みやびのまなび

インディゴの子をさずかり、幸せなご縁に恵まれ、真実を学ばせていただいている。
みやびと子供の成長のきろく。

みやびの子育て ③

2007-12-17 14:58:46 | みやびの子育て
以前、「寛希の良いところを伸ばすように育てていこうと思います。」という内容をブログで書きました。

この文章を書いておいて、ここで書くのもおかしいのですが、
実は頭でそう思っていても、しっかり理解していませんでした。

最近、私は記憶力が低下しています。
自慢ではありませんが、記憶力には自信がありました。
それがおかしいのですが、自分の興味があることや、言われた事、人などについてです。

興味がないことについてはさっぱり。
覚えようともしません。
そのおかげで、学力には結びついていないので悲しいところ。

でも、便利だったんですよ。
主人や家族が言った言葉をほんとによく覚えていたので、
主人は私に「みょうがを食べたら」と言っていました。
良い面では、「私が聞いていれば間違いなく再現してくれるから」と言っていました。

そんな私が、最近ちょっと前に聞いた内容がすぽっと抜けるんです。
密かに焦っていました。
遺伝子組換えが多い大豆の摂取量が減ったからかなぁと、きらめき会の大豆製品を多く食べたり、影でこそこそとあがいていました。

そんなある日、この記憶力というのが、ちょっと普通じゃないんだということを教わりました。
「お母さんもやっとまともになったね。やっとまともになった。お母さん多動だったから。」と必死にメモを片手に聞いている私をみて、高橋先生がおっしゃいました。

「・・・・・・。便利だったのに・・・。」

多動と言われてショックはありませんでした。
おかしい話ですが、そうなんだ!納得と思いました。
今までずっと自分がインディゴだとは思ったことはありませんでした。
病院、療育機関では、親もインディゴ傾向であるか調べるところもあるようで、
ママ友の中には、「私、アスペ(自閉の軽度によって名称があり、その略)だし」と話す方もいました。
今まで、ふ~んと聞いていました。

でも今回、私が多動と言われて、納得することが多かったのです。
どおりで幼稚園では、友達と遊ぶより、一人で園庭の木の実や虫を見つけて遊んだり、参観日に遅刻してもまわりを気にすることもなく、重役出勤のようにゆうゆうと一人教室に入ったり、マイペースな訳です。
女の子なのに、仲間で遊ばないのです。遊べないもしくは、一人でも大丈夫だったのでしょう。

納得した瞬間、不思議なことに気づきました。
「便利だったのに・・・記憶力。となると・・・あれも多動だったから?」と自分の特技的な部分がにぶってきているのに気づきました。
最近3週間ぐらい風邪をひいていました。それと同時ににぶった感覚がありました。
「えーーー!普通になったらどうしよう。」
そう思いました。

自分のちょっと敏感すぎる感覚や記憶力は気に入っている能力でもあったのです。
私は、それらが普通になるのがいやだと思いました。

そんな私は、寛希が普通になることに必死になっていたのですが、おかしな話です。

今回のことで、私は、寛希を普通にしようとしていたことに疑問をもちました。
そして、「寛希の良いところを伸ばし、この3次元で上手く人とコミュニケーションをとってやっていけるようにする」という高橋先生がはじめのころにお話になったことの意味がようやくわかり始めました。

寛希も今で十分楽しいのです。私が幼稚園で何も気にならず、(友達と組むことを必要としたときは不便でした。)楽しんでいたときのように。
寛希のいいところは、私は上手く表現できませんし、まだわかっていません。
自分の好きなところも30歳すぎて、今回失いかけて気づくことができました。

私の記憶力は、便利でもあり苦しい部分でもありました。
自分がしてしまった失敗、発言、嫌な出来事もなかなか忘れられないのです。
人は忘れられるから良いのです。
高橋先生に、忘れないと新しいことが入ってこないと教わりました。
陰陽があるように、入ると出るはセットです。
やっぱり記憶力は普通が良いと思います。
でも、私にはにぶって欲しくない感覚や特徴がまだあります。
おかしいですね。

人の良いところはどのようにきづくのでしょうか。
それは、その人の良いところをみようとしないと見えてこないそうです。
自閉の場合、何ができないか、何が問題になり、これから先につまづくかと観察しているのであれば、その子の良いところは見えてこないと思います。
良いところをみようとすれば見えるということは、気になるところをみようとすれば、気になるところが見えてくるということです。
良いところも、気になるところも両方みるようにしているという人がいるかもしれません。
でも私は、良いところだけみていたいと思います。
気になるところをみていたって何も意味がありません。気になりだしたら、そのことにこだわり、とらわれて、ますます気になります。
その分の時間、良いところを見て、多くの良いところを見られるほうがずっと素敵だと思います。

