ターザンが教えてくれた

風にかすれる、遠い国の歌

肩にまつわる 夏の終わりの風の中

2007-09-24 19:48:15 | Organic Life


町内をあげてのお祭が終わると、
ようやく今年の夏も往ったなぁ、と、
毎年、商店街の電信柱にぽつんと
取り残されている提灯を見上げながら思う。

「東京音頭」がね、好きなんです。

固く敷かれたアスファルトの道路に
紅白色の小さなやぐらを組んで、
地元の子供たちがこの東京音頭のレコードに合わせて
下手っぴぃな太鼓を叩く。
近所の路地裏では、短パンをはいた若い父親が
小さな子供を抱き上げながら、
その路地のアパートに向かって大声で呼びかける。
「太鼓たたきに行くぞぉー!」って。(笑)

この街では町内毎に神輿を持っていて、
祭の当日は早朝から、
祭装束に身を固めた大人子供が揃って練り歩くんだけれども、
その神輿が通るたびに聞こえるシャンシャン♪という鈴の音。
ひとりマンションの部屋にいても、
一日中風に乗ってあっちからこっちからと
ひっきりなしに響くわけで。
あっちの町内、向こうの町内入り乱れての神輿競争。
でもね、年々神輿を担ぐ若者の人数は少なくなっていて
街の意気込みと祭の設(しつら)えが立派な分、
その下町を行く行列の姿はどことなくちょっと淋しそう。

祭の日には、夕方近くになると、
通りには屋台店が並んで、
金魚すくい、たこ焼き、風船屋にりんご飴。
色とりどりのいい香りのする屋台店を目当てに、
まぁ、これがどこから湧いて出たのかと思うほどの子供達が
わんさか集まって来て、狭い路地は大混乱。
仕事が終わってうちのマンションへ帰るために
その子供でぎゅうぎゅうの道をね、
よせばいいのに通ることにしてる。
もうね、そこは人間プールみたいなんだもん、
子供を掻き分けて進むの。(笑)
これがねぇけっこう面白いんだなぁ。

この人が多い街で
普段は電車とか買い物とかで
混雑するのって、疲れるし歩きづらいし
あんまり好きではないんだけれども、
ある限度を超えた人口密度っていうか
この人間プールみたいに
もう尋常じゃない人の多さになると
これが妙な楽しさに思えるのって自分だけかなぁ。

休日昼下がりの渋谷のスクランブル交差点とか、
突然の大雪で電車が運休になる寸前の最終電車とかさ。
こんな異常な人口密度の中では、
下手に抗ってもとても無駄なことだとわかると、
うまく人波に身をまかせる事をおぼえるっていうかさ、
カオスの中のハーモニーってやつですか。(笑)

そうそう、今ね大雪の電車で思い出したんだけれど、
いつ頃だったかな、もう5、6年ほど以前のこと。
やはりその時も台風か何かで
列車のダイヤがめちゃくちゃになっていて
それでも何とか乗り込んだ通勤電車。
乗ったのはいいけれど、
後から後からどんどん人に押されて押されて、
ふと気がつくと、自分より背の高い、
ミドルエイジなサラリーマンと向かい合ったまま
まったく身動きがとれなくなってしまった。
しばらくはお互いにもじもじと遠慮していてんだけれど、
満員の上にまだまだ乗り込んでくる乗客に押されて
今度は息も出来ないくらいに
二人はピッタリとくっついちゃった。
ちょうど相手の胸に自分の顔が密着して、
そのサラリーマンの鼓動がはっきり耳に聞こえてたもん。
二人とも言葉には出さないけれども、
「すみませんねぇ、でも、仕方ないですよねぇ」
って言う声にならない言葉が伝わるわけですよ。
普通はさこの見知らぬ男が自分の胸にくっついてるなんてさ
ちょっとは嫌な顔のひとつもしそうなところなんだけども、
このサラリーマンは「大丈夫、大丈夫」って感じで
こちらを気遣うような笑顔を見せてくれるわけね。
おまけに、その少し汗ばんだシャツの胸元からは
ほのかに香水の匂いが立ち昇っていたりして。

その時僕が懸命に何を思っていたのかというと、
「ここで鼻血がでたらどーしよー」ってこと。
心拍数が上がって、ドキドキと上気した顔に、
こうなんだか胸の辺りがソワソワと苦しくなる感じ。

