5月14日に「情報とは「情け」に「報いる」こと」と題して心情を書いた。道草様と硯水亭様に奥深いコメントを頂いたのであるが、職場の仕事に没頭していて帰宅するとバタン・キューの日々が続いてレスが遅れていました。申し訳ありません。一段落とは行かず、次の仕事が待ちかまえていますがなんとか時間がとれました。
次は、講談社学術文庫 宮本常一著 「塩の道」にある、田村善治郎さんのこの本の解説に、之に関連する記述がありますので引用させていただきます;
------------------------------------------------------------------------------------------------------
民俗研究者としての先生は、その膨大な著作に示されるように、大きな業績を残されているのだが、その反面、一介の百姓であり続けた人でもあった。そして百姓の立場から離島や山村、農漁村の人たちの良き相談相手となり、農業経営や技術の指導にも多くの時問を割いており、強い印象と影響を多くの人に与えてもいる。福島県いわき市に住み、農業を営みつつ郷里の民俗を研究しておられ、宮本先生とも親交のあった故高木誠一さんが、「うちには、随分偉い先生が来る。そして、この俺から資料を持ち帰り、本を出している。しかし、この俺に、これから村をどうしたら良いか、どうしたら暮らしが良くなるか、教えることができない。しかし、宮本先生は、ちがう。俺たち村人に夢を托していく先生だ」と、その御子息、高木秀樹氏に語られた話を、先生の没後すぐに出された追悼文集「宮本常一 ──同時代の証言」に紹介されている。また、先生がなくなられたという報を聞いた山口県の川村に住む老人の一人が、「ええ世話師じゃったがのう、憎しいことをした、あんな人がいるとみんなが助かるんじゃが」と悔んでいたと、猿舞座の村崎修二さんが語っておられたが、そういう言葉が、宮本先生の入柄や学風の一面をよくあらわしている。
世話師というのは西日本、ことに先生の郷里である山口県あたりでよく聞かれる言葉である。広く旅をして広い見聞を持ち、世間のこヒを良く知っているだけでなく、ある見識を持っていて、事ある時には良き相談相手となり、周囲の人に役立つ人というようなニュアンスを持って使われているのてある。 官本先生はそういう意昧で世話師と呼ぶにふさわしい人であり、先生の学間は世話帥の学と呼んでも良いようなものを持っていると私は思っている。
------------------------------------------------------------------------------------------------------
宮本先生には多くの、「本当の情報」が入ったことでしょう。私が云いたかったことをうまく言い表していると思い、引用させて頂きました。本当の情報を得るにはやはり give の要素が必要である思います。前にも書きましたが、give の精神の無い人には情報が入らないと思う。
但し甘えるときには率直に甘える精神も必要でしょう。ただそこには、この人は単なる利己心で動いているのでは無いと、純粋な一途さも必要だと思う。私はその人を見分ける一つは、その人を見ていて、その人に「陰」を感じるかどうかで判断します。陰のある人には身構えてしまいます。
深く考える事ができませんが、今の心情であります。
次は、講談社学術文庫 宮本常一著 「塩の道」にある、田村善治郎さんのこの本の解説に、之に関連する記述がありますので引用させていただきます;
------------------------------------------------------------------------------------------------------
民俗研究者としての先生は、その膨大な著作に示されるように、大きな業績を残されているのだが、その反面、一介の百姓であり続けた人でもあった。そして百姓の立場から離島や山村、農漁村の人たちの良き相談相手となり、農業経営や技術の指導にも多くの時問を割いており、強い印象と影響を多くの人に与えてもいる。福島県いわき市に住み、農業を営みつつ郷里の民俗を研究しておられ、宮本先生とも親交のあった故高木誠一さんが、「うちには、随分偉い先生が来る。そして、この俺から資料を持ち帰り、本を出している。しかし、この俺に、これから村をどうしたら良いか、どうしたら暮らしが良くなるか、教えることができない。しかし、宮本先生は、ちがう。俺たち村人に夢を托していく先生だ」と、その御子息、高木秀樹氏に語られた話を、先生の没後すぐに出された追悼文集「宮本常一 ──同時代の証言」に紹介されている。また、先生がなくなられたという報を聞いた山口県の川村に住む老人の一人が、「ええ世話師じゃったがのう、憎しいことをした、あんな人がいるとみんなが助かるんじゃが」と悔んでいたと、猿舞座の村崎修二さんが語っておられたが、そういう言葉が、宮本先生の入柄や学風の一面をよくあらわしている。
