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ART COMMUNICATION IN SHIMANE みるみるの会の活動報告

島根の美術教育関係者が集まって立ち上げた対話型鑑賞の普及に努める「みるみるの会」の活動情報をお知らせするブログです。

12月のオンラインみるみるは2019年制作の鉛筆画を鑑賞しました

2024-01-28 21:59:57 | 対話型鑑賞

2023.12.16 

オンライン鑑賞会(みるみるの会)5名

鑑賞作品:谷平博「船小屋 佇む男 意味不明1」(制作:2019年) グラファイトによる鉛筆画

ファシリテーター・レポーター:正田裕子

以下、当日の鑑賞の様子の概略です。

(アルファベットは鑑賞者/※はファシリテーター )

 

▼対話型鑑賞の流れの概略

見えていること・主として中央に立っている存在からその存在と背景の廃屋との関係について

  • 人が画面中央にいると思ったが、よく見てみると、顔や手の部分に植物が見えていて、だけど、服を着てい

るので、完全に植物かそれとも人に植物が生い茂っているのかよく分からない。 持ち物が植物であることや背景に植物が多くあることから。

B)真ん中の人物が人ではなくなっている。背景に小屋が朽ち果てていっている様子からも、全体に怖い印象

をもった。

C)話題となっている人らしきものが動きそうだ。案山子の様なものに植物が巻き付いたものではなく、植物型の人らしきものに感じている。植物なら、根を生やして動くことはないが、ゲートボールのスティックのようなものを右手と左手でしっかり持っている様子から、(中央に立っているものは)で、固定していない感じ。 長い年月を経て、植物が生えてきたのなら、身に付けている衣服の所々から植物が突き出てきても良さそうだし、持ち物のボディバッグも覆われていると予想されるが、人間の体が、植物に置き換わっているから動き出しそう。

 

C)逆で、植物型人間に見える。

D)漫画のワンシーンに見える。中央の人物は持ち物の様子から身構えて防御しているように見える。杖のよ

うな物の加工されていない部分を上にして持っていることから、攻撃性も感じる。葉っぱに見えている部分は装具なのか?緊迫感のようなものを感じる。

E)後の風景がなんとも言えない。放ったらかしだったように見える。建物が崩れかかっているようだ。(画面

右側の建物による詳細な叙述)しかし、扉を開けられないようにしてしまった人も、もうこの場に来ていないの

ではないか。手入れのしていない壁や屋根の様子から。(左後方の建物の詳細な叙述)柱も落ちかけている

し、後の木々も鬱蒼としている。手前の草も荒れており、人の入ってきた痕跡がない。だから人の手入れがなされていない。

C)左奥の倒れかけた建物の中にあるのは、使わなくなった舟ではないか。船外機であるエンジンをとりつけるような簡易な舟で、それさえももう外れている。そこから、手前にある草地は浜であったところで、船小屋が

あったのではないか。だが、手前の人が着ている物は、漁師のような服に見えない。のど元にあるのはTシャツに見える。70年代のヒッピーの服装っぽくて、昭和の時代の服装に見える。あれ果てた船小屋とどういう関係があるのか分からない。

※背景と手前の人物らしき人について述べていただいた。時代背景についても発言があった。

 

中央に描かれている人物らしき存在の解釈について

※この人物らしきものは、皆さんどのような存在と考えますか。

A)まっすぐ立っている様子から、門番のようなイメージを受けたが、人間が植物になった様に見えることからそれだけ長い間立っていたと言えると思う。やはり、持ち物が気になっていて、反対にこの持ち物で、後方の建物を壊そうともしているか侵略者とも考えられるかもしれない。(※前述の鑑賞者Dさんの発言にもふれる)

B)背景の小屋と前に立っている人の格好がそぐわない。漁師や農業をする人の格好ではない。だから、この人はふらりとこの場に来たように見える。そして、長い時間の経過がこの画面に表れている。

※(「時間の経過」という発言をうけて)この作品の題名ですが、「船小屋、佇む男」と言う作品です。それを聞かれて、皆さんどう思われましたか。

(しばしの沈黙)

