いい事を耳にすれば、すごくうれしい。
悪い出来事を知れば、やっぱり悲しい。
そんなことは、当たり前なんだけどね。
世の中のほんとの事を知らないまま生きるのは
それは、とても恐ろしいことだと、
ずっと自分に言い聞かせてさ。
誰もが喜ぶ素晴らしい出来事に出会っても、
その裏にある企業の画策、情報操作、
個人の欺瞞(ぎまん)、多勢の偽善。
一見にはわからない、そんな、
この社会においてのいわゆる「大人の事情」ってやつ。
それをことさらに探し出して暴き出してさ、
「そんな恐ろしいことには取り込まれないぞ、
自分はそんな汚れた「事情」とは関係ねーや」
そうやってさ、一生懸命にそいつらを怖がって。
よく人に諭されたものだよね、
「本音と建前なんだからさぁ、
そんな事は世の中の誰もがやってるんだからさぁ」って。
親切に教えてくれてありがとね。
そのついでにさ、もう一つ教えてよ、
その「世の中の誰も」がどこにいるのかをさ。
建前を使い分けて、上手に嘘を使い分けて、
そうやって金を稼いでさ、飯を食ってゆくんだ。
なんて考えていると、とたんに辛くなるから、
ひとつ、この自分自身に正直になって生きてみる。
嘘をつかずに、何ひとつ欺くことなく、
このニセモノだらけの世の中で、
自分だけは潔白だと目を瞑(つむ)って歩いてみる。
すると、とたんに生きづらくなるから、
ひとつ、この自分をうまくだまして生きてみる。
何が正しいことなのか、何が美しいことなのか、
忙しい毎日の中ではちっともそれがわからないから、
そこで、いっそのこと、そんなものは夢物語だと、
初めからどこにも無いものだと思って生きてみる。
道を往く人、すれ違う人、
その誰もが順風満帆、幸せ人ばかりだと思うと、
なんだかすごく、自分が小さく見えてしまうから、
自分ひとりが取り残されているようで進めなくなるから、
ここはひとつ、街の誰もが不幸せなんだと思ってみる。
みんな誰もがつらい人生を送るものだと、
しかたがない、しようがないと、
あきらめ顔で泣きながら生きてみる。
生きてみる。
生きてみる。
おぉ、いいなぁ、どれもみんな。
だってさ、「生きて」いるんだよ。
生きるってことは、変わり続けることが出来ること。
生きるってことは、昨日を過去に出来ること。
正直になっても、嘘をついても、
あきらめても、泣きながらでも、
そんなものはどれもみんな、
そうしなければ生きて来られなかった
道のりの傷あとなんだと思う。
過去に不幸にしてつらい出来事の中で
生きて来た記憶があったとしても、
もしくは、今現在の生活の中で、
何か苦しくつらいことがあったとしても、
それが自分の中でなるべく小さな一部となってゆくように、
自分自身で練習してみる。
世の中のいろんな考え方を身につけることで、
あれほど一大事に思えた出来事が、
気にならない程度で、
上手に考えることが出来るようになったりして、
新しい考え方を身につける分だけ、
その分ほんの少し自由になれるんだと思う。
心がつらい出来事でいっぱいになっている状態では、
極端に自分の視野が狭くなっていて、
世の中に対してものすごく悲観的になっていたり、
自分を守るために攻撃的になっていたりするものだもんね。
誰が悪い、アイツが悪い。
何が悪い、世の中が悪い。
自分がこんなに苦しいのも、
すべては誰かのせいだということで
説明がつくような気になってしまうこと。
それはとっても哀しい理屈で、
自分自身も、そして周りの人間さえ
傷つけてしまう生き方だけれど、
それでもさ、
何かのきっかけをつかんで、
少しづつでも変わって行けたらいいなぁと思う。
楽に生きる、自由に生きるってなかなか難しい。
それが出来る人にとっては容易いものなんだろうけど、
自然に身についていない者にとっては、
これが結構出来ないんだよなぁ。
眉間にシワを寄せて小難しいことを考えるよりも、
明るく朗らかに笑うことの方が断然かっこいいと言う事に
随分と気付かなかったんだよね。僕は。
朝起きると、真っ白な陽の光が窓から差し込んでいて、
「綺麗だなぁ」と、寝起き眼で眺める。
通勤途中の花屋の店先には、クリーム色のユリの花が咲いていて、
「綺麗だなぁ」と、花びらに触ってみたくなる。
「自分の中に無いものを、
人は感じる事は出来ないんだよ。」って、
昔誰かに教わったんだけれども、
それが本当だとしたらさ、
真っ白な朝の陽の光も、クリーム色したユリの花弁も、
ずっとこの自分の中にあったということじゃないか。
美しいものを感じ取ることが出来る度に、
心から湧き上がる嬉しさの意味は、
そういう事なのかもね。
だから、
僕は、美しいものがいい。
そのものに触れた瞬間に
ふっと気持ちに明かりが灯るような、
そんな美しいものがいい。
そして、
美しいということは、
表現することでもあるんだ。
ほんとうに美しいものというのは、
形に表されるということを、