現代健康研究所に通うまで 

2007-11-09 14:13:01 | みやびの子育て
我が家がお世話になっている現代健康研究所の高橋先生とのご縁は、同じインディゴの子をもつ、ママ友から紹介していただきました。

そのママ友とのご縁もとても面白い。

2年保育の公立幼稚園の入園面接で、寛希はひっかかりました。
障害児枠の面接も受けましたが、落とされるという現実に直面したとき、私はとっても落ち込みました。
周りの療育を受けてきているお子さんは、できるようになっていることが多いのに、私は、寛希に親の名前なども一切教えていませんでした。
できることを増やすのではなく、病的なところがなくなり、自然に成長していくことを大切にするように指導をうけていたからでした。

障害児枠の再面接の時に、小児科の先生が「幼い」と指摘されました。

そこから、私は保育園の障害児枠に希望をだすのか、私立幼稚園を探すのか、いかないのかという問題にぶつかりました。
ルナの岩佐先生は、私が幼稚園に行かないことを納得しないだろうと思っていたと後にお話してくださいました。
その当時の私は、「幼稚園をいけないなんて。」「どこも入れなかったらどうしよう。」と焦っていました。
そして、今まで他の治療や療育施設に通わないことが条件だったルナの指導に不安を感じ始めました。
自閉症の治療を受けているほかのお子さんに触れたのが初めてだったので、いろいろなことができるお子さんと寛希の差が気になりました。
私は新たな治療を探し始めました。

寛希が2歳11ヵ月のとき、「自閉的傾向がある」と言われた時から、インターネットで情報を集めはじめ、最初に、家庭保育園という家庭における幼児教材からはいっていきました。
そこで、障害児担当のカウンセラーの方が訪問してくださりました。
このカウンセラーの方から、「自閉症の謎に挑む」というルナ子ども相談所の岩佐先生の書籍を紹介され、私はすぐに読み、寛希は自閉症だとわかりました。
すぐにルナ子ども相談所へ予約をとりました。
岩佐先生に「自閉症だよ」と言われた時、今までの不安をわかってもらえたという気持と自閉症だといわれた現実と交わった複雑な思いで、その場で泣いてしまいました。
このときまで、私しか寛希が自閉症だとは思っていませんでした。

2歳からはじめた英語教室も他の子と一緒に模倣することもなく、マイペースでした。
歌はすきだったので、歌は歌っていましたが、かんしゃくがひどかったです。
私は寛希を会社に連れて行ったり、色々なところに遊びに行きました。
いつもクタクタになって帰って来ていた私を、母は、なぜ遊びにいってクタクタになってかえってくるのかわからなかったそうです。

ある日、自閉症のテレビ番組を見ていたとき、寛希のよくする遊びをしている場面をみました。何でも物を回転させる仕草をみたとき、もしかしたら・・・と不安がよぎりました。

1歳半健診の時、寛希はひっかかりました。でも、子育ては円(○)だからと親、親戚に言われ、言葉の遅れはそのうちに追いつくと自分に言い聞かせて、保健所相手にバッサリと喧嘩して帰ってきました。
公園友達も多くが、寛希は「お母さんのいうことをよく聞いて良い子ね」と言ってくれていました。理解力がないなんて思っていませんでした。主人の両親もほとんどの人が自閉症とは思っていませんでした。

今思うと、自閉症を知らなかっただけでした。

私は、ただ電車へのこだわりが強い。かんしゃくが強い。2語文を話さないだけで、歌は上手。友達に興味をしめさないで、友達のお母さんのところにいって話しかける。ラムネをむしょうに食べたがる。偏食。そして、3歳になる数ヶ月前にチック。
その当時は、「ただ」と思っていたことが、自閉症の症状でした。

3歳になってから大きな病院へと家族は言いましたが、私はすぐに寛希が生まれて入院していた国立成育医療センターへ予約をとりました。
「先生、自閉症ですか?」とたずねると「あえて病名をつけるなら自閉的傾向があるですね。」と言われました。
その時、私はその意味がイコール自閉症とまでは知りませんでした。
主人も、母も病院で先生と話しました。
「お父さんとはコミュニケーションできますね。」と先生は言われ、私は落ち込みました。
私の母は、「娘(私)が会社へ行っている間、私が相手をしていましたが、ニコニコ笑いますし、こちらに対して反応しますし、理解していないとは感じませんでした」と言っていました。
でも、現実は自閉症でした。