D)十代の少年、高校生くらいかと思っていたけれど、「佇む男」と聞いて、二十歳を超える青年くらいなのかと思った。どちらにしても世間から隠れたい青少年の心境が姿に表れているのではないか。佇むまま居続けるのか疑問である。自分が考えていた姿とは違和感がある。(※若さを感じるのは、どこからか)服装や、持ち物のボディバッグが十分に膨れていることと、姿(の植物の部分)が枯れていないことからエネルギーを感じる。

B)限界集落が散見する現代、人口流出する地域も多くある。この場所は、そのような場所で、残って守ろうと思っていた人ではないか。事情があってふるさとを離れたが、かつてのふるさとに戻り、朽ち果てた小屋や荒れた風景を見て愕然としている。しかし、背景の小屋の姿にもある様に、そのままふるさとを離れずにいたとしても小屋と同様で、どうにもならなかったのではないか。だから都会に行くしかなかった。ふるさとと疎遠になってしまった姿ではないか。

C)それを聞いて、中央の人は生身のまま描く気持ちになれなかった。自画像に見えてきた。この人の姿は、生身では描けない心境にみえる。

D)反対に、Iターンしてきた印象がある。都会の人間関係やさまざまなしがらみの中で、そこを捨ててこの場にいる。ポジティブな印象をどうしても持ってしまう。この場を自分の聖地にしたいと思い、自ら好んでこの姿をしているのではないか。

B)時間や見えている物からギャップを感じる。小屋を背にして前を向いているということは、やはり小屋を守りたいと思っていたし防御の姿でいることから守るべき物であったと思われる。それが、今では崩れているものを背にしていて、悔やむ気持ちがあらわれていて、画面中央に描かれていることからも、それをアピールしているようだ。

D)描かれている背景はどうしたって朽ちていくしかないこの状況の中で、現代人の服装を着ている姿から裸にはな現代人の性を感じた。そしてここで生き抜いていく強い覚悟を感じた。

※みなさんで、中央に立つ人の姿に相反する心境を読みとっていただきました。この作品は、鉛筆で綿密にかなりの時間をかけて描かれている作品作者の強い想いもあると思います。それを皆さんの発言で読み解きほぐして頂いたのではないかと思います。貴重な時間をありがとうございました。

 

▼鑑賞参加者より

・ファシリテーターの知っている作者の作品だということだが,作品制作の意図等については,ファシリから明かされない状態で鑑賞に臨めたのはよかった。

・前出の参加者の発言を途中でコネクトできていた点はよかった。

・タイトルの情報が出る前に、徐々に中心人物らしき物に対する解釈が構築されつつある流れができていたところだったので、情報が出された後にどのように考えていったらよいか迷った。また、ある鑑賞者の「中央に描かれている存在が動きそう」という発言が印象的で、この場を守り抜く存在と軽やかさを持つ存在とのギャップでまとめられてもおもしろかったのではないか。

・「中央に描かれているもののどこから植物と感じたのか」「背景と中央に描かれている存在の関係性やギャップ」についての問いかけが印象に残った。

・対話の中に、ズバリタイトルである「船小屋」というキーワードもあったので、そのタイミングで情報を出しても良かった。鉛筆で描かれている作品であるという情報をだすことで、作者の作品に対する執念や強い意志など、新たな解釈が生まれたかもしれない。

 

▼考察

・ひととき、類似した発言が繰り返されていた時があった。もっと見るべき所と、要素の小まとめが十分出来ていれば、作品に対する意見が散逸せずに、解釈に深まりが生まれたであろうと思われる。

・話題の中で出したタイトルの情報の中で、「意味不明1」という言葉自体に対話の流れが引っ張られるのではないかと危惧したため伏せたが、それをキーワードとして鑑賞していく方が、作品に対する解釈に深みが生じた可能性があったと思われる。

・鑑賞のまとめとして、中央に描かれている存在の心境を「相反する」とまとめてしまったが、対話で発言があった「時の経過」「栄枯盛衰」「疎遠」「聖地」などキーワードとして、まとめられたら良かった。

・鑑賞者の思考がつながり積み重なるように、焦点化すべきことと小まとめを的確にできるようにスキルを磨いていく必要がある。

 

