思川流域の城館巡り 小山市編 その1の続きです
〇千駄塚古墳・石棺(栃木県小山市千駄塚)
千駄塚古墳は墳頂に浅間神社を祀っているので、「浅間山古墳」とも称されています。
墳丘の高さは、およそ十メートル、直径七十メートル、周囲に幅十五~二十メートルの周湟(堀)をめぐらし、二段に築かれた円墳です。その規模が雄大で関東でも屈指の円墳であります。古墳内部は未調査で詳しくはわかりませんが、六世紀頃のものといわれています。この古墳の周辺には多くの古墳群があり、その中心をなすものと考えられています。昭和三十二年八月二十七日県指定文化財(史跡)
同古墳の北側にある石棺と巨石は、明治三十四年、近くの桃塚という古墳から発掘され、地元の谷内仙三郎氏の尽力で、地元住民の協力の下、大正四年に現在地に移されました。凝灰岩の家形石棺で、その蓋石と、同じく発掘された巨石が置かれています。その規模から、当時の有力者の小児を葬ったものと考えられ、いずれも古墳時代の貴重な遺跡・遺物です。昭和三十二年件指定(考古資料) 間々田商工会・小山歴史研究会(千駄塚古墳解説板より)
至徳四年(1387)に小山若犬丸が祇園城で挙兵した際、鎌倉府軍が千駄塚に布陣しています。
千駄塚の何処に布陣したのかは分かりませんが、千駄塚古墳の前に野木方面からの古道が通っており、安房神社方面へと続いていますので、当時は物見の役割も果たしたのでしょうか(?_?) 古の時代のランドマークですね。
ちなみにワタクシの住んでいる町にも浅間神社があり今は削られてしましましたが、以前はこの古墳のように高さが十メートル近くあったそうです。
〇千駄塚浅間遺跡の館跡((栃木県小山市千駄塚)
「小山氏の盛衰」(戎光祥出版)や「中世小山一族」のパンフレット(小山市発行)などに館跡の記載があったのですが、正確な場所の情報がなく付近を探索しました。
ワタクシの下調べが不十分で、お付き合い頂いた和平さまにはご迷惑おかけしました(>_<)
思川の東側、台地緑辺部をぐる~りと廻りながら台地内部に突入出来そうな場所を探し、やっと入れそうな道を発見しましたが館の正確な場所、遺構等は見つける事は出来ませんでした。
写真は館跡のある台地、館跡と思われる周辺、台地の崖線部、そして思川から館跡のある台地へ登る道(おそらく古道)です(^_^;)
※後日関連資料を読み直したのですが、館跡と思われる周辺は「十二所」と呼ばれる小字があり、館跡を「十二所館」とも呼ぶようです。
平成19年度に小山環状線建設に伴う遺跡内の発掘で中世の薬研掘が発見され、館跡との関連性が指摘されています。
ここで一言
鉄は熱いうちに打て
ぶろぐはすぐに書け
自分への自戒でした・・・(~o~)
続く
〇参考資料
・小山氏の盛衰 松本一夫著 戎光祥出版
・栃木県埋蔵文化財センターだより 2008年7月号
・角川日本地名大辞典 栃木県
・中世小山一族
・市制60年記念 小山の歴史
・現地解説板
・おやまわが街ガイドマップ 埋蔵文化財情報
はじめまして、拙いぶろぐをお読み下さり恐れ入ります。
城郭の遺構を中心に古道やそれに伴う歴史などを楽しんでいます。
小山を訪れたのは今回が初めてで、拙いながらもぽつりぽつりと調べています。
何分素人ゆえ間違い等あるかと思いますが、ご容赦下さい。
コメント下さり、ありがとうございました。
足利氏満軍が、一たん集結したという点が重要。祇園城を小山若犬丸が占拠して
居たにしても。鷲城にも、反乱軍が恐ら
く陣取っていたのでしょう。
1387年時点で、それ以前の戦闘で
破壊されながらも、小山若犬丸を支持
する勢力が使える程度に鷲城が。ゲリラ
戦の塹壕程度の機能を、未だ保っていた
と言う事を示しているのかもしれません
ね。
おはようございます。
資料の件、当日はあれだけの分量をご用意頂き、大変役にたっています!
印刷に耐えられるよう300dpiで取り込んだので膨大なデータ量となってしまいました、孫データの為細かい部分がつぶれてしまっている部分もありますが、ご容赦下さい。
HPの更新、大変かと思いますが私だけでなく他の皆様も楽しみにしていると思いますので、是非とも続けて下さい!
ワタクシも頑張ります~(汗)
毎週末のブログ更新お疲れ様です。
追加資料、どうもありがとうございました。
こちらこそ、下調べが不十分でご迷惑をおかけいたしました。
なお拙HPの更新、先日から再開いたしました。
作業しやすい郡山市から始めていますが、同市内だけでも未更新が40か所以上ありますので見通しは全くありません^_^;