酉の市といえば、鷲(おおとり)神社の祭礼だ。
今では、浅草の鷲神社(鷲大明神社)がその代表格として、酉の市が立つと様々なメディアに取り上げられる。
そして、鷲神社の裏手に新吉原遊郭があって、一方では新吉原遊郭の裏手にある鷲神社で酉の市が立って、その相乗効果として、多くの参詣人で賑わったことから、「浅草・鷲神社の酉の市」として定着したようだ。
そのために、鷲神社があるところ、酉の市が立つところには、遊郭があったことを示すといったまことしやかな話しまでつくられる。
しかし、調べてみると、遊郭に鷲神社がつきものだったとしても、鷲神社に遊郭がつきものだったとは限られそうもないようだ。
酉の市の由来には、鷲神社の祭神・日本武尊が東征の際、戦勝祈願を鷲宮神社(埼玉県久喜市)で行い、祝勝報告を大鷲神社(東京都足立区花畑)で行った、その日が11月酉の日だったからとか、日本武尊が伊吹山の神と戦って病を得、能褒野(三重県亀山市)で没すると、姿を白鳥に変えて大和へ向けて飛び立った、その亡くなった日が11月酉の日だったことから祭りが行われ、市が立ったとされる。
浅草・鷲神社に隣接する長国寺は、酉の寺とも呼ばれ、その由来として、11月酉の日、日蓮宗の祖・日蓮上人が上総国鷲巣(千葉県茂原市・鷲山寺)で国家平穏を祈ったところ、明星が明るく輝きだし、鷲妙見大菩薩が現れたことにちなみ、鷲山寺から鷲妙見大菩薩を出開帳したのが始まりという。
もともとは、神仏習合で、明治になって寺と神社とが分けられたから、由来はどちらも都合のいいほうで・・・と思えばいい。
ちなみに、江戸時代、長国寺(鷲大明神社)の酉の市は「新酉」と呼ばれ、花畑・大鷲神社の酉の市を「本酉」、千住・勝専寺の酉の市を「中酉」といい、古くは、花畑・大鷲神社を産土神とする領民が収穫祭を行うにあたり、鶏を捧げて開運祈願をし、祭りが終わると奉納した鶏を浅草寺境内へ放しにいったことが起源ではないかともいわれている。
さて、この日の鷲神社は、酉の市の片付けの真っ最中だった。
大きな熊手が飾られている。
解体した露店のあちらこちらにも、飾り熊手が置かれている。
売れ残りは、いったいこの先どうなるのだろう?
鷲神社の七福神は「寿老人」。
この日は、片づけのために出入り口が閉ざされて、拝むことはできなかったが、拝殿の前には縁起物の巨大な「おかめ」が笑いを振りまいていた。
浅草寺と花畑・大鷲神社との関係について、浅草寺由来にある観音様を祀った郷司の土師(はじ)真中知という人物の「はじ」が「わし」に転訛して字があてられたという説もある。
民衆の交流や集会は、支配を容易にするため、明治の初期まで禁じられていた。
神仏の祭りやそれに関連する市、芝居などの芸能は許可制で、上納が原則となっていたようだ。
財政が豊かならともかく、手元不如意の状態が続くと、やたらと許可が出て、上納を目当てにするようになるのは当然のこと。
ついには、形式的な許可制となり、常態化してくると、農閑期に限られた祭りも、年中行事として、様々な由来や起源をつけ、市にしても、八日市とか十日市、午の市、酉の市と頻繁に開催されるようになってくる。
横浜にも、売春禁止法が制定される前、真金町というところに遊郭があった。
その鎮守として「大鷲(おおとり)神社」があり、その裏手には「横浜橋商店街」という賑わいの残るアーケード商店街がある。
妓楼は、新吉原からの出店だったというから、浅草・鷲神社の系統をひいているんだろう。
遊女・花魁のことを「鳳凰(おおとり)」に例えるというのも、何か「鷲」と因果関係があるのかもしれない。
(大祓詞)
8>鷲神社「寿老人」ご朱印
日本大通りと富士山を被写体として、定点観測中です。
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