▼まとめ  

要素が多く含まれる作品でしたので、どこまで皆さんの意見をまとめきれるかと、自分への挑戦となりました。エネルギーあふれる鉛筆画の作品でしたが、作品の力強さを実感していただくファシリテーションが十分できなく、リベンジをしたいと思いました。課題として、 鑑賞者の意見を集約し切れなかった点と情報提供するタイミングにもっと配慮が必要だった点です。作品の深い解釈にむけて「そこからどう思う?」への鑑賞者の発言を関連付けていく力をもっと磨いていきたいと思います。そして、今後も同じ作品を鑑賞する機会をもち、この作品の魅力をさらに見いだしていくことの出来るファシリテーションを目指していきたいです。

なお、鑑賞者の同意を得て、この度の鑑賞会に作品データを提供くださった作者である谷平博さんにも記録の様子を見ていただきました。「自身の作品について多くの意見を聞くことができて、とても嬉しく、また参考になりました。」とのことでした。

みなさん、貴重な学びの機会をありがとうございました。 


10月のオンラインみるみるは、童画で対話しました

2023-11-26 21:18:50 | 対話型鑑賞

日時:2023年10月28日(土)20:00~20:30   

作品:「四季の森」 林義男作 (足立美術館 所蔵)

ファシリテーター:房野伸枝

参加者:みるみる会員5名

画像リンク先:足立美術館ミュージアムショップ / 四季の森 (adachi-museum.or.jp)

 

 私は今年度から小学校勤務となり、小学生を対象に対話型鑑賞を行うようになりました。ただいま、低学年でも対話が活発にできる作品選びをしているところです。今回の作品は、童画で子どもたちにも親しみやすく、また、低・中・高学年で実践したところ、年齢が上がるにつれて解釈にも幅が出たので、大人では、どんな対話が展開されるのか興味がありました。

 

 <鑑賞の流れ>

・は鑑賞者の発言の要約。    ファシリテーターのパラフレーズは省略。 

F:ファシリテーターの発言。(  )はファシリテーターの意図。

 

・4本の木に顔があり、かわいらしい印象。目を閉じているが、口元が笑っていて、親近感がわく。

F:木を擬人化しているのか、人を木に見立てているのか、どうでしょう?(擬人化についての焦点化)

・木を人に見立てていると思う。四季を表している。桜のようなピンクの木と鳥がいるところが春、青い葉が茂っているのは夏、黄色く紅葉しているのが秋、葉が落ちていて、ミノムシがいるのが冬。

・木の幹の色も四季を表している。それぞれの木の幹も、春は白っぽく、夏はコントラストの強い色、秋は紅葉しているので幹も茶色、冬はグレーっぽい。

・楽しさを感じる。秋の木の下で人?小人?が踊っている。手を挙げて、足もステップを踏んでいるような恰好で、4本の木も枝の様子が手を挙げているようで、表情も口角が上がっていて楽しそう。リスとウサギも楽しそうにみている。

・ウサギやリスと大きさを比べると背丈が変わらないので踊っているのは小人では。太鼓をたたいている小人もいる。小人がいる木が秋の木なので、この場面は秋を表しているのでは。日本なら秋祭りがある。小人の服装はヨーロッパっぽい。

・メインは秋だと思うが、季節を象徴するものとして木を描いている。四季は順にめぐっていくので、春の木は他よりは距離があるのをみると、自分の順番が来るのを待っているように感じる。

F:木を擬人化しているとも、四季を擬人化しているともいえる。(擬人化についての確認)

・太陽の様子が、ピエロが笑っているような表情に見えるから、下で踊っている小人をにこにこみている。

F:太陽が小人を見守っているということ?(太陽の役割についての返し)

・木も日の光が大事なので、木も笑っている。その全体の様子を太陽があったかく見守っている。

・幼児向けの絵本の挿絵のようで、見ているうちに四季の巡りを気付けるようになっている。子どもにもわかる「童画」では?

・とんがり帽子をかぶっている小人が11人みえるが、木の後ろに一人いれば、12人ということで、12か月を表しているのでは。太鼓をたたいている年を取った小人は髭を生やして音頭を取っている年代が違う小人。

F:髭を生やして太鼓をたたいているおじいさんについては?(音について、他の小人との関係性についてもう少し意見を引き出したい投げかけ)

・木を囲んでいる小人は若々しい。太鼓をたたいている小人は白髭を生やして赤鼻でおじいさん。踊っているのは孫?年寄りは子どもが好きで、子どもも年寄りが好き。ホンワカする雰囲気がある。

・年寄りがお祭りの踊りを子どもたちに教えているのかも?

