評価点:77点/2013年/イギリス/102分
監督:ダニー・ボイル
結末以上にさわやかに感じてしまう妙な映画。
様々な絵画をはじめとする美術品を扱う競売商に勤務するサイモン(ジェームズ・マカヴォイ)は、あるとき幻の作品と言われる「魔女達の飛翔」を競売中、何者かに襲われる。
そのとき、手順通り絵を保管庫に入れようとした際、賊に襲われ頭を強打する。
気づくとその前後の記憶がなくなっており、絵を盗もうとしたフランクにどこに隠したのかを問われる。
実は彼はフランクとともに絵を盗み出す手はずになっていたのだ。
全く思い出せないサイモンは、エリザベスという女性の催眠療法を試してみようと考える。
しかし、そのカウンセリングは極めて複雑な手順を踏んでいくことになる。
言わずとしれた、「127時間」や「トレインスポッティング」のダニー・ボイル監督の最新作である。
彼の作品をすべて鑑賞しているわけではないので、あまりつっこんだことは言えないが、最近は特にメディアでも取り上げられるほどの話題作を連発している。
それは彼の映画監督としての才能ということもあるが、題材の切り取り方がうまかったのだろう。
今回は、絵画と記憶を巡る物語。
十分におもしろい題材だが、それほど話題になっていないような気がする。
やはりレンブラントやゴヤといっても日本には受けないのかもしれない。
私はこういう映画が大好きなので早めに見に行こうと考えていたのに、こんな時期になってしまった。
映画館はまばらで、すでに多くの観客の興味は違う映画に行ってしまったようだ。
まだ公開しているところがあるかもしれない。
好き嫌いはあるが、「記憶」をモティーフにしているわりにはそれほど複雑でもない。
ぜひ見て欲しい。
▼以下はネタバレあり▼
何が何だかわからなくなる、という触れ込みだけは知っていたので、この映画はかなり気合いを入れて見た。
正確に言えば、かなり緊張して、「絶対にだまされないようにしよう」と思ってみた。
見終わって思うことは、「かなり正統派の映画だ」ということだ。
妙な言い方だが、ほとんど観客をだまそうというシナリオになっていない。
記憶をモティーフにしているけれども、何が夢で何が現実かというようなミス・ディレクション映画ではない。
この映画を複雑にさせているのは、どちらかというと、誰に対して催眠療法(催眠術)をかけているのかわからない、という混乱だ。
ラストで真相もきちんと明かしてくれるので、「どういう映画だったのかわからずに観た後に苦しむ」たぐいの映画ではない。
私は構えてみていたが、それほど思わせぶりな広告をうたなくても良かった気もする。
先に真相を整理しておこう。
1年半ほど前、サイモンはギャンブルにおぼれていた。
そのギャンブルと決別するため催眠療法を試そうとエリザベスを訪れる。
エリザベスと深い関係になってしまう。
しかし、サイモンからの深い感情が一方的な思い込みにつながりストーカーとなっていく。
決別を誓ったエリザベスは、彼に催眠術をかける。
それは「エリザベスとの関係を忘れること」。
もう一つは、「エリザベスのために絵画を盗むこと」。
潜在的に催眠術をかけ続けた状態にあったサイモンは、一年半後、多額の借金を返済するためにサイモンはフランクとともに絵画を盗み出す計画を実行に移す。
しかし、絵画を盗み出す際に予期せぬことが起こり、サイモンは記憶を無くす。
頭を押さえたまま彼は見知らぬ女の乗る車に轢かれそうになる。
その女とエリザベスが急に二重写しになり、衝動的に殺してしまう。
女の乗っていた赤いアルファロメオをガレージに置いたまま、自室に戻り、病院に搬送される。
記憶を戻すために、選んだ催眠療法の術師がエリザベスだったのだ。
エリザベスは考える。
記憶をただ単に戻すだけでは、絵は手に入らない。
絵が手に入ったとしても安全に入手することは難しい。
それならば、催眠療法を長引かせながら、周りのフランクたちともども催眠術にかけてしまうのだ。
