goo blog サービス終了のお知らせ 

人の間・時の間・空の間:B面

今日も 【 間 】 を縫って進もう、自分の港へ。

3年がかりのお引越し

2008-02-08 12:26:10 | 中越地震
山古志のAさんから写真付のハガキが届きました。

以前は池谷集落にお住まいでしたが、
2004年10月の中越大震災でお家が全壊し
それ以来ずっと仮設住宅で暮らしていらっしゃいました。
被災から3年・・・ようやくご自宅を再建されたという うれしい知らせ!
Aさん、おめでとうございます

なんだか自分のことのようにうれしくて!
そして、どこかホッとしたような気持ちなんです。
もちろん被災者の方々のご苦労は、これで終わりじゃないけれど
一区切りついたようで、やっぱりウレシイ。

きっと、山もAさんの帰りを心待ちにしていたことでしょう。
芽吹きの春まで、もうひとガンバリですね。

マリが行っちゃうよ

2008-01-11 05:55:52 | 中越地震
中越大震災を描いた映画「マリと子犬の物語」
早く観にいかないと終わっちゃうなぁ・・・
ウダウダしてるうちに時間が経っちゃっいました。

絶対観なきゃ!と思う反面、やめとこうかな?という気持ちもあります。
揺れ動く理由①
被災当時のように、また気持ちが落ちこむのではないか?という恐怖。
揺れ動く理由②
たぶん・・・現実とのギャップに「あんなキレイゴトじゃないよ!」と腹立たしくなるおそれ。

「中越に関係ある自分なら、一応観るべきだ!」という気負いもあるし、
故郷の被災がどんな捉え方をされているかも見てみたいし・・・
たかが映画なんだからサラッと観ればいいんだけれど、気持ちは複雑です。

今回のことを通じて、
ドキュメンタリータッチの映画、小説などには、
常にその向こうに当事者たちがいて、
同じような戸惑いが存在するのだろうと思いました。


田麦山の震災スケッチ展

2007-10-25 06:19:22 | 中越地震
中越大震災の激震地、新潟県川口町(現在は市)田麦山ご出身で
埼玉県在住の森山勇さんのスケッチ展に行ってきました。

震災直後の故郷の惨状ををつぶざにスケッチし、
コメントとともに記録されています。

倒壊した家屋や土砂崩れなどの様子をパシャっと一瞬で撮る写真と違って、
手描きのスケッチは、その線の一本一本に様々な思いが宿っているようで
写真の迫力とは違う、胸に迫るような感慨がありました。

未曾有の震災を過去のものとせず、教訓として胸に刻むために
このスケッチ展を開催されたとのことですが、
頂いた資料の中に森山さんはこう結んでいます。

「遥か遠く、大和朝廷の時代より歴史の続く田麦山。幾多の天変地異を経て今見る村に計り知れない郷愁を感じる。この長い歴史の中に、私が確かにこの村に居た、その僅かな証に絵を描き続けているのかもしれない、ふとそう思うこともあった。大変な悲しみの中、スケッチする事をお許し戴いた村の方々にお詫びとお礼を申し上げます。」

森山さんは今も田麦山に通い、自然学校の運営に関わるなど、
被災後の故郷を見守り続けています。



本当の船出

2007-10-23 16:32:20 | 中越地震
新潟県中越大震災から今日で3年目。
どなたにとっても長く大変な道のりだったことでしょう。

それにしても・・・
3年経っても仮設暮らしの方が89世帯、248人ってご存知でしたか?
年内には全員退去ということですが、山に戻れる人、他へ移る人、様々でしょう。
希望どおりか否かは別として、これでひとまずすべての人が船出をするわけです。
それぞれの航海が、どうかどうか幸せの港に着きますように。

中越ひこばえ展でお世話になった池谷集落のIさん。
今もまだ陽光台の仮設にいらっしゃいますが、
お正月は山古志の新しい家で迎えられるそうです。

現実の山古志は、多くの村人が去り、人々の注目も去り、ボランティアも去り、
きっとこれまでにも増して、静かで寂しいことでしょう。
これからが本当のふんばり時なのかもしれません。

ずっと応援しています。

絶対忘れません。

日本のどこかで誰かが気にかけていることを、
どうかどうか忘れずにいてください。







中庸と無関心

2007-09-26 05:46:56 | 中越地震
中越沖地震被災から2ヵ月以上経つ被災地の様子をニュースが伝えていました。
長年住み続けた自宅を取り壊すのを泣きながら見つめるおばあさん・・・
切なくて、胸が苦しくなります。
こらえても、こらえても涙があふれます。


ものごとは『 中庸 』が肝心とよく言われます。
感情の起伏が激しい私には耳の痛い言葉です。

けれども、そもそも中庸と無関心はどう違うのだろう?とたまに思います。

辞書によると、中庸とは「考え方・行動などが一つの立場に偏らず中正であること。
過不足がなく、極端に走らないこと。」とあります。
無関心とは「気にかけないこと。興味を示さないこと。」とあります。
感じるけれど動かさないのと、そもそも感じないのとでは
厳密に言えばもちろん違うのでしょうが、
感情の表れる振幅が小さいことに関してはどちらも同じではないかと・・・

中庸の『中』は偏らないことであって、
決して中途半端ということでないということは解るのですが、
それにしても・・・
うれしいにつけ、悲しいにつけ
ものごとに強く心を動かし、
やむにやまれぬ衝動に駆られて表現するということがなければ、
何も伝わりはしないのではないか?とも思うのです。

世界中の人が全員『中庸』を得てしまったら、
世の中はなんと味気なく、つまらないものになることか・・・


誰かが伝えてくれなくては!
地震、台風、事件、事故
世界中の小さな街で起きる出来事のなかの悲しみを、苦しさを!