世話師というのは西日本、ことに先生の郷里である山口県あたりでよく聞かれる言葉である。広く旅をして広い見聞を持ち、世間のこヒを良く知っているだけでなく、ある見識を持っていて、事ある時には良き相談相手となり、周囲の人に役立つ人というようなニュアンスを持って使われているのてある。 官本先生はそういう意昧で世話師と呼ぶにふさわしい人であり、先生の学間は世話帥の学と呼んでも良いようなものを持っていると私は思っている。
------------------------------------------------------------------------------------------------------
宮本先生には多くの、「本当の情報」が入ったことでしょう。私が云いたかったことをうまく言い表していると思い、引用させて頂きました。本当の情報を得るにはやはり give の要素が必要である思います。前にも書きましたが、give の精神の無い人には情報が入らないと思う。
但し甘えるときには率直に甘える精神も必要でしょう。ただそこには、この人は単なる利己心で動いているのでは無いと、純粋な一途さも必要だと思う。私はその人を見分ける一つは、その人を見ていて、その人に「陰」を感じるかどうかで判断します。陰のある人には身構えてしまいます。
深く考える事ができませんが、今の心情であります。
このテーマから外れていますが、お許し下さい。
主人は山男で、40年サラリーマンしていましたがあれほどスーツの似合わない人を私は知りません。その人が云っていた忘れられない事は、山にも陽と陰がある。日が煌々と射す山でも陰の山もあれば、空さえ見えず探し当てねばならないほどの獣道が僅かにあるような深い山でも陽の山がある。
視野に三角点が見えていても「陰」を感じたら決して進んではならない。とよく言っていました。
mhujinoさんのお感じになられる事と少し共通点があるのかなと・・・。厚かましく来させていただきました。
琵琶湖の方はお陰さまでのんびり廻っています。先日は新旭針江のエコライフ「生水の郷」で『かばた』を見学してきました。生水が育むエコな生活に癒されてきましたです^^ありがとうございました。
ささ舟さまのご主人の山男ぶりはそうとう年期が入っていますね。凄さを感じます。実は新田次郎の「剣岳」を読み始めたのですが、主人公の柴崎芳太郎を案内する立山の麓の、和田や芦峅寺の山男達がみせる動物的な勘には感心することしきりであります。ご主人の域には達しておりませんので、山の陽と陰など私には分かりません。今度山には入ったらじっと観察して陽か陰かかぎ分けてみたいと思います。ただそんな険しいところにはなかなか行けませんが。人の陽と陰は決して態度だけではないと思っています。一見朗らかな人に騙された経験もありますので少しは学習したつもりでありますが、、、
琵琶湖歩きを楽しんでおられるようですね。歩くだけなら4~5日か一週間もあれば歩けるでしょうが、途中いろいろな体験や見学をされているようですね。ダボハゼ藤野といたしましては両方をやってみたいと思いますが、歩く前にコース設計をすることも大きな楽しみではないでしょうか?
「みえないもの」 田中清光
草原のなかをうねる小径をぬけてゆくと
丘がみえてくる
みえなかった森が
みえはじめるときには
そのむこうに まだ
みえない湖がひそむ
隠されている泉があり
風に流されてゆく純金の花粉があり
さらに稜線のむこうには
セルリアン・ブルーの天末線があるだろう
這松帯はみえてこない
せせらぎのすすぐ谷すじの岩も
暗がりまでは見わたせない
だが 尾根にとりついた途端
視界はつつぬけに拡がる
なまなましい色また色のだんだら
天をゆびさす山頂
サイロの赤屋根がとおく光り
蒼い宙天から 一気に地平線へ墜ちる黒い鳥
瞳を凝らせば足もとの
閃緑岩の結晶の小さな焔までがみえてくる
だが
まだみえないものがある
山頂に立って
全景がはるばると拡がっても
なおもみえないものがあるのだ
ただshigeさんなどのグループにも声を掛けているのですがまだ約束が果たせていません。みんなの都合をあわすのがなかなか大変な作業ですので、これからは、いついつ行くよ~、都合いい人は一緒に如何?って誘おうかなとも考えているのですが。
父は先週立山から帰って参りました。無事だったよとのひと言です。心配していたのに損をしました。父も新田次郎が大好きで、お陰さまで父の要請で、ポイルトガルのモラエスの実家まで行ったことがあります。
宮本常一さんを読んでいらっしゃってホンに嬉しい限りです。ところで私の民俗の先生は本当は本田安次です。従って民俗芸能に分類されるでしょう。先生最晩年の弟子にして戴きました。特別に何もないのですが、先生が文化功労賞を戴いた直ぐ後に亡くなられたのにショックでしばらく誰ともお話出来ませんでした。Mfujinoさまの志は今後にも立派なものです。心から応援申し上げます!
本田先生は存じ上げませんし、始めてお名前を知りインターネットで検索すると、すごい先生なのですね。そのお弟子様、今後とも宜しくご指導下さい。
新田次郎の「剣岳」は地図を見ながら呼んでいます。少し血が騒ぎ始めました。