多分さ、あれはほんの一瞬の恋だったんだと思うよ。

人は時として、
非日常の強いストレスを受けている状況で、
少しでもやさしくされたりする人の事を、
「これは自分の好きな人だ」と
誤認識してしまうことがあるんだと思う。
ま、ほとんどの「恋」っていうものは、
そんな風なものなのかもしれないけれどもね。
まるで、いやらしい事を終えた後のピロートークみたいに、
満員電車の中で相手の胸に顔をうずめながら、
僕はそんなことを考えていたもの。
「恋とはカンチガイなんだ!」なーんてね。

で、話は戻って、
カオスの中のハーモニーなんだけれども(笑)
これはね、
ジェフ・ローランドっていう、その世界では
とても有名なオーディオ・メーカーの
設計者が言っていたことなんだ。

彼が、その規模と複雑さではおそらく世界一の東京駅で
ひとり迷子になってしまった時に思ったんだって。
このものすごい人の波に逆らおうとすればするほどに、
自分は余計に迷ってしまったんだけれども、
彼が自分を人の流れにまかせてみるようになると、
とたんに誰にもぶつかることなく、
目的地までスムーズに移動できたんだって。
自分が人々との調和に欠けていたせいで、
図らずも大きな駅の中で迷子になってしまったたのだと。
彼はね、それこそが優れた電子回路と同じだと、
表現したんだけれども。
それって、とても興味深いことだなぁと思う。

他人をね、自分とはちがうもの、
自分の行く手を妨げる異質なものだと警戒している内は
それらはいつでもが邪魔な存在でしかないんだけれども、
よく見てみれば、自分とあんまり変わらないじゃん。
警戒心を少し緩めて、ポーンと心を許してみれば、
自分もあなたの自由を奪わない、
あなたもこのわたしの自由の邪魔はしないよ、と、
自然の理にかなった道理が見えてくる。

混沌の中の調和。
それはとても大事なことなのかもしれないね。

ここで、ちょっと話は変わって、
以前の日記でも話したと思うんだけれども、
僕は自分で使う石けん、ローション、クリームなどは、
全部手作りしているんですけれどもね、
ここのところはなんだか妙に忙しく、
休日もほとんど家にいない時が多くて、
この秋に使うための石けんを仕込んでいなかったために、
朝晩はかなり涼しくなってシャワーだけでは
ちょっと寒いかなって頃になっても、
いまだに、夏用のスーパーミント海草石けんを使ってる。
さっぱりとした香りと使い心地で
これはすごく気に入っている石けんなんだけれども、
ほんとはね、毎年8月の中頃から
秋口に使うために仕込みはじめる、
オレンジとバニラの香りのはちみつ石けんが
そろそろ欲しいなぁと思って、少し肌寒い
今朝のシャワー時にほんとしみじみと秋を感じた。
まぁ、それでも無いものは仕方ないんだけれどね。
これを教訓として、この冬用の卵石けんは
何としても今月中に仕込む予定です。

この石けんを作ることの良さってさ、
自分好みの香りや使い心地のものが
わりと簡単に出来るということのほかに大事なのは、
自分の知らないあやしい成分が
ほとんど入り込まないって事だと思うんだよね。
僕としては、このことは今の世の中において、
ものすごく贅沢なことなのかもなって考えてる。

市販の石けんひとつとっても、
スーパーの棚に長い間陳列しても変質しないように
様々な防腐剤が添加されているし、
そして、化粧品ひとつとっても、もちろん
かなり大量の防腐剤、変質を抑える化学物質が入っているわけで。
最近、このことがマスコミなどで取り沙汰されるようになると、
従来の代表的な防腐剤である「パラベン」という添加物が、
もう悪玉の親分の如くに集中攻撃を受け始め、
とたんに各メーカーはパラベンを使用していませんよという、
「パラベン・フリー」を商品にうたい始めたんだけれど。

ところが、この「パラベン・フリー」なんだけどね、
確かに「パラベン」は使っていない。
でも、どうして商品を常温で店に並べても腐敗しないか?
それは、もちろん別の防腐剤をちゃんと使っているから。

ね、これが企業というか、「マス」なんだよねー。(笑)

もともとパラベンはかなり強力な防腐剤で、
その効力にしてはわりと毒性の低い物質だったんだそう。
比較的安全な添加物ということで、
広く一般の化粧品に使われるようになった。
ところが昨今のとにかく何が何でも防腐剤が悪いという評判。
そして防腐剤といえばこの「パラベン」。
ならば悪の根源は「パラベン」だとばかりに
日本中でパラベン・バッシングが起こってしまったわけね。

各メーカーは慌てて自社の化粧品の処方を変えて、
評判の悪いパラベンを抜く代わりに、
他の防腐剤(フェノキシエタノールなど)を
複数大量に添加するようになるわけね、
で、これらの代替品は防腐作用が弱いので、
パラベンと同じ作用にするにはどうしても大量に
使用しなければならないんだそうで・・・(笑、本末転倒)

でも、この商品の変質を防ぐ添加物、
悪者だけど無くてはならないもの。
だって、防腐剤がなければ、
商品として店に並べることが出来なくなるから。
本当の無添加というのは、
某化粧品メーカーのように小分けで使い切りパックにするか、
もしくは自分でこまめに作って、
冷蔵保存するかしかないんだよね。

さぁ、さぁ、どちらにします?

