
大手三の門を抜けたところの左手にあるのが長さ50メートルを超える百人番所です。大手三の門を守衛した江戸城本丸御殿最大の検問所でした。鉄砲百人組と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、廿五騎組の4組が交代で詰めていました。各組とも与力20人、同心100人が配置され、昼夜を問わず警護に当たりました。

百人組(ひゃくにんくみ)とは、江戸幕府における組織の一つです。備に配される通常の鉄砲組とは異なり、高い火力を有した独立部隊として編成されたと考えられています。また徳川家康は江戸城が万一落ちた場合、内藤新宿から甲州街道を通り、八王子を経て甲斐の甲府城に逃れるという構想を立てていました鉄砲百人組とはその非常時に動員される鉄砲隊のことであり、四谷に配されたといいます。

百人番所の裏側には「済寧館」の建物が建っています。済寧館とは皇居内にある道場のことで、元々は1883年(明治16年)に明治天皇の命により千代田区紀尾井町に建てられました。関東大震災後の昭和8年(1933年)に皇宮警察の武道振興のため創設当時の規模に復することとなり、9月5日に大手門内で起工し12月に竣工しました。

百人番所前の広場からは散策道が二手に分かれていて、二の丸へ伸びている道と、本丸へ伸びている道の二つがあります。今回は本丸跡地へ伸びている散策道へ進みます。

広場前から撮影した本丸跡地へ通じている散策路です。皇居東御苑はかつての江戸城の本丸・二の丸・三の丸跡に位置し、少し離れた場所の西の丸を含めた、この範囲のことを江戸城と言いました。緑豊かな雑木林に日本庭園や皇室関連の施設、江戸城の遺構などが残されています。戦後、特別史跡に指定され、1968年10月1日から一般に公開されるようになったのです。

百人番所の全景を撮影してみました。

左側が二の丸へ通じている散策路、左側が三の丸跡地・同心番所へ通じている通路です。この広場は高い石垣に囲まれています。

本丸跡地へ続いている「中之門跡」です。中之門の石垣は、丁寧に加工された大形の石材が隙間なく積む「切込みはぎ」と呼ばれる技法で積まれています。また、石垣に使われているのは、瀬戸内海沿岸から運ばれた白い花崗岩で、西国大名から献上されたと考えられます。江戸城の本丸跡地に広がる広場は、奥の石垣の上の高台の上に造成されています。

中之門の脇に立っている「大番所」です。大番所は大手中之門の内側に設けられ、他の番所よりも位の高い与力・同心によって警備されていたといわれています。江戸城本丸へは最後の番所であり、警備上の役割はきわめて重要であったと考えられています。
この大番所の背後には15段の射撃用の石段が存在します。

中之門・大番所前から先は急な上り坂となっていきます。上り坂の散策道を囲むように背の高い石垣が続いていきます。

振り返ると百人番所前の広場と大手町の高層ビル群が見えました。

急坂なので標高が高くなっていきます。

この坂は、もともと江戸城東側に広がる低地と本丸の位置する台地との境にあたり、これを登りきると本丸正門の中雀門があります。

坂道を囲っている石垣をそばで見てみると、改めてその規模に驚きます。

さらに登っていくと・・・。

坂上となり、この位置に本丸正門の中雀門が建てられていたのです。次回の記事では本丸跡地の広場を散策していきます。

地図の中心点である中之門・大番所前から大きく南へ迂回している坂道を上がっていくと本丸跡地へ出ることができます。