そうすることで、安全に、確実に、サイモンの記憶を探らせながら、周りの自滅を謀ったわけだ。
非常にうまいのは、これらがすべて「現実」として描かれていることだ。
どれも観客を欺こうという「夢」はない。
精神世界を上手に描いてはいるが、それは「嘘」ではない。
どれが現実でどれが術中なのかわからなくなっていく感覚を持たせながら、最後にはすべて断片的であっただけであって、すべて「現実」だったことが明らかにされる。
断片的な情報がつながったときのカタルシスは大きい。
この映画の胆はそこにある。
すごくラストがさわやかに感じるのは、そうしたシナリオ、演出の潔さだ。
そして、ところどころに挟まれる「笑い」が、この映画全体の「かわいらしさ」を生んでいる。
強面の黒人ネイルが、「イチゴがこわいよーん」といっている様は笑えてしまう。
そうでなくても、チンピラたちが女性一人の催眠術師を囲んで催眠療法にかかっている姿も笑えてしまう。
そのかわいらしさ、ユーモアが、この映画を最終的には「円満に」まとめてくれる。
サイモンに感情移入しながら、同時にフランクやエリザベスにも感情移入できるように計算されている。
サイモンが死んでしまう頃には、「それはお前が悪いわ」と思えてしまう視点の転換がある。
エリザベスから送られてくるタブレットには、お茶目でしたたかな彼女の一面が大きくフォーカスされる。
そのために、後味の悪さは驚くほどない。
むしろお馬鹿な人間たちが登場する「トレインスポッティング」のほうがはるかに苦々しい。
けれども、うまく乗れなかった人もいただろう。
話が進むほどに違和感がふつふつと沸いてくる。
このエリザベスの計画が「実行しうるかどうか」というよりも、説明されていないところが気になるためだ。
特に「あれ?」と思うのは、サイモンがどのような状態で「入院」するに至ったのかという点だ。
映画の冒頭ではフランクに殴られて気絶していたところを救急搬送されて入院したように思う。
しかし、実際にはその間に人を殺し、絵を描くし、自宅まで戻っていた。
この部分が完全にサイモンだけにゆだねられているというのは不自然だ。
サイモンの姿を様々な方法で――例えば防犯カメラなど――捉えることは可能だったのではないか。
そういう違和感だ。
とはいえ、おもしろい映画であることは間違いない。
私のように素直な人間は「はぁ、そうだったのか」と納得してしまう。
きちんと楽しめる映画ではないだろうか。
監督:ダニー・ボイル
結末以上にさわやかに感じてしまう妙な映画。
様々な絵画をはじめとする美術品を扱う競売商に勤務するサイモン(ジェームズ・マカヴォイ)は、あるとき幻の作品と言われる「魔女達の飛翔」を競売中、何者かに襲われる。
そのとき、手順通り絵を保管庫に入れようとした際、賊に襲われ頭を強打する。
気づくとその前後の記憶がなくなっており、絵を盗もうとしたフランクにどこに隠したのかを問われる。
実は彼はフランクとともに絵を盗み出す手はずになっていたのだ。
全く思い出せないサイモンは、エリザベスという女性の催眠療法を試してみようと考える。
しかし、そのカウンセリングは極めて複雑な手順を踏んでいくことになる。
言わずとしれた、「127時間」や「トレインスポッティング」のダニー・ボイル監督の最新作である。
彼の作品をすべて鑑賞しているわけではないので、あまりつっこんだことは言えないが、最近は特にメディアでも取り上げられるほどの話題作を連発している。
それは彼の映画監督としての才能ということもあるが、題材の切り取り方がうまかったのだろう。
今回は、絵画と記憶を巡る物語。
十分におもしろい題材だが、それほど話題になっていないような気がする。
やはりレンブラントやゴヤといっても日本には受けないのかもしれない。
私はこういう映画が大好きなので早めに見に行こうと考えていたのに、こんな時期になってしまった。