今思い返すと、私は朝は公園で遊んで、午後から母に寛希を預けて会社へ行き、夜遅くに帰ってきて、また家でも仕事をする。子どもよりも仕事優先で、色々なところに遊びに連れて行ったり、ママ友たちとも遊んでいるから子育てはしているつもりでした。表面ではしているように見えたかもしれません。
主人は、仕事が終わって、私のいる会社へきて、私の仕事を付き合ってくれたり、二人で食事をして帰ったりと、二人に子どもがいる行動とは思えないようなことをマイペースにしていました。

さて、寛希が3歳になり、ルナ子ども相談所の岩佐先生の指導のもと、生活が始まりました。テレビなどの電気音を消す。食生活の指導。外出の規制。などがありました。
そして、私は仕事をすぐにやめました。
今度は、自分を責め始めました。私が仕事をしていたからさみしかったのかもしれないと。
そこで、同じく家庭保育園の教材にある抱っこ法を取り入れることにしました。
我が家がやってきているものの多くは家庭保育園で教わったものです。
ルナ子ども相談所、ドーマン法、抱っこ法、コウケントウ、ごしんじょう、舌癒着症の手術などです。
すべて、それぞれまぁまぁ効果はありました。

だいぶそれましたが、話を幼稚園の入園面接の時期にもどします。
ルナ子ども相談所だけに通っていた私は、世間の療育を受けている子どもの状態をみて、焦りました。そこで、次にドーマン法に興味をもちました。

また、そのころ、家からかなり遠い幼稚園への入園がきまりました。
区を1つ越して、自転車で20分ぐらいのところにあります。
主任の先生と、園長先生が入園面接の前に「寛希くん ☆☆幼稚園へおいで」と
言ってくださいました。

幼稚園が決まり、私は、神戸でおこなわれているドーマン法のセミナーに参加しました。
基本は親だけが参加でき、1週間集中しておこなわれます。
そこでお友達になったお母さん(Aさん)が、ルナにも通われているお母さんで、私は何回か顔をあわせたことがありました。
そして、その方から情報を教えていただきました。
それはGFCFダイエット、キレーション(体内に蓄積している有害重金属の除去)、サプリメントに関する自閉症の子どもをもつ親のコミュニティーサイトでした。
すぐに入会して、勉強しました。
そのコミュニティーサイトでは、療育のなかでABA(応用行動分析)、行動療法についても話題が出てきました。
以前、ABAの親の会に入っているお母さんとお話をしたことがあったので、私もそのABAホームセラピーのNPOつみきの会に入会しました。

ドーマン法のセミナーから帰ってきてからは、ますますドーマン法のプログラム中心の生活をしていました。

幼稚園の入園4月になりました。
幼稚園は、とてもやさしい幼稚園でした。私が早く幼稚園に馴染めるようにと先生のご配慮で、私はPTAの役員になりました。そして、裏方が好きだと自己紹介で述べると、園長先生が書記をすすめてくださり、そのまま書記の役につきました。
その書記仲間につみきの会の会員のお母さん(Bさん)がいらっしゃいました。

お母さん友達(Bさん)からABAについてアドバイスなどをいただきました。
ある日、お母さん友達(Bさん)から、つみきの会のセミナーに参加する?と言われ、一緒に参加することになりました。
そこで、BさんのABA療育仲間の(Cさん)を紹介していただきました。
そのABA療育仲間の(Cさん)とも仲良くなりました。
しばらくして、「GFCFダイエットをしているお母さんを探している人がいるんだけど」とCさんの療育仲間のお母さん(Dさん)を紹介をしていただきました。
そのお母さん(Dさん)が、高橋先生を紹介してくださいました。

ご縁をつないでくださったお母さん友達に、本当に感謝しております。
お母さん友達がみな、高橋先生の治療を受けられることに、本当にうれしく思います。そして、私達の子供たちにも感謝の気持でいっぱいです。