・学校なのかも?太鼓をたたいているのは先生かも。学芸会の季節なので同じような衣装を着て、出し物の練習をしている。

・太鼓のおじいさんはリズムをとって、みんな拍を合わせている。規則的なリズムをとって、順繰りに時間や季節を巡らせているのでは。

F:なぜ、秋だけクローズアップされているのでしょう?(秋について解釈を深めるための投げかけ)

・学芸会シーズン、実りの秋、ハロウィーン、感謝祭、1年の豊穣をお祝いしている。金色の落ち葉の上を踊っている様子から、1年の成果が表れるのは秋だから、秋の実りを喜ぶということを伝えているのでは。

・秋だけに落ち葉があるが、春には、アカゲラ、夏には小鳥、冬にはミノムシ、秋だけには一緒にいてくれる存在がいない。だから、秋にはさみしくないように小人か子どもたちが寄り添っているのかな。その逆で、秋にたくさん集まっているから、他の木に動物たちが集まっているのかもしれない。

F:どの木にも生き物がいて、季節は巡ってもその季節に似つかわしい動物たちがいる。実りの秋をお祝いする意味でも、秋の落ち葉の上をステージに見立てて、小人たちが1年の収穫をみんなでお祝いしている。季節の営み、収穫、実りへの喜びを表現しているという場面なのではないでしょうか。(まとめ)

 

<ふりかえりでの鑑賞者の意見(18分)>

・しっかりと見る視点を誘導してくれたのはわかりやすかった。「○○について、どうですか」と言われた時、自分が違うところを見ていたので言っていいのかな、どうしようかな、と思ってしまった。木についてもう少し話したかった。木の表情と様子について、何を意味しているのか、木の関係性や、家族を模しているものはあるのだろうかなど、考えることがあった。

・木のディスクリプションがもっとあったらよかった。春の木以外も一本ずつちゃんと見ていくとよかった。並べ方や木の擬人化などの意味も聞いてもよかった。

・背景について、太陽が出ているが、空の色が白っぽかったりするところもあったり、もっと言及すればよかった。

・この作品をみんなでどう見るか、という作品のコンセプトはどうだったか。こどもたちはVTSでいいが、大人向けにはACOP的に、コンセプトについて、この作品の言わんとしているところを、ファシリとして、みんなの言葉から紡いでまとめをするといいのでは。

 

<ファシリテーションをして>

 小学生対象には意見が出やすい作品だと思います。しかし、ご意見にもあったように対話型鑑賞に慣れていて、鑑賞力も向上しているみるみるのメンバーとの鑑賞では大人向けに進める必要がありました。今回は大人が鑑賞者ということもあり、作品の解釈には早めに達したので、30分で締めましたが、鑑賞者が十分に作品を鑑賞したと感じられるようなファシリテーションを心がけたいと思います。貴重なご意見をくださった鑑賞者の皆様、本当にありがとうございました!鑑賞者に合わせて深い解釈へ言葉を紡いでいけるようになるため、今後も励みます。

 

 


7月オンラインみるみる鑑賞会 

2023-07-20 23:38:19 | 対話型鑑賞

日時  2023年 7月14日(金) 20:00~21:00   

ファシリテーター:房野伸枝

参加者 : みるみるの会メンバー 3名

鑑賞作品 : 「解放」  ベン シャーン 作  ニューヨーク近代美術館 蔵

画像リンク :https://pin.it/4fzfmUN 


 私がこの作品で対話型鑑賞を始めたのは11年前。中学校の美術科の授業で生徒を対象に行ってきました。ちょうどその頃は「東日本大震災」の後で、生徒たちは様々なメディアから流れてくる津波や被災の様子に触れていたので、この作品から「津波」「地震」「避難」を読み取り、解釈することが多くありました。人は情報として知っていること、経験したことから物事を語るので、それも致し方ないのですが、実際は1945年に描かれた、フランスがドイツ軍から解放された事を描いた作品だそうです。しかし、そんな情報を得なくとも、「何か大変な災厄が起こり、3人の子どもたちはそれに翻弄された被害者。 遊具で遊んでいるようでも顔や体はこわばり、不安定な様子が感じられる」ということには、毎回たどり着きます。そこから「(戦争を含む)このような悲しいことは2度と起こしてほしくない」という解釈に結びついていくのがほとんどです。

