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原理主義

2005年11月08日 | 信仰関連
原理主義について、原理主義者の精神状況について、精神科の立場から書かれているものがあったのでご紹介。

先に言ってしまうと、原理主義とひとことでいっても、その中には多様な中間領域があること、早急に「何なのか」ということを断定することを避けるように、と書かれています。被害者と同時に加害者を生み、近代へ危機を警告する形として近代が生んだひとつの閉塞的な主義。そして原理主義への抵抗に対する脆弱さ。
未来への展望と可能性。
はっきりいって序章と最終章だけでも濃いので読むのをお勧め。

(一応、原理主義考世俗主義と原理主義の相克を見つけてきたので参考に)

ヴェルナー・フート著「原理主義」より抜粋

「1)原理主義は拒否反応から生じる。原理主義は自己変革や意識改革を伴うが、結局、その背後に不安を隠している。
真の宗教的・人道主義的信仰は、説明できぬものへの畏敬をその特徴としており、現実の奥義を心得ている。これによって世界は、偉大なもの、魅力あるものとされる。
それに対し、原理主義者にとって、現実は単に「自分にとって」意味のあるものへと矮小化される。原理主義者は、秘密を隠さないし、発見もしない。彼らが探し、見つけるのは自分の見解の確認か、その見解に対して不当な手段で戦いを挑む敵なのである。こうして、彼らは異質なものや、自分自身の懐疑をすべて一方的に拒絶する。

2)自分の確信の拠り所を頑丈な基盤の上に置こうとしても、それだけの理由で原理主義者とはならない。もし、頑丈な基盤というものがなければ、どのような確信も存立しえないだろう。それどころか、どのような対話も始まる前にその内部で消滅してしまう。たとえば、完全な懐疑主義者ですら、固い基盤から出発しているのだ。
すなわち、彼らは自分の懐疑と不安感こそが、現実へと接近する唯一の適切な道だという、自己にとってかけがえのない確信から出発している。これは、結局懐疑と矛盾しているとよそ目には見えるのであるが、本人は気づかない。完全な懐疑主義者と原理主義者は、その他の点でも似ている。
彼らの態度は、ある種の自己機能、つまり、拒否的態度に基づいているが、これでは硬直せざるを得ない。彼らの確信は、大体の場合、常識的欲求をはるかに超えた絶対的正しさという要素を有しているのである。

原理主義者と懐疑主義者は、他者に対しても自分の中に浮かんでくる疑念に対しても、対話を拒む。したがって、彼らは主観的には挫折することはない。不安から最終的に脱出し、他の人々には与えられていない確かさの中にいると思い込んでいる。
こうしたことは倫理を欠いているから生じるのではなく、自分自身の声に耳を傾けたり、隣人と密接な関係で出会うことが出来ないから生じるのである。
そしてそれは、一般的にイデオローグや精神病者によくあることである。
精神面や他者との関係においてほとんどの原理主義者が示すこのような欠陥は、他の生活環境、とりわけ日常生活において彼らが示す知性、勤勉、あるいは誠実さを傷つけるものではない。

現実をみだりに混乱させないためにも厳密に区別しなくてはならないが、これらの多様なれべるにおいても共通する定数が一つ存在する。
それは、原理主義者が抱いているアイデンティティ喪失への不安である。
これこそが頑迷さや不寛容の根源であり、彼らが転向者や異なる考えを持つものに対して示すあの熱狂的敵意と非妥協性の源泉である。

実際誰にとって原理主義は危険なのか。原理主義が危険なのは、これを爆弾テロリストや熱狂的暴徒と同一視しないとしても、実は、大抵の場合、原理主義の信奉者自身にとってである。彼らこそ人間なら誰しも持っている、究極的な生き方、あるいは安心感や安定感、つまり確定性に対する憧景が濫用された結果生じる犠牲者なのだ。

原理主義者は、たとえ「神」や他の崇高な言葉を大声で吹聴しているとしても、事実上、世俗的な目標、特に不安の自己防衛や自己中心的な権力要求、あるいは大体の場合、その両者に励んでいる。
不安の防衛が目的の場合、アイデンティティがイデオロギー的に「それはそういうものだ」という単純な言葉で救い出され、その精神バランスが耐えがたい外的矛盾や内的緊張から護られる。
自己中心的な権力要求が目的の場合、「神」は自己目標を完遂するためのツールとして濫用される。したがって、原理主義者は、他者を信頼せず、むしろ操作し支配することを望む。それは、彼らの神への関係が見かけだけの信頼に基づいているのと同じである。

原理主義者とは、他の陣営の視点に立てない人のことである。もし、われわれが原理主義者でないのであれば、少なくとも他者の視点に立とうと努力すべきである。」