人ごとだった・・・

2007-01-17 11:25:14 | 中越地震
阪神淡路大震災から12年目。
あの朝、倒れた高速道路、倒壊するビル、あちこちからあがる火の手・・・
テレビに映し出される映像は、
まるでドラマでも見ているような現実感のない感じだったのを覚えています。
6434人の犠牲者とそのご家族には、決して今も癒えない苦しみがあることでしょう。
阪神大震災が起きたとき、もちろん最初は
「大変だろうな、気の毒だな」と募金などをさせていただいたように記憶しています。

・・・ただ・・・
1年後に阪神を思い出したか? 3年後に阪神の復興に思いを馳せたか?
と聞かれれば「いいえ」と答えるしかありません。
人ごとだったのです。自分の痛みとして感じていなかったからです。
今更ながら、ほんとうに申し訳なかったと思います。

故郷で新潟県中越大震災が発生し、家人知人が多く被災をしました。
震災後「忘れられてしまうこと」に どうしようもない焦りと怒りを経験しました。
自分の身に苦しみがふりかかって初めて、
阪神の方々がどんな思いでこの12年間を過ごしてこられたのか
少しだけ分かるようになりました。

阪神の復興は12年経った今も8割だそうです。
残りの2割と、8割の中の目に見えない部分に思いを馳せ、
そこに悩み苦しみがあるのなら、
心から耳を傾け、自分のこととして考えられるようになりたいと思います。


忘れた頃に・・・

2007-01-09 10:32:59 | 中越地震
昨日8日、また新潟県中越地方で地震がありました。小千谷などで震度4。
2004年の中越地震から2年以上が経ち、
少しづつ地震への恐れも忘れかけていた頃だっただけに
中越の方々はさぞ驚かれたことでしょう。
それにしても・・・
2004年の中越地震が、積雪のある時期でなくてよかったと改めて思います。


気持ちのいい冬晴れの関東からは想像できないかもしれませんが、
同じ今このとき、
日本海側では、灰色の空から絶え間なく雪が降り続いています。

【雪国新潟の今の空】

最後の一人になるまで

2006-10-25 06:58:00 | 中越地震
中越地震から2周年ということもあって、
テレビでも中越の今を伝える報道が続きました。

いまだに5000人以上の人が仮設住宅に残っているとのこと・・・

中越地震の仮設住宅へは、阪神大震災の際の失敗を教訓に
コミュニティーごとにまとまって入居となりました。
震災後の大変な時期を、知った顔同士が助け合い励ましあってこれたのは、
本当によかったと思っています。
ただ・・・そうやって共に戦ってきた仲間達でさえも結局はバラバラになります。
集落へ帰る人、他の地へ行く人、そして取り残される人がいる現実。
その疎外感、不安、苦悩は、
もしかすると震災直後以上なのかもしれません。

仮設に残らざるを得ない状況は、一人ひとり違うはず。
その一人ひとりの声が然るべきところへ届き、
それぞれにとって最善の未来が訪れますように。

仮設入居者が最後の一人になるまで、
その人たちの苦悩を忘れずにいたいと思います。


人を動かすもの

2006-10-13 22:07:10 | 中越地震
何がこの人をこんなに強く輝かせているのだろう?
この人の力はいったい何処からくるのだろう?

私が木版画家の尾身伝吉さんに最初にお目にかかったときの印象でした。
なにしろ中越復興に対する熱意がハンパじゃないのです。
風化することへの怒りにも似た焦燥と、それをくい止めようとする熱意が
穏やかな口調のなかにも感じられ、とても感銘を受けました。

尾身さんの力には、ある理由がありました。

新潟県十日町市の木版画家、尾身伝吉さんは豪雪で知られる同県津南町にアトリエを設け、国内外で個展を開催するなど精力的に活動をしています。
2004年10月の新潟県中越大震災で尾身さんは自らも被災しました。この地震でワゴン車に乗った母子3人が土砂崩れに巻き込まれ、母親と女の子は亡くなり、奇跡的に皆川優太ちゃんだけが救出された事故はまだ強い記憶に残りますが、亡くなった母親の皆川貴子さんとは旧知の仲でした。
「版画教室を開いてほしい」。展示会での作品を気に入り、貴子さんがそう依頼してきたのがお付き合いのきっかけだったそうです。母子3人は展示会にもよく足を運んでくれました。尾身さんは事故の一報を避難所のテレビで知り、大きなショックを受けました。貴子さんとは地震の起きる3ヶ月前に津南町のギャラリーで会ったのが最後となりました。
ようやく作品制作を再開したのは、震災に追い撃ちをかけた豪雪と戦い終えた春。「(亡くなった皆川さんに)魚沼地域の良さを伝え続けてと言われている気がした。」という尾身さんは、再開第一作目として皆川さん親子が幸せに暮らした旧小出町(魚沼市)の風景を選びました。雪解けの越後三山や魚野川を描いたその作品を 「甦る故郷」 と名付けました。

尾身伝吉木版画展を開催しています。