昨今も、ロシアのウクライナ侵攻、異常気象による洪水などのニュースが後を絶ちません。そんな中、大人はこの作品をどのように鑑賞していくのか興味深く、ファシリテーションに臨みました。

<鑑賞者からの意見>(抜粋。パラフレーズは省略。Fは起点にしたファシリからの問いかけなど)

 

・廃墟みたい。回転する遊具、3本グリップがあり、女の子が3人遊んでいる。

・壁が壊れている。内装の壁紙、ドア、窓がむき出しに見える。下に瓦礫がごろごろしている。建物が傾いている。

・子どもは遊んでいるんだけど、顔が楽しそうではない。怖い顔をしている。目を見開き、恐怖にこわばっていて、ひきつっているよう。

F 楽しそうではない、っていうことは、これは遊んでいる場面なのでしょうか?(揺さぶりをかけてみる)

・赤いポールや、遊具の形から、「回旋塔」という遊具であると思われる。(ただし、危険な遊具ということで、日本の学校や公園からは撤去されており、30代以下の人は見たことも経験もないかも。)

・背景が怖い。横向きの激しい筆あとで、強い風が吹いている感じ。青い色だが、すっきり晴れた青空ではない。背景の瓦礫と相まって、いい感じがしない。

F では、これは台風や竜巻のような自然災害でおきたことでしょうか?

・台風なら、家の半分だけが壊れるということはないと思う。爆弾?台風なら、瓦礫がこんなに粉々ではないだろう。爆弾で破壊されたものでは。

・不穏な感じ。壁紙が明るい花柄だったり、暖色系の壁紙だったりなんだけれど、それが壊れてむき出しになっているというところに非日常的な感じを受けるし、瓦礫もこんなに手前にたまっていて、女の子は緊張している感じがするし、全体的に明るい感じがしない。もとはそれぞれの部屋で温かい生活があったと思わせるが、それが壊れている。その対比が余計に怖い感じ。

F 背景をもっとよく見てみましょう。(さらにディスクリプションを促す)

・壁に弾痕があり、屋根も黒く焦げているようなところがあるので、戦災だと思う。

・瓦礫がきれいに寄せてある。遊具のポールのあたりは瓦礫がなくなっている。だから、戦いが激しい時ではなく、大人たちが、子どもたちのために瓦礫をどけて、遊べるようにしたのでは。

・けれど遊んではいても、家族を戦火で奪われた子どもたちと思われるので、表情に陰かがあるのかな。

・ウクライナの子どもたちが浮かんだ。同じように爆弾が落ちて、ニュースで見た道路はこんなにきれいじゃなかった。・瓦礫をどけて、子どもたちがこんなに遊べるようになったのは、もう、狙われなくなったということでは。外で遊ぶことを親が許すってことは、もう攻められなくなった確信があるのでは。

F 瓦礫の状況から、戦争の状況や時系列について新しく発見してくれました。

F 子どもたちについて、これまでの意見を踏まえてもう一度よく見てみましょう。

・体が突っ張って、緊張しているように見える。腕もピンと伸びて、緊張感がうかがえる。

・怖い思いをした経験があるから、その場所にいれば思い出すことがあると思うが、それでも子どもは遊びたいんだな。と感じる。そんな元気な子どもを見る大人はホッとすると思う。

・どうしてこわばっているかというと、足がつかないからかな?

F こういう遊具で遊んだことはありますか?

・回旋塔や回転シーソーで遊んだことがある。ちょっと怖いけど、遠心力でふわっと浮遊する感じが楽しかった。

・ふわっとする感覚は、非日常を味わえるということ。戦争でつらい気持ちを、非日常の遊具で癒しているのかも。

・子どもたちの服の色と、壁紙の緑やオレンジ、赤が似ていて、対応しているように見える。

F 壊された部屋と子供たちの関連性を感じるということでしょうか。

F 爆撃で壊された建物の廃墟を背景に遊ぶ子どもたちということを踏まえて、さらに何か?