僕は自分で作る方を選びましたよ。

洗顔の石けん、
化粧水、保湿オイルにアフターシェーブローション。
みんな自分で作るんだけれども。

作るって言うか、利用するって言うか・・・

だって、オイルなんてパスタ料理に使うオリーブオイルだよ。(笑)
いやいや、これでは言い方がちがうな。
身体の保湿に使う、
実から丁寧に絞った飛びきりの品質の、
エクストラ・バージン・オリーブ・オイルを
料理にも(!)使うということだよね。

あとは石けん洗髪の中和に使用する「木いちご酢」。
これとアーモンドのオイルでドレッシングを作る。
新鮮なオイルと木いちごの風味で
それはもうたまらない美味さ。

アフター・シェーブ・ローションに至っては、
材料はロシア産の飲んでおいしいウォッカを
水で希釈した中にローズマリーの精油を落としただけという、
これ以上ないようなシンプルな作り方。

これらこそが、
食にも身体にも最高の品質のものを使うことのできる贅沢でね。
おぉ~、素晴らしい♪と、自画自賛。

しかし、しかし、
ここで気をつけなくてはならないのが、
いわゆる「エコロジー病」。
(これは自分で名付けたんだけど…)
化学物質である添加物や
品質の良くない人工物を嫌悪するあまりに、
日常の生活に支障をきたしてしまうこと。(笑)

僕の経験で言えば・・・
行きつけの美容院での洗髪、
使うのはもちろん業者専用の化学シャンプー。
これがね、もう嫌で嫌でしかたなかったんだよね。
シャンプー剤を頭に付けられるたびに、
「あー、毒だ!いま毒物を髪に塗られてる!」と
心配の余りに生きた心地がしなくなるわけよ。
首の辺りとか緊張で妙に力が入ったりなんかして・・・

温泉に出掛けても、どんなところへもマイ石けん持参、
隣の人のボディーシャンプーの泡がこちらへ
かかるのさえも許せない。

冬に仕事場で手が乾燥しきってどんなにかさかさに
なろうとも、決して人から市販のハンドクリームは
借りる事が出来ない。
そうやって本人の気づかないうちに
妙に神経質な自分になっていたんだと思う。

それから、オイルのことも。

石けんを作るにはこのオイル(油脂)がとても大事でね、
このオイルの品質で出来上がりの石けんの質が左右されるので、
ソーパー(石けんを作る人)にとってはこのオイル
もうこれ以上ないほどにこだわりを見せる所。
おのずとオイルに関して知識も薀蓄(うんちく)も増えてくるですよ。

どうしてわざわざ石けんを
一ヶ月もかけて手作りするのかというと、
ひとえに、油の温度を上げて酸化させたくないから。
なんですねぇ。
せっかく高品質のオイルを使っても、
石けんにするために、高温でぐつぐつと煮てしまったら
オイルはみるみる酸化してしまって
せっかくのいいオイルを使う意味がなくなってしまうわけね。

なので、とにかく石けん作りというものは
このオイルの酸化をいかにコントロールできるかで
その仕上がりが違ってくるわけで、
オイルの酸化ってことに非常に敏感になるんだよね。

でね、ここで困るのが、食用油の酸化について。

街中で売っている油を使った食品やお菓子。

それらのものが口にできなくなってしまうんだよ。
何もそこで売っているものが
取り立てて品質の悪いものではないんだろうけれども、
やはり自宅で新鮮なオイルを使って作った料理とは
どうしても同じとはいかないものね。

食べようとすると、かすかに感じる酸化した油の匂い。

いい石けん作りに関しては
それこそ命をかける勢いの熱中ソーパーにとっては、
この僅かの酸化臭でも、
すっかり食欲を失くしてしまうには充分。

そうやって、現代の世の中いたるところにある
非エコロジー、非オーガニックなものを
ひたすら避けるようになってしまう事。
そうなってくると、それはもう日常生活が送れないわけでね、
不自由な心とガチガチの頭人間の出来上がりって感じです。

