました。
そんな私が、最近ちょっと前に聞いた内容がすぽっと抜けるんです。
密かに焦っていました。
遺伝子組換えが多い大豆の摂取量が減ったからかなぁと、きらめき会の大豆製品を多く食べたり、影でこそこそとあがいていました。
そんなある日、この記憶力というのが、ちょっと普通じゃないんだということを教わりました。
「お母さんもやっとまともになったね。やっとまともになった。お母さん多動だったから。」と必死にメモを片手に聞いている私をみて、高橋先生がおっしゃいました。
「・・・・・・。便利だったのに・・・。」
多動と言われてショックはありませんでした。
おかしい話ですが、そうなんだ!納得と思いました。
今までずっと自分がインディゴだとは思ったことはありませんでした。
病院、療育機関では、親もインディゴ傾向であるか調べるところもあるようで、
ママ友の中には、「私、アスペ(自閉の軽度によって名称があり、その略)だし」と話す方もいました。
今まで、ふ~んと聞いていました。
でも今回、私が多動と言われて、納得することが多かったのです。
どおりで幼稚園では、友達と遊ぶより、一人で園庭の木の実や虫を見つけて遊んだり、参観日に遅刻してもまわりを気にすることもなく、重役出勤のようにゆうゆうと一人教室に入ったり、マイペースな訳です。
女の子なのに、仲間で遊ばないのです。遊べないもしくは、一人でも大丈夫だったのでしょう。
納得した瞬間、不思議なことに気づきました。
「便利だったのに・・・記憶力。となると・・・あれも多動だったから?」と自分の特技的な部分がにぶってきているのに気づきました。
最近3週間ぐらい風邪をひいていました。それと同時ににぶった感覚がありました。
「えーーー!普通になったらどうしよう。」
そう思いました。
自分のちょっと敏感すぎる感覚や記憶力は気に入っている能力でもあったのです。
私は、それらが普通になるのがいやだと思いました。
そんな私は、寛希が普通になることに必死になっていたのですが、おかしな話です。
今回のことで、私は、寛希を普通にしようとしていたことに疑問をもちました。
そして、「寛希の良いところを伸ばし、この3次元で上手く人とコミュニケーションをとってやっていけるようにする」という高橋先生がはじめのころにお話になったことの意味がようやくわかり始めました。
寛希も今で十分楽しいのです。私が幼稚園で何も気にならず、(友達と組むことを必要としたときは不便でした。)楽しんでいたときのように。
寛希のいいところは、私は上手く表現できませんし、まだわかっていません。
自分の好きなところも30歳すぎて、今回失いかけて気づくことができました。
私の記憶力は、便利でもあり苦しい部分でもありました。
自分がしてしまった失敗、発言、嫌な出来事もなかなか忘れられないのです。
人は忘れられるから良いのです。
高橋先生に、忘れないと新しいことが入ってこないと教わりました。
陰陽があるように、入ると出るはセットです。
やっぱり記憶力は普通が良いと思います。
でも、私にはにぶって欲しくない感覚や特徴がまだあります。
おかしいですね。
人の良いところはどのようにきづくのでしょうか。
それは、その人の良いところをみようとしないと見えてこないそうです。
自閉の場合、何ができないか、何が問題になり、これから先につまづくかと観察しているのであれば、その子の良いところは見えてこないと思います。
良いところをみようとすれば見えるということは、気になるところをみようとすれば、気になるところが見えてくるということです。
良いところも、気になるところも両方みるようにしているという人がいるかもしれません。
でも私は、良いところだけみていたいと思います。
気になるところをみていたって何も意味がありません。気になりだしたら、そのことにこだわり、とらわれて、ますます気になります。
その分の時間、良いところを見て、多くの良いところを見られるほうがずっと素敵だと思います。
この文章を書いておいて、ここで書くのもおかしいのですが、
実は頭でそう思っていても、しっかり理解していませんでした。
最近、私は記憶力が低下しています。
自慢ではありませんが、記憶力には自信がありました。
それがおかしいのですが、自分の興味があることや、言われた事、人などについてです。