・カウンセリングで、家族を亡くした人に「元気出して」となぐさめの言葉をかけても悲しみは癒えない。一緒に散歩するなど、行動を促して一緒に体を動かすほうがいいという話を思い出して、この子どもたちもつらいことを抱えているんだろうけど、体を動かして、ふわっとなるような、危なっかしい遊びを思いっきりすることで、つらい社会の出来事を行動で癒すとか、本能的に動いているのでは。やらざるを得ないというか、体が勝手に動くというか。

F子どもの生命力が垣間見える。けれど、戦争によるつらさも抱えている。

・強い風が吹いているけれど、子どもの周りは明るい色。左半分の子どもの周りは元気になろうとしている感じがする。

・どんな状況でも遊ぼうっていう気持ちがあることに希望がある。

Fその希望は、子ども自身も、周りで見る人にもあるということのように感じます。

 

<ふりかえり>

・最初に怖いという雰囲気だけだったが、よく見ることで、その理由を考えていくのが楽しかった。

・ファシリの流れについて、最初の印象、人物、背景のディスクリプションをして、また人物に戻ってシフトアップするという流れがとてもスムーズだと思った。パラフレーズが自然で小まとめをしてもらえてよかった。

・緑の服の子の表情が気になった。どうしてあんな表情なんだろう。足がつかないほど高いから?

・この遊びの危険性やスリルから顔がこわばっているのか、背景の戦災からくるものなのかは、人物のディスクリプションをみんなで重ねていけば分かってきたのかもしれない。足のポーズも気になる。危うさや浮遊感を感じさせるにはこの異常な高さは必要なのかも。

・人物のポーズ、特に下半身については意見が出なかったので、もっと丁寧にディスクリプションすればよかった。

・なすがまま、自分ではどうしようもない感じは、遠心力で飛ばされそう、手が離れたらとばされることでよくわかる。。

・以前、鑑賞した中学生はこの遊具を知らないから、遠心力で飛ばされそうな様子は想像しにくかった。この遊びの経験の有無が解釈を左右するかもしれない。

・鑑賞を楽しめた。最初の不穏で暗い印象から、皆さんの話を聞いているうちに、子どもたちを次への希望として描いているのかな、というように印象が変わった。

鑑賞者が3名と少人数でしたが、瓦礫が寄せられて子どもが遊べるようになっているという意見が、これまでの私の鑑賞会にはなかった視点でした。それにより、これは戦争が終わった直後か、しばしの休戦時なのだという、根拠に基づいた解釈につながりました。子どもたちはまだ戦火の傷は癒えず笑顔にはなれなくても、本能的に遊びを求める存在であり、それがすべての人の希望でもあるのだという解釈は、対話を通してこそ導かれたのだと思います。鑑賞を通じて現在の社会情勢についても考えるきっかけにもなりました。参加してくださった皆様、ありがとうございました。


2023年 第1回目のオンラインみるみる鑑賞会です。

2023-07-02 15:16:48 | 対話型鑑賞

みるみるの会6月オンライン例会 対話型鑑賞会 2023.6.17(土)20:00

参加者:みるみるの会メンバー:3名

ファシリテーター:津室和彦

鑑賞作品:「〈11時02分〉NAGASAKI」 東松照明 ゼラチン・シルヴァーー・プリント 1961

出雲文化伝承館でのリアル鑑賞会に続いての,オンライン鑑賞会でした。

3名の鑑賞者という最小構成ではありましたが,それぞれに沢山の発言をしていただけました。ファシリテーターとしては,ディスクリプションを重ね,思考の階層をシフトアップしたいと考えて臨みましたが,機を逸したのが反省です。

  

  • 話し合いを深めるための,情報提供

今回一番の反省点は,撮影された場が「日本」だという情報を提供しなかったことです。振り返りでも指摘していただいたように,情報を示す事によって,対話が大きく変わった可能性があります。

3名の鑑賞者それぞれが,ギリシアやローマの古代遺跡のような場所という見解を示し,そこに基づいて話し合いが進み始めた辺りが,情報を提示するタイミングだったように思います。次項,鑑賞の流れとともに記します。

 

