ターザンが教えてくれた

風にかすれる、遠い国の歌

夜の雲を流すものは

2007-10-23 21:12:44 | 日々

そろそろ10月も後半だというのに、
朝晩はさすがにもう肌寒いのだけれども、
日中はのどかなぽかぽか陽気だったりして、
まだ街中に冬支度の匂いはしては来ませんね。

西に向いた窓の外に見える
夕暮れの陽に薄朱くなった流れ雲なんかを
自分ひとりで眺める寂しさがあったり、
誰かと眺める切なさがあったり、
そのどちらもが味わい深くあってくれと
ちょっとだけ願う休日の昼下がり。
潜り込んだベッドの中では、
人の温度をこの手で確かめられるということに
こころからありがたいなぁと・・・

少し寂しいことも、少し切ないことも、
こうやってとっぷりとこころにしみこんでゆくのだよね。
かけがえのない自由ってやつをこの掌にしながらさ。



今日はとても嬉しいリンクのお知らせがあります。

謙介さんのブログ、「終着までは、何哩?」 です。

その、文編み巧者でいらっしゃる謙介さんのつむぐ、
読んでいるこちらがすっとこころを許せて素直に頷けるような、
知的でやさしい大人の文章にワタクシ一目惚れだったんですね。

それが、ありがたいことに、
こうやって今回リンクをさせていただくことになりました。
とてもとても嬉しく思っています。
どうぞこれからもよろしくお願いいたします。



言葉っていうもの。

言の葉という器の中にあるもの。

それは目にも見えなく耳にも決して聞こえるものではないけども、
時にそれは、
人を生んだり、人を喜んだり、
人を貶(おとし)めたり、そして人を殺したりもします。
そのものを古から人々はいろんな名前で呼んできたのでしょうが、
いまの自分は何と言ってそれを名付けたらいいのかはわかりません。

でも、言葉の中に確実にある「それ」は
ほんの束の間だけ相手に触れることができたその後は、
さらさらと流れ去って行くものなのではないかと思うのです。
風の中へ、雨の中へ 人の営みの中へ。
誰かの言う通りにただ生きたなら、
幸せになれるなんて事はないのと同じように、
こころを打つ、こころに響く言葉に出会う時に思うのは、
「それ」を理解するこころが自分にあること。
「それ」を見分けるこころがこの自分にちゃんとあること。
だから嬉しい。
自分の中に初めから無いものを人は理解できない見る事ができない。
だとすれば、この自分にもちゃんと「それ」はあった。
それを確かめることができた時こそ、
人は自分の存在ってやつを喜ぶことが
できるのではないでしょうか。



夜になると、
遠くから車の音が聞こえて、
ベランダから覗くいつでも白い夜空には、
幹線道路の上空にできる雲が
道路の形のとおりに並んで行列を作ったまま、
ゆっくりと夜の風に流されて渡って行きます。

そうやって雲をながめているうちに、
急に冷え込んで来た秋の夜風にすっかり体温を奪われてしまって、
慌ててもう一度湯船に沈んだりと、
なかなか忙しい夜になってしまいました。


それではみなさまおやすみなさい、また明日です
                 また明日です。





愛してるなんて とても言えない

2007-10-08 19:28:15 | モノローグ
何でも出来る完璧な人ってどうだろう、
ってさ、思わない?

もしも、もしもさ自分の上司が完璧だったら、
もしも、自分の親が完璧だったら、
もしも、目の前の恋人が完璧だったら、
世の中の人々みんなみんなが
なんにも失敗を犯さない完璧な人間だったならばさ、
この自分は何をすればいい、
この自分はいったい一日をどうやって応えればいい。
この自分に何が出来るかと考えることさえ出来なくて、
見知らぬ人からありがとうって言われる喜びもないままに、
この自分自身が何処に居たらいいのか、
ほんとそれすらもわからないかもね。



夕飯どきに、ふいに友人が訪ねて来る。
「どうした?どうした?まぁまぁ、あがってよ」と、
遠慮して小さくなっている気の置けない友人の肩を見る。
「今さ、ご飯ちょうど最後の一膳なんだぁ、
お腹空いてる?
もしよかったらさ、
これ二人で半分こにして卵かけご飯しない?
おいしいよ、ヨード卵光だしさ(笑)」
なんて言ったら、
ほっと気を許しながら
僕に向かって笑って下さい。



初めて向かった北海道。
僕が育った九州とは違った北の大地は、
見るもの聞くものすべてが新鮮で、
あの海に広がる雄大な風景も、
腹いっぱいで倒れるまで蟹に喰らいついた事も
どれもみんな憧れていたことだったので
とてもとても楽しかったよ。