ずっと待ち続けているものだから。
悪い出来事を知れば、やっぱり悲しい。
そんなことは、当たり前なんだけどね。
世の中のほんとの事を知らないまま生きるのは
それは、とても恐ろしいことだと、
ずっと自分に言い聞かせてさ。
誰もが喜ぶ素晴らしい出来事に出会っても、
その裏にある企業の画策、情報操作、
個人の欺瞞(ぎまん)、多勢の偽善。
一見にはわからない、そんな、
この社会においてのいわゆる「大人の事情」ってやつ。
それをことさらに探し出して暴き出してさ、
「そんな恐ろしいことには取り込まれないぞ、
自分はそんな汚れた「事情」とは関係ねーや」
そうやってさ、一生懸命にそいつらを怖がって。
よく人に諭されたものだよね、
「本音と建前なんだからさぁ、
そんな事は世の中の誰もがやってるんだからさぁ」って。
親切に教えてくれてありがとね。
そのついでにさ、もう一つ教えてよ、
その「世の中の誰も」がどこにいるのかをさ。
建前を使い分けて、上手に嘘を使い分けて、
そうやって金を稼いでさ、飯を食ってゆくんだ。
なんて考えていると、とたんに辛くなるから、
ひとつ、この自分自身に正直になって生きてみる。
嘘をつかずに、何ひとつ欺くことなく、
このニセモノだらけの世の中で、
自分だけは潔白だと目を瞑(つむ)って歩いてみる。
すると、とたんに生きづらくなるから、
ひとつ、この自分をうまくだまして生きてみる。
何が正しいことなのか、何が美しいことなのか、
忙しい毎日の中ではちっともそれがわからないから、
そこで、いっそのこと、そんなものは夢物語だと、
初めからどこにも無いものだと思って生きてみる。
道を往く人、すれ違う人、
その誰もが順風満帆、幸せ人ばかりだと思うと、
なんだかすごく、自分が小さく見えてしまうから、
自分ひとりが取り残されているようで進めなくなるから、
ここはひとつ、街の誰もが不幸せなんだと思ってみる。
みんな誰もがつらい人生を送るものだと、
しかたがない、しようがないと、
あきらめ顔で泣きながら生きてみる。
生きてみる。
生きてみる。
おぉ、いいなぁ、どれもみんな。
だってさ、「生きて」いるんだよ。
生きるってことは、変わり続けることが出来ること。
生きるってことは、昨日を過去に出来ること。
正直になっても、嘘をついても、
あきらめても、泣きながらでも、
そんなものはどれもみんな、
そうしなければ生きて来られなかった
道のりの傷あとなんだと思う。
過去に不幸にしてつらい出来事の中で
生きて来た記憶があったとしても、
もしくは、今現在の生活の中で、
何か苦しくつらいことがあったとしても、
それが自分の中でなるべく小さな一部となってゆくように、
自分自身で練習してみる。
世の中のいろんな考え方を身につけることで、
あれほど一大事に思えた出来事が、
気にならない程度で、
上手に考えることが出来るようになったりして、
新しい考え方を身につける分だけ、
その分ほんの少し自由になれるんだと思う。
心がつらい出来事でいっぱいになっている状態では、
極端に自分の視野が狭くなっていて、
世の中に対してものすごく悲観的になっていたり、
自分を守るために攻撃的になっていたりするものだもんね。
誰が悪い、アイツが悪い。
何が悪い、世の中が悪い。
自分がこんなに苦しいのも、
すべては誰かのせいだということで
説明がつくような気になってしまうこと。
それはとっても哀しい理屈で、
自分自身も、そして周りの人間さえ
傷つけてしまう生き方だけれど、
それでもさ、
何かのきっかけをつかんで、
少しづつでも変わって行けたらいいなぁと思う。
楽に生きる、自由に生きるってなかなか難しい。
それが出来る人にとっては容易いものなんだろうけど、
自然に身についていない者にとっては、
これが結構出来ないんだよなぁ。
眉間にシワを寄せて小難しいことを考えるよりも、
明るく朗らかに笑うことの方が断然かっこいいと言う事に
随分と気付かなかったんだよね。僕は。
朝起きると、真っ白な陽の光が窓から差し込んでいて、
「綺麗だなぁ」と、寝起き眼で眺める。
通勤途中の花屋の店先には、クリーム色のユリの花が咲いていて、
「綺麗だなぁ」と、花びらに触ってみたくなる。
「自分の中に無いものを、
人は感じる事は出来ないんだよ。」って、
昔誰かに教わったんだけれども、
それが本当だとしたらさ、
真っ白な朝の陽の光も、クリーム色したユリの花弁も、
ずっとこの自分の中にあったということじゃないか。
美しいものを感じ取ることが出来る度に、
心から湧き上がる嬉しさの意味は、
そういう事なのかもね。
だから、
僕は、美しいものがいい。
そのものに触れた瞬間に
ふっと気持ちに明かりが灯るような、
そんな美しいものがいい。
そして、
美しいということは、
表現することでもあるんだ。
ほんとうに美しいものというのは、
形に表されるということを、
ずっと待ち続けているものだから。