  • 鑑賞の流れ
    • 像についての発言

・石の神殿の跡に顔の彫像が7つ 横に翼みたいなものがあることから,女神ではないか

・石が並んでるところからお墓っぽい 意図して配置された墓か石碑か

・怖いという第一印象 影が多く黒い部分が目に入ってくる

・顔だけ不自然に上を向いている わざわざ上に向けられているのかもしれない

・人の顔を潰したり塞いだりというのには心情的に抵抗がある 人間の顔を下向きのままにし

ておくのは気の毒に感じたのでは

・向日葵が太陽を向くのと同じような生理的なものを感じる 太陽を向くベストポジション

  • 周りの様子について

・自然に倒れた遺構のような感じ 恣意的に破壊されたのではない 宗教が変わったり侵略者

が他民族を駆逐したりしたのならば,もっと徹底的に破壊されるから

 文化的に源流を同じくする民族だったら,顔の崩れや破壊はいたたまれない

・遺構全体には手が付けようもないが,せめて顔は上を向けてあげようというもの

・石積みの建物が,風化等で自然と崩れたのかもしれない

・地震かもしれない(ヨーロッパでは地震は少ない)

  • 像と周りの様子を合わせてみて

・草が生い茂っておらず,それほど荒れていない

・遺跡で何世紀も放置された感じではなく,やはり配置されている

  • 写真作品としての撮り手の意図,そしてそれを超えて訴えかけるもの

・わざわざ写真に撮って作品として残す意図は?と考えると,やはり頭像の並び方に規則性や

意図的なものなどを感じる 顔を放置できなかった人の行いや気持ちをこそ撮りたかったの

ではないか

・倒れたり壊れたりした雑然としたものの中に,(偶然であっても)上を向いたものがあるこ

とで,前向きな気持ちになる 先を見るとかそういう心情に感じるところがあったから撮っ

・モノクロでわざと撮っている 光と影のコントラストを際立たせるため色を排除している

・やっぱり光の方向をみたいと人は思うんじゃないか こんな風に壊れたり崩れたり打ち棄て

られたりしていても,顔は光の方向を向いていたいとか,向いているといいなという撮り手

の気持ちとか,顔を光の方に向けた人の優しさとかが,にじみ出ている作品

 

3 全体を通して 

3名の鑑賞者それぞれが,②③でギリシアやローマの古代遺跡のような場所という見解を示し,そこに基づいて話し合いが進み始めたところで,「皆さん,海外に見えていらっしゃるようですが,この場は日本です。だとすると,そのことから,どんなことが考えられますか。」と問うことで,話し合いが再び活性化したのではないかと考えられます。

振り返りで,この場が「日本」であることを情報として示すべきだったと反省を述べたところ,鑑賞者の3名から次々に以下のようなコメントを得ました。

○(情報を知ったら,)大きく流れが変わっただろう

○ヨーロッパの遺跡というような第一印象から離れられたかもしれない

○西洋風の人物像が日本にあることから,キリスト教に関係があるかもと発展的に考えられた

○日本でキリスト教が比較的信仰されている地域として,長崎などが発想に浮かぶ

○長崎で,倒壊しているキリスト教関連の施設となると,更に原爆の影響も考えられる

○キリスト教の歴史や原爆の惨禍,長崎の人たちの心情を踏まえると,複合的に深く考えられたのではないか

鑑賞者の皆さんに共通していたのは,光に向かって生きていきたいという根源的な欲求や,像であっても上向きにしたいという優しさのような,人間の普遍的な心の在りようを感じていただけたように思います。

鑑賞者自身の気持ちや性格も,反映されたような鑑賞になりました。

「はじめは怖いという印象だったけど,みなさんとの鑑賞を通して,みえかたが変わりました。」という発言は,嬉しいものでした。


出雲文化伝承館「春日裕次展」 鑑賞会レポート 第3弾!