でも、
結局一番憶えていることは、
1時間に1本しか来ない路線バスを
友人とふたり木のベンチに腰掛けて待ちながら
思いつくままにしゃべった時間かもなぁ。
北海道の秋風で冷えた背中に
低い夕陽がほんのりと暖かでね。

誰が傷付くんじゃないかとか、
自分が傷付くんじゃないかとか、
そんな用心無用で話せたことが、
すごく嬉しかった。
そして、そんなことでも、
この自分に少し自信が持てて、
この自分を少し好きになる。
そんなまったくもって単純なこの僕を、
よかったら笑いながら見てやって下さい。



助平なことはね、たぶん好きですよ。
暗闇の中で相手のこころを探すような
静かにもらす湿りを帯びた吐息は、
なんだか安心した心持になるからね。
お互いが、僕たちお互いが、
男になったり、女でいたり、
子供になったり、大人だったり、
自由を心底確かめるために、
ベッドの中ってやつは存在するのかもね。



たとえば、たとえばさ、
小洒落たレストランで相手と差し向かい。
行儀よく上品な食事もいいものだけれど、
「このスープだけは皿ごと持って味わいたいんだ」
って時には、こっそり耳打ちしてくれたら、
「よし、OK!]って言って、この僕も喜んで付き合うよ。
両手でこう皿を持って、
お望みだったら一緒に音立ててもいいね。
皆様、ちょっとだけ許してよのマナー違反。
こういうのがね、ふたりの時間を作るのですから。



恋とか愛とかやさしさとか、
こうやって、自分が今思っていること、
こうやって、自分が今知り得たことを
いかにももののわかった顔をして、
この日記なんかを書いていたりするんだけどね。
人に言わせれば、
この実は一番欲しいところである
恋愛ってことに関しての僕のスキルは、
まるで小学生レベルだとの評価をもらいましたよ(笑)

やっぱり、ずっと変わらないものばかりを
求めて欲しがっているのかな、この自分はさ。
わからないねぇ、
ちっとも、わからないよ。ほんっとわからん。
ま、それもまた、面白いところだけれどもね。



欲しい物を数えてみる。
どうしても欲しい物を数えてみる。
その中で形のある物というのは、
一体いくつ含まれるのだろうね。
時を経て、いろんな思いを重ねる度に、
欲しい物の順番を数え直してみる。
どうしても手に入れたい物の順番を数え直してみる。
目には見えないもの、
形には残らないもの、
そんなものばかりがこの手に欲しいと願う頃には、
ようやく、信頼と言う名の意味がわかるものなのかもね。



きっかけは何だっていいんです。
人に何かをやってもらいたくて、
その相手に、少しやさしくしてみる。
その相手に、はじめて親切にしてみる。
自分にとってのやさしさの練習は、
いつも、いつも、
相手の言葉がご褒美なんです。
だから、
やさしいことのきっかけは、
何だっていいんです。



若い頃の元気ってさ、
世の中をまだ知らない分の力なんだよね。
無知と言うものは時としてとても強いことなんだよ、
って、

懸命になって何かをやると言うことは、
たとえ仲間がひとりふたりと居なくなって
自分一人になったとしても
それでも変わらずにずっとやり続けるってことなんだよ。
って言った。

「こころなんだよ、結局はね」と真っ直ぐ前を向いて。
常識とか、法律とか、権利とか、義務とか。
でもね、その中心にあるのはいつもこころなんだよ。
そのこころをどうにか守るためにこそ
いろんな決まり事があるんだと思うよ。
と、あの人は静かに言ったんだ。



相手のことを知りたいのなら、
いろんなことを尋ねる前に、
まず、この自分のことを表したいんです。
それはちっとも声になんかならないかもしれない、
ちっとも上手い文章にはならないかもしれない。
けれど、今の自分にはこれが合ってると思うからね。

ちらと覗いてもらっても構わない、
じっくりその手で確かめてもらっても構わない。
どうぞまったくお好きにお願いします。
でもね、立ち止まってもらったことが嬉しいです。
ほんの少しでも興味を持ってくれたことが嬉しいです。



威張ることはできなくていいです、自分。
立派なことはできなくていいです、自分。
でも、そんな自分ですけど、
ほんの偶(たま)にでいいので
ほんの少しだけ、ほんの少しだけ褒(ほ)めてやって下さいよ。
そうすると、僕が「ありがとう」って言いますから、
ちゃんと言葉にして「ありがとう」って言いますから。



ちゃんと言葉にして、心から言いますから。







 ○タイトル借用
 「愛してるなんて とても言えない/片岡義男」集英社