それから、これはしばらく前に聞いた事なんだけれども、
今何かと話題のスーパーのレジ袋ってね、
一枚につき平均で約200mlの石油が使われているんだって。
これってさ予想外の結構な量だよね。
この話を知ってからは、なるべく会計の時には
「レジ袋要りませんよ」って言ってるんだけれども、

でも、何が何でもレジ袋が必要ないわけじゃないんです。

たまに、と言っても買い物の内10回に1回くらいかな、
一番大きなレジ袋下さいって頼んでもらっているんだよね。
それを、うちのゴミ袋にするために。
だって専用の大きなゴミの袋を買うよりも経済的だし、
何よりも袋の大きさで言えば、
市販の大型のゴミ袋よりは、
このレジ袋ちょっとは無駄が少ないと思うのでね。

あとさぁ、
最近はどのスーパーの店頭でも
食品トレーや牛乳パックの回収があるでしょ。
あれ、本当にしかるべきルートで回収されて
きちんとリサイクルされているのかな?って
考えたことない?
いや、ほとんどの場所ではきちんと回収された後、
原料から作るよりも割高なリサイクルを
ちゃんと行っているんだろうけれども、
中には回収先で普通にゴミとして処分されているという
噂話を聞くにつれ、もう、何でもが疑わしく思えて来てね、
そんな話を聞くたびに、こうさ、
エコロジーに対するモチベーションってやつが、
ぐぐーって下がるよね。

そんな時にたまたま知った方法なんだけれども、
これがほんとに簡単で効果抜群の方法だったんだよ。

それは、
「賞味期限の迫っているものから選んで購入する」
                  ってやつ。

ほら昔からよくやるでしょ、
肉でもパック飲料でも、
製造日が新しく新鮮なものを
陳列棚の奥から取り出して購入するってこと。
実はこの僕もそうだったんだけれどもね。
これを止めること。
止めるどころか、その棚の中で一番先に賞味期限が
来そうなもの(一番古い商品)を選んで買うこと。
個人個人ができるだけこうすることで、
期限を過ぎて破棄される食品を減らすことが出来るんだよね。
このやり方は自分自身の行動が直接確実に効果があるので
とても簡単で取り入れやすいものだと思う。

でもこの方法、何が何でもどんな時でも
って事ではなくて、僕は結構臨機応変にやってるかな。

たとえば、豚の薄切り肉なんかだと、
大抵は300gのパックになってることが多いんだけど、
自分はこれ一食で食べ切ってしまうわけで、
なのでスーパーの棚の中で一番古いものを選んでも
すぐに全部使えるために何の問題もないんだよね。
でもこれが、パックの半分を取り分けて
冷凍保存しようって時などにはやはり
少しでも新しいものの方が望ましいわけで。

自分は、なるべくこうやってるよ。

っていうくらいのリズムを自分で掴むまでが
いろいろと遠回りをしたりなんかしてね、
なかなか疲れるところであるわけですよ。(笑)

で、このあたりで思い出してみるのが、
昔、テレビでどこかの主婦が、
こんなキャッチで出ていたことだねー。

「あなたも見習え、この節約主婦!」

その主婦は野菜を買っても屑一つも出さなくて、
大根の葉からしっぽまで丸ごと使うし、
人参の剥いた皮できんぴらも作るんだ。
(って、きんぴらの始まりってこれなんだっけ?)
それから、その家のお風呂はには汚れを分解するという
藻がたくさん入れてあって、一見真っ黒なお湯なんだけど、
もうかれこれ数年その水を替えていないって言ってた。

でね、その家庭の中にはほんとはいろいろと
自分でも見習うこといっぱいあるんだけれどもね、
テレビの取材カメラと一緒に買い物に出掛けるでしょ、
そこで生魚を買ったとしよう、
その主婦はすっごい真面目な顔でカメラマンに言うんだよ、
「これから走って帰っていいですか?!」ってさ。(笑)
スタッフが驚いていると、
「だって、早く料理しないと魚の鮮度が落ちるでしょ!!」
って言って、追いかけるテレビクルーを尻目に、
それはもう全速力で家に帰るわけね。

で、帰り着いた台所で、大急ぎで魚をさばき終えると、
今度はボールに並々と注ぎいれた醤油の中に投入。
わけを聞くと、現代の環境汚染で
その市販の魚に沁み込んだ毒素を抜いてるんだって。
なのでしばらく漬こんだらその醤油は全部捨ててた。
家ではいつもこうやってますよーとか
ものすごく真剣に話してたよね、その人。