2023-06-19 23:02:20 | 対話型鑑賞

5月28日(日)11:30~11:50   春日裕次展 「みんなで一緒にアートをみてはなそう!」

会場:出雲市文化伝承館

ファシリテーター:房野伸枝

参加者 一般の方 8名・みるみるの会メンバー 2名

鑑賞作品 春日裕次 作  「かいじゅ」

 

 令和5年5月20日~6月25日に開催されている「春日裕次展」には、春日氏の初期のスケッチから、美術展に入賞した大作までたくさんの作品が展示されており、その迫力に圧倒されました。作品の多くは、春日氏が長年追求しておられる「バイク」「人物」などが重厚な筆致で描かれており、鑑賞者はそこからにじみ出る「何か」をおのずと考えさせられます。「何が描かれているのか?」「この色やモチーフの意味は?」「どんな思いが込められているのか?」と考えながら見つめていると、時間の経過を忘れてしまいます。そんな中から1点、鑑賞会のための作品を選ぶにあたって、ひとつの作品が心にひっかかりました。それは、バイクでも、人でもない「かいじゅ」とタイトルのついた他とは作風の異なる作品です。

 会場全体を見渡すと、居並ぶ作品群の中には、バイクが描かれていない作品にも、煙突やチューブなど、バイクのマフラーやエンジンに類似する形状のものが描かれています。また、春日氏の描くバイクと人物からは、バイクが人、人がバイクの象徴のように感じられたり、「エネルギー」「疾走感」「躍動感」「情熱」が感じられたり、「生命」につながる「熱」が発散されているようにも感じます。 画面のところどころに走っている「朱」の色にも強い印象を受けます。

私は海岸に流れ着いたようにみえる大きな流木を描いた「かいじゅ」も一連の作品に通底するものを感じました。他の人はこの作品をどのように鑑賞するのか?という好奇心が高まり、「この作品をみんなで対話しながら鑑賞したい」と強く思い鑑賞作品に選びました。

<鑑賞者からの意見(抜粋)>

・木に見えるが、枝や根が入り組んでいて、かなり大きな木であったことがわかる。

・森の中に生えている木ではなく、奥は湖か何か、水辺に流れてきた木に見える。もう成長が止まっている木。

・台風や何かで、かつて森にあったものが川に流れて、海から漂着した木の根っこ。

・枝に手を伸ばしているように見えるところがあり、何かを訴えているよう。海岸に流れ着いたものやごみが、人間に「これでいいのか」と訴えているのでは。

・タイトルの「かいじゅ」は「怪樹」とも「塊樹」ともとれる。

・流木だから死んでいる木だが、枝ぶりから動き出しそうで、生きている感じがする。血のような赤い色からも木というか、何か生き物のようにも見える。

・奥に海があり、そこからお日様が見える。枝が伸びている先に光があり、それに向かう生命感、躍動感を感じる。

・太陽は朝日だと思う。木の枝の動きから光のほうへ伸びていこうとしているように見えるので、太陽や水を求めてまだ、芽吹くエネルギーがあるのでは。海は生命の源でもあるので、そこへ伸びようとしているようにも見える。

・生きてはいない。死して、なお、エネルギーを感じるのは、燃えている炎のような部分があるから。木は死んでも燃えてエネルギーの形を変える。太陽は生命の源であり、炎が太陽にも通じていて、エネルギーの循環をも感じさせる。

・他のバイクの作品にも通じるフォルムを感じる。枝の管状の形態はバイクの配管にも通じる。管状のものには何かが詰まっている、何かが流れていることを人は連想する。この枝や根っこも、かつてはその筒状のものの中に生命やエネルギーを宿していた。

・朱色はバイクの作品にもあったが、その色からもエネルギーや命を感じる。

 

<ふりかえり>

 流れ着いたように思われる大樹はかつて生えていたところから遠く流され、すでに命は尽きている流木なのに、うごめく生き物のようにも描かれ「生と死という相反するものが同居している」という意見が出されました。しかしなぜかそこに共通して感じるものは「生命力」や「躍動感」でした。水平線に太陽があり、生命の源である海や太陽の光というものが加わっていることからも、様々な解釈が生まれました。

 鑑賞者は他の作品にも通じる一貫した力を感じ、対話を交わすことでどんどん作品の見方が変化していくダイナミズムを共有できたように思います。ひとりの画家による作品展では、鑑賞者はおのずと並んだ作品の関係性について考え、それが鑑賞する際に作品の共通項やテーマへの意識につながるということが実感できました。

 

ワクワクしながらも多くを学んだ鑑賞会となりました。この機会を提供してくださった春日裕次氏、その夫人の美由紀さん、出雲文化伝承館のスタッフのみなさま、鑑賞会に来てくださった方々のおかげです。本当にありがとうございました。