興味がないことについてはさっぱり。
覚えようともしません。
そのおかげで、学力には結びついていないので悲しいところ。
でも、便利だったんですよ。
主人や家族が言った言葉をほんとによく覚えていたので、
主人は私に「みょうがを食べたら」と言っていました。
良い面では、「私が聞いていれば間違いなく再現してくれるから」と言っていました。
そんな私が、最近ちょっと前に聞いた内容がすぽっと抜けるんです。
密かに焦っていました。
遺伝子組換えが多い大豆の摂取量が減ったからかなぁと、きらめき会の大豆製品を多く食べたり、影でこそこそとあがいていました。
そんなある日、この記憶力というのが、ちょっと普通じゃないんだということを教わりました。
「お母さんもやっとまともになったね。やっとまともになった。お母さん多動だったから。」と必死にメモを片手に聞いている私をみて、高橋先生がおっしゃいました。
「・・・・・・。便利だったのに・・・。」
多動と言われてショックはありませんでした。
おかしい話ですが、そうなんだ!納得と思いました。
今までずっと自分がインディゴだとは思ったことはありませんでした。
病院、療育機関では、親もインディゴ傾向であるか調べるところもあるようで、
ママ友の中には、「私、アスペ(自閉の軽度によって名称があり、その略)だし」と話す方もいました。
今まで、ふ~んと聞いていました。
でも今回、私が多動と言われて、納得することが多かったのです。
どおりで幼稚園では、友達と遊ぶより、一人で園庭の木の実や虫を見つけて遊んだり、参観日に遅刻してもまわりを気にすることもなく、重役出勤のようにゆうゆうと一人教室に入ったり、マイペースな訳です。
女の子なのに、仲間で遊ばないのです。遊べないもしくは、一人でも大丈夫だったのでしょう。
納得した瞬間、不思議なことに気づきました。
「便利だったのに・・・記憶力。となると・・・あれも多動だったから?」と自分の特技的な部分がにぶってきているのに気づきました。
最近3週間ぐらい風邪をひいていました。それと同時ににぶった感覚がありました。
「えーーー!普通になったらどうしよう。」
そう思いました。
自分のちょっと敏感すぎる感覚や記憶力は気に入っている能力でもあったのです。
私は、それらが普通になるのがいやだと思いました。
そんな私は、寛希が普通になることに必死になっていたのですが、おかしな話です。
今回のことで、私は、寛希を普通にしようとしていたことに疑問をもちました。
そして、「寛希の良いところを伸ばし、この3次元で上手く人とコミュニケーションをとってやっていけるようにする」という高橋先生がはじめのころにお話になったことの意味がようやくわかり始めました。
寛希も今で十分楽しいのです。私が幼稚園で何も気にならず、(友達と組むことを必要としたときは不便でした。)楽しんでいたときのように。
寛希のいいところは、私は上手く表現できませんし、まだわかっていません。
自分の好きなところも30歳すぎて、今回失いかけて気づくことができました。
私の記憶力は、便利でもあり苦しい部分でもありました。
自分がしてしまった失敗、発言、嫌な出来事もなかなか忘れられないのです。
人は忘れられるから良いのです。
高橋先生に、忘れないと新しいことが入ってこないと教わりました。
陰陽があるように、入ると出るはセットです。
やっぱり記憶力は普通が良いと思います。
でも、私にはにぶって欲しくない感覚や特徴がまだあります。
おかしいですね。
人の良いところはどのようにきづくのでしょうか。
それは、その人の良いところをみようとしないと見えてこないそうです。
自閉の場合、何ができないか、何が問題になり、これから先につまづくかと観察しているのであれば、その子の良いところは見えてこないと思います。
良いところをみようとすれば見えるということは、気になるところをみようとすれば、気になるところが見えてくるということです。
良いところも、気になるところも両方みるようにしているという人がいるかもしれません。
でも私は、良いところだけみていたいと思います。
気になるところをみていたって何も意味がありません。気になりだしたら、そのことにこだわり、とらわれて、ますます気になります。
その分の時間、良いところを見て、多くの良いところを見られるほうがずっと素敵だと思います。