自分ね、それを見てて、
なんか、思い詰めるってたいへんだなぁって思った。

あの、全然非難とかではなくてね、
ただ、へ~たいへんな生活なのねん。
って思ったんだよね。

自分はね、どちらかというと、
人の事は、正直どうでもいいと思っているので。(笑)
これね、誤解のないように解説しておくと、
他人なんて傷つこうが困っていようがどうでもいい、
って事ではなくてね、
他人がどんな考えや常識やポリシーを持っていても、
それが人を侮辱したり傷つけたりすることではない限り、
「はいはい、お好きにどうぞ」って思ってる。
自分と共有できることがあればそれはすごく嬉しいことだし、
残念ながら自分とはちと違うってことだったら、
「ま、お互いの世界でがんばろうね」
ってことなんだけどもね・・・
あの、もっとはっきり言うと、
これは僕なりの人の愛し方ってやつですかね・・・(笑)

何かを達成しようとして、
試行錯誤で地味に検証を繰り返しながら
時間をかけて少しづつ向上してゆくことは
ほんとうにものすごく大切なことだと思うんだけれども。
昨今の「禁煙問題」のように、
あまりに行き過ぎた過激な行動ってさ、
結局は人々の幸せってやつを追い越してしまって、
その行動だけが一人歩きをはじめてしまう。
そして、そこにこそ利権ってやつが忍び込んでしまうことを
忘れてはいけないと思うんだ。

ものすごく極端に表現するとさ、
合理化ってやつを完成しようと思ったら、
結局は自分自身がいなくなることが一番?
エントロピー(笑)の増大を抑えるには、
この自分自身の生命が止まることが一番効果的?

でもね、当り前なんだけども、
それはどれも確かなことではないんだと思うよ。
だって自然の摂理に反しているから。
目的と手段はどんなときでもはっきり区別してないと
結局、一番困るのはこの自分自身なんだよね。

いったい、
自分は何のためにこれをやろうとしているのか、
そして、
自分は何をしたいからこれを手に入れるのか。
これを見失ってしまうと、とたんに、
すごく不自然で困ったことになってしまう、
そんなね、気がするんですよ。

いい塩梅である、中庸のバランス。

これに落ち着くには、
時間をうんとかけた試行錯誤の中で、
いろんなものにそれこそ無我夢中になってみて、
一時は極端な独りよがりな思想に
支配されてしまうこともありなんだけど、
でもね、いつかはその不自然な固執から抜け出して、
少しでも自由に、少しでも幸せに
近づくことができたらいいなぁと思うのですよね。

でもね、
時としてこんな声が聞こえたら…

そうやって、
また今度も、
いい歳をしてまた同じ事の繰り返し?
進歩がないねぇ。

そんな風に、
自分自身にも他人にも声をかけられる時、
自分のしていることに自信がなくなってさ
なんだか弱気になったり、
なんだか悲しくなったり。
でもね、自分のやってきた事は
一本の螺旋階段だったとしたらどうだろう?

一見はね、
同じ事を繰り返しているように見えても、
一年前よりも上手にできるようになっていたり、
以前には考えもつかなかった事が
今の自分にはちゃんと把握できるようになっていたりと。
そうやって、ぐるっと一周して、
またいつかは同じ場所に戻ることもあるんだけれども、
その時には必ずね、ほんの階段1段分かもしれないけれども、
上に登っているものじゃないかな。

そしてね、どんな人でもさ、
自分でどんなに自分自身を嘆く人でもさ、
朝、目が覚めて自分の心臓がどくどくと動いている。
ただ、もうそれだけでさ、今日の階段は上がれるんだよね。
もうそれだけでさ、昨日よりも少しだけだけれど、
ほんの少しだけかも知れないけれどもさ、
この自分を喜ぶことができるのかなって。
螺旋階段の手すりから身を乗り出して下をうかがうと、
一周下に見える昔の自分自身に
笑って手を振ることができるんじゃないかとね。

僕はね、すごくそんな風に思う。

それは言葉にすれば、
自分を愛することができること。

そして、その思いは、
いつしか自然と、目の前の他人へと移って行き。
他人と自分との境界線がだんだんと薄らいで行く中で、
人間の、なんら特別ではなく、大勢に褒められる事でもなく、
ただ、今朝目が覚めたよっていうような、
本当に普通のなんでもないことを、
今日、笑いながら心から喜べるっていう事は、
僕にとってはさ、こんなものがね、
「ひとを愛するってこと」なのかもしれないなぁって思います。

ぼんやりだけどね。

だからさ・・・・・















 ○タイトル引用 まつりばやし・中島みゆき 
         アルバムあ・り・が・と・う 

 ○参考書籍 「お風呂の愉しみ・前田京子」 飛鳥新社