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緑の、東京ブログ

千葉県の東京寄りに住んでいる私「緑」が大好きな東京の散策写真のブログを作ります!!!

12月の皇居東御苑:百人番所前から本丸跡広場(中雀門跡地)まで

2012年12月15日 13時10分11秒 | 皇居周辺・城西


大手三の門を抜けたところの左手にあるのが長さ50メートルを超える百人番所です。大手三の門を守衛した江戸城本丸御殿最大の検問所でした。鉄砲百人組と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、廿五騎組の4組が交代で詰めていました。各組とも与力20人、同心100人が配置され、昼夜を問わず警護に当たりました。




百人組(ひゃくにんくみ)とは、江戸幕府における組織の一つです。備に配される通常の鉄砲組とは異なり、高い火力を有した独立部隊として編成されたと考えられています。また徳川家康は江戸城が万一落ちた場合、内藤新宿から甲州街道を通り、八王子を経て甲斐の甲府城に逃れるという構想を立てていました鉄砲百人組とはその非常時に動員される鉄砲隊のことであり、四谷に配されたといいます。




百人番所の裏側には「済寧館」の建物が建っています。済寧館とは皇居内にある道場のことで、元々は1883年(明治16年)に明治天皇の命により千代田区紀尾井町に建てられました。関東大震災後の昭和8年(1933年)に皇宮警察の武道振興のため創設当時の規模に復することとなり、9月5日に大手門内で起工し12月に竣工しました。




百人番所前の広場からは散策道が二手に分かれていて、二の丸へ伸びている道と、本丸へ伸びている道の二つがあります。今回は本丸跡地へ伸びている散策道へ進みます。




広場前から撮影した本丸跡地へ通じている散策路です。皇居東御苑はかつての江戸城の本丸・二の丸・三の丸跡に位置し、少し離れた場所の西の丸を含めた、この範囲のことを江戸城と言いました。緑豊かな雑木林に日本庭園や皇室関連の施設、江戸城の遺構などが残されています。戦後、特別史跡に指定され、1968年10月1日から一般に公開されるようになったのです。




百人番所の全景を撮影してみました。




左側が二の丸へ通じている散策路、左側が三の丸跡地・同心番所へ通じている通路です。この広場は高い石垣に囲まれています。




本丸跡地へ続いている「中之門跡」です。中之門の石垣は、丁寧に加工された大形の石材が隙間なく積む「切込みはぎ」と呼ばれる技法で積まれています。また、石垣に使われているのは、瀬戸内海沿岸から運ばれた白い花崗岩で、西国大名から献上されたと考えられます。江戸城の本丸跡地に広がる広場は、奥の石垣の上の高台の上に造成されています。




中之門の脇に立っている「大番所」です。大番所は大手中之門の内側に設けられ、他の番所よりも位の高い与力・同心によって警備されていたといわれています。江戸城本丸へは最後の番所であり、警備上の役割はきわめて重要であったと考えられています。
この大番所の背後には15段の射撃用の石段が存在します。




中之門・大番所前から先は急な上り坂となっていきます。上り坂の散策道を囲むように背の高い石垣が続いていきます。




振り返ると百人番所前の広場と大手町の高層ビル群が見えました。




急坂なので標高が高くなっていきます。




この坂は、もともと江戸城東側に広がる低地と本丸の位置する台地との境にあたり、これを登りきると本丸正門の中雀門があります。




坂道を囲っている石垣をそばで見てみると、改めてその規模に驚きます。




さらに登っていくと・・・。




坂上となり、この位置に本丸正門の中雀門が建てられていたのです。次回の記事では本丸跡地の広場を散策していきます。




地図の中心点である中之門・大番所前から大きく南へ迂回している坂道を上がっていくと本丸跡地へ出ることができます。

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12月の皇居東御苑:大手門前交差点から皇宮警察本部前まで

2012年12月15日 11時33分09秒 | 皇居周辺・城西


12月初旬の平日、東京地下鉄東西線の大手町駅にやってきました。再開発工事によって高層ビル街になりつつある大手町エリアをしばらく歩いていくと「大手門前交差点」に到着しました。これから江戸城の跡地に造営された「皇居東御苑」の中を散策していきたいと思います。皇居東御苑の中を通り抜けて最終的には北の丸公園へ向かいます。