いま、考えると、公立の幼稚園に落ちたのも、意味がありました。
現代健康研究所へご縁をいただくためには、練馬区から杉並区の幼稚園へ通う必要があり、落ちたショックでドーマン法の講習会へ参加する必要もあり、GFCFやABAの勉強も必要でした。
人生とは、いらないものは何一つないのだと、鮮明に実感できる経験でした。
そして、私がルナ子ども相談所へ通うことをやめたとき、私が生まれ変わるきっかけ、はじまりとなりました。ルナ子ども相談所は小学校へのこだわりがあります。普通学級に入れるノウハウが欲しいという私の小学校へのこだわりが一致していました。
そのこだわりを捨てる覚悟がやっとできたということに意味があったのだと思います。

みやびの子育て ②

2007-10-18 01:48:58 | みやびの子育て
今日、「マラソン」という韓国の映画を見ました。
ずっと気になっていたのですが、最近知人にすすめられ、先ほどみました。
終始泣き続けました。
子どもが自閉症と診断されるまでと、それを言われた時の母親の精神状態と行動、ある出来事が主人公の心の傷となって大人になっていたこと。
最後はお母さんと主人公ともに成長してお互いが自立へとすすむことができるようにむかいます。
私にも似た感情や行動があったので、涙がとまりませんでした。
疲れきっていた主人公の母親は、動物園で多動の状態の子ども(主人公)の手を離しました。
主人公はこのことにより迷子になりました。その日からお母さんに手を離されないように一生懸命に生きていました。
自閉症の子の記憶力はすごい高いです。
映画では、幼い頃、主人公は簡単な質問をされますが答えられません。その答えられなかった頃の自分を正確に記憶していて、その答えがわかるような条件になった時、答えられなかった場面を思い出し、主人公は答えます。
何年もの時間が経っているのに、その瞬間のように時間が戻るのだと、私達の時間の感覚と違うのだと知り、その純粋な想いがとても心に響きました。
自閉症の子どもの場合、感情の表出がうまくありません。
でも、私はこの子達は強いと思います。
少々のいじめはこの子達は気にしていないと思います。
いじめられたことを嫌だとか、物を隠されて不便だと感じるとは思います。
でも、私達ほど世間体を気にしないので、別にそれほど嫌だと思っていないと思います。
いじめられることが辛いこと、悲しいこと、不安なこと、大変なことだと、
母親がそうゆうふうに感情を教えてしまえばそうなると思います。
ニキ リンコさんの書籍で「自分がいじめられる役だと思っていた。」と書いてありました。
また、私が抱っこ法へ行った最後の日、となりで阿部先生が抱っこをしていて、
「もしいじめられたとしても、1番のママが聞いてあげれば子供は大丈夫。」
と聞こえてきました。
いじめなど、インディゴの子供は大変なのは事実です。
お母さんが全てを聞こうとするのではなく、変化に気がつき、抱きしめることが一番ではないでしょうか。
私は、小学校1,2年の時は友達がいませんでした。
母は心配して担任の先生に相談したことがあったそうです。
でも、私は友達がいないことより、学級委員になれるほどのしっかりした友人関係もきづけないこと、親の期待にこたえられないことに両親に気がつかれたくないと思っていたように感じます。中学1年の時は、先輩に目をつけられ、靴を隠されました。隠した先輩はわかっていました。でも、靴を隠された事実を世間に知られるほうが私は嫌だったのです。靴を隠されるような人間なんだと思われたくなかったのです。
私は小学校3年のクラス替えから性格を変えました。まわりの顔色をみて、空気をいち早く読むようにしました。人に合わせるようになりました。
おかげでどんな人でも付き合えるようになりました。
でも、本当に大切な自分の気持をフタするような毎日になりました。中学校のころには、胃炎になり点滴をうちに行くようなことも増えました。
主人は中学校の現場で感じるようです。
親にこうゆう場合はこうするのと教え込まれてきた子どもは、自己が確立されてきた時、自分はなんだったのかと辛くなり、不登校などの問題を起こしやすいように感じるといっていました。
今日届いた通信教材のダイレクトメールの母親向け雑誌に「みんなができて、○○だけできなかったら、かわいそうじゃない」とお母さんがいっているシーンがありました。
私も寛希が自閉とわかる前は、似たようなことを会社で言っていました。
「幼稚園の時にスイミングへ通って、あらかじめ25M泳げるようになっていたほうが、小学校の体育の授業でプールに入ったときに、泳げるメンバーになっていて、良くないけど優越感を味わい、すごいねと言われることによって自信となると思うんですよね。」と。
米村でんじろう先生に「男の子はそんなの気にしないよ。母親ってどうしてそう考えるんだろうね。母親と子どもって違うんだよね。とくに男の子は。母親はなんで出来ないの!とか勝手に怒っているんだよね。」なんて会話をしました。

今回の映画もそうでした。
主人公の母親は楽しみを見つけてあげたいと必死でした。

この映画を紹介してくださった方は、インディゴ系のお子さんをもつお母さんです。お子さんは20歳近くです。
その方は私に「私達の子どもはすごいんだよ。変人なんだよ。変人を産んだんだから私達も変人なの。どこに才能があるかわからないんだよ。その才能を見つけてあげるような育て方をしていったほうが良いよ。そうゆう育て方を早くからした方が良いよ」と教えてくださいました。

高橋先生にも、「どこに才能があるかわからないから、何でもさせてあげると良いよ」と教えていただきました。
私、すぐに我が子の才能開花への模索をし始めました。
でも、しばらくして気がつきました。
なんでも経験させることは大切だと思います。
ピアノを慣わすことを考えたり、与えることが才能開花ではないように感じました。
能力開発が最近よく話題になります。
そのなかで、いい道具を与えることというのがあります。
確かに楽器の場合は大いに影響があると思います。
でも、天才は環境だけで天才になるものではないように感じました。
子どもが興味をもったものからスタートし、いつか才能の花が開花するように感じます。
いま、私達ができることは、子どもの興味を尊重し、大切にしてあげることではないかと思いました。
ということで、我が家では親が子どもの才能探しをするのはやめました。
子どもの興味、関心を持ったものに、親が深みをだして与えることを心がけるようにしています。

先日、寛希がラクダに会いに行きたいといったので行きました。
するとラクダよりもカバに感動して二度もカバのところへ行きました。
ラクダからカバへと興味が広がっていました。すごいですよね。
インディゴの子どもはすごいのです。

母親とはどうあるべきなんですかね。

映画は、母親の主人公をおもう間違った判断が、家庭を崩壊させ、みんながつらい状況となっていました。

私は、母親とは家庭の太陽であるべきなのだと感じます。
私も以前は自分が社会で評価を得たいと思っていました。
社会に私の存在価値を認めてほしいと思っていました。

今は、妻として主人を支えたいと思います。
家族が社会でがんばってこられるように、私が家族にエネルギーをあげられるような人になりたいと思います。
子どもや主人が帰ってきて、落ち着けるような空間をつくるのが私の役目だと感じるようになりました。
社会でがんばってくる家族を通して、私は社会とつながっているんだと思います。
やっとそう思えるようになりました。

今日の映画はとても深い内容でした。

みやびの子育て

2007-10-16 03:15:58 | みやびの子育て
来月は就学時健診です。

寛希はうけません。
4月からは小学校へ通いません。

寛希を寛希らしく育てたいからです。

ルナ子ども相談所でも小学校へのこだわりがあります。
幼稚園は行かなくても、小学校からは行かせます。
そして普通学級へ行けるように目標をたて、状態が不安定な子どもの場合、幼稚園はいかせません。

自閉の場合、集団での行動はかなりのストレスになるからです。

一人に言われたことは理解できても、全体に向けられて言われた指示が通らないこともあります。理解度という視点で言われていますが、聴覚の問題もあるとおもわれます。

小学校へ入学されたインディゴのお子さんをもつママ友が以前お話をされていました。
「小学校へ行ってきて、疲れてグッタリ」と。

幼稚園は行かなくてたって大丈夫です。
自閉症は脳の病気です。心臓が病気だったら入院しているでしょう。
それと同じです。治療が必要なら、治療を優先した生活が大切だと思います。

小学校はどうか。それはご家族の判断によると思います。
そのお子さんをどうしたいのか?だと思います。

我が家は、高橋先生に寛希が小学校へ通っても良いよと言われるまで、
家で勉強を教えます。
経験もできるだけさせます。

大学時代に伝記を読んで感想文という課題がありました。
私は苦手だった波動方程式をつくったシュレディンガーとキュリー夫人を買ってきました。結局感想文はシュレディンガーにしたのですが、キュリー夫人も少し読みました。キュリー夫人はお子さんの教育に良い学校がなかったので、知り合いの仲間と共同授業をして、子ども達に勉強を教えたそうです。キュリー夫人の娘も後にノーベル賞を受賞しました。そこだけ覚えているのも面白いなぁと思いました。

結構、楽しみなんです。
教育指導要録なんて取り寄せちゃおうかなぁと思っています。きっと参考程度にしか読まないと思いますが、形から。。。