皇居東御苑の敷地の東側、永代通りと内堀通りが交差している大手門前交差点前にあるのが「大手門」です。この門から皇居東御苑内に入ることができます。空気がたいへん澄んでいる快晴の冬空の下に堂々と佇んでいる大手門、まさに江戸城の正門にふさわしい佇まいだったと思います。




大手門の形式は枡形門(ますがたもん)と呼ばれていて、大手高麗門(一の門)と大手門渡櫓(二の門)と、桝形と呼ばれる四角形の場所から構成されています。「桝形」とは外敵が城郭内に進攻する際に門内に意図的に直角カーブのルートなどを設けることによって、外敵の進攻速度を一時的に弱めさせるための城郭地形のことです。




大手門の西側には「千代田区の大手町一丁目」の高層ビル街が広がっています。大手門の門前に発達した町であることから大手町と名付けられました。高さ200メートル前後の高層ビルが建ち並び、現在でも再開発工事が行われています。




大手門前交差点から内堀通りに沿って林立している高層ビル群を撮影してみました。




皇居東御苑の敷地内は一般の人でも自由に出入りすることができます。季節によって公開時間に若干の差があるのですが、今の時期ですと11月1日~2月末日の期間では午前9時~午後4時(入園は午後3時30分まで)となっています。夕方の時間帯になると閉まってしまうということですね。




交差点から大手高麗門まで伸びている橋の上から撮影した「大手濠」です。正面には日本経済新聞社本社ビルや東京消防庁本庁舎のビルが見えます。




「大手高麗門(一の門)」前にやってきました。江戸城の正門にあたる大手高麗門は慶長12年(1607年)に創建されたと伝えられており、明暦の大火(1657年)や元禄16年(1703年、)並びに安政2年(1855年)の大地震等の度々の災害に見舞われた。その都度修復が繰り返されたものと考えられます。




大手高麗門の中へ入ると、その奥は石垣で囲まれている桝形が形成されている広場があります。その広場の右手に見えるのが「大手門渡櫓(二の門)」です。大手高麗門を破って進入してきた敵軍をこの渡櫓の上から迎撃するという防衛戦を展開するのです。




大手門渡櫓は第二次世界大戦の空襲によって焼失しています(大手高麗門の方は無事でした)。1967年(昭和42年)に再建されて、現在に至っています。




内側から撮影した大手高麗門です。後方には永代通り沿いに立ち並んでいる大手町地区の高層ビル群が写っていて壮観ですね。門から飛び出ている二つの屋根は、門を内側に開いている時に門扉を守るための屋根です。この日は意外と人通りがあったので少し驚きました。




枡形の四角刑を形成している石垣を内側から撮影してみました。桝形の広さは30メートル×30メートル位の広さでした。




大手門渡櫓(二の門)を通り抜けて、いよいよ皇居東御苑の中を散策していきます。散策は無料ですが、守衛所で職員の方から一人一枚ずつ番号が書かれたプラスチックカードを渡されます。東御苑の敷地から出る際は、そのカードを守衛所に返すことになります。




番号カードを受け取った後はしばらく道なりに沿って西側へ散策していきます。散策道は大変道幅が広く、自動車が対向してすれ違える程です。たまに本当に業者の車などが通り抜けていきました。




左手には「三の丸尚蔵館」が建っています。皇居東御苑内にある博物館施設。宮内庁が所管する。昭和天皇の崩御後の1989年(平成元年)6月に皇室から寄贈されて国庫に帰属した美術品を保存、研究、公開するための施設として1993年(平成5年)に開館しました。




「大手三の門」跡地の石垣の脇を通り抜けていきます。門跡の脇には「同心番所」が併設されています。同心番所には大手三の門を警固する与力・同心がつめていました。同心とは江戸幕府の諸奉行・所司代・城代・大番頭などの配下に属し、与力の下にあって、庶務・警備の仕事をしていた下級役人を総称したものです。




大手三の門跡から振り返って撮影した大手町の高層ビル群です。次回の記事では百人番所、大番所脇を通り抜けて江戸城の本丸跡へ向かいます。




大手町の高層ビル群の西の外れにある大手門前交差点から散策を始めます。大手高麗門を通って道なりに進んでいきます。

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