映画館はまばらで、すでに多くの観客の興味は違う映画に行ってしまったようだ。
まだ公開しているところがあるかもしれない。
好き嫌いはあるが、「記憶」をモティーフにしているわりにはそれほど複雑でもない。
ぜひ見て欲しい。
▼以下はネタバレあり▼
何が何だかわからなくなる、という触れ込みだけは知っていたので、この映画はかなり気合いを入れて見た。
正確に言えば、かなり緊張して、「絶対にだまされないようにしよう」と思ってみた。
見終わって思うことは、「かなり正統派の映画だ」ということだ。
妙な言い方だが、ほとんど観客をだまそうというシナリオになっていない。
記憶をモティーフにしているけれども、何が夢で何が現実かというようなミス・ディレクション映画ではない。
この映画を複雑にさせているのは、どちらかというと、誰に対して催眠療法(催眠術)をかけているのかわからない、という混乱だ。
ラストで真相もきちんと明かしてくれるので、「どういう映画だったのかわからずに観た後に苦しむ」たぐいの映画ではない。
私は構えてみていたが、それほど思わせぶりな広告をうたなくても良かった気もする。
先に真相を整理しておこう。
1年半ほど前、サイモンはギャンブルにおぼれていた。
そのギャンブルと決別するため催眠療法を試そうとエリザベスを訪れる。
エリザベスと深い関係になってしまう。
しかし、サイモンからの深い感情が一方的な思い込みにつながりストーカーとなっていく。
決別を誓ったエリザベスは、彼に催眠術をかける。
それは「エリザベスとの関係を忘れること」。
もう一つは、「エリザベスのために絵画を盗むこと」。
潜在的に催眠術をかけ続けた状態にあったサイモンは、一年半後、多額の借金を返済するためにサイモンはフランクとともに絵画を盗み出す計画を実行に移す。
しかし、絵画を盗み出す際に予期せぬことが起こり、サイモンは記憶を無くす。
頭を押さえたまま彼は見知らぬ女の乗る車に轢かれそうになる。
その女とエリザベスが急に二重写しになり、衝動的に殺してしまう。
女の乗っていた赤いアルファロメオをガレージに置いたまま、自室に戻り、病院に搬送される。
記憶を戻すために、選んだ催眠療法の術師がエリザベスだったのだ。
エリザベスは考える。
記憶をただ単に戻すだけでは、絵は手に入らない。
絵が手に入ったとしても安全に入手することは難しい。
それならば、催眠療法を長引かせながら、周りのフランクたちともども催眠術にかけてしまうのだ。
そうすることで、安全に、確実に、サイモンの記憶を探らせながら、周りの自滅を謀ったわけだ。
非常にうまいのは、これらがすべて「現実」として描かれていることだ。
どれも観客を欺こうという「夢」はない。
精神世界を上手に描いてはいるが、それは「嘘」ではない。
どれが現実でどれが術中なのかわからなくなっていく感覚を持たせながら、最後にはすべて断片的であっただけであって、すべて「現実」だったことが明らかにされる。
断片的な情報がつながったときのカタルシスは大きい。
この映画の胆はそこにある。
すごくラストがさわやかに感じるのは、そうしたシナリオ、演出の潔さだ。
そして、ところどころに挟まれる「笑い」が、この映画全体の「かわいらしさ」を生んでいる。
強面の黒人ネイルが、「イチゴがこわいよーん」といっている様は笑えてしまう。
そうでなくても、チンピラたちが女性一人の催眠術師を囲んで催眠療法にかかっている姿も笑えてしまう。
そのかわいらしさ、ユーモアが、この映画を最終的には「円満に」まとめてくれる。
サイモンに感情移入しながら、同時にフランクやエリザベスにも感情移入できるように計算されている。
サイモンが死んでしまう頃には、「それはお前が悪いわ」と思えてしまう視点の転換がある。
エリザベスから送られてくるタブレットには、お茶目でしたたかな彼女の一面が大きくフォーカスされる。
そのために、後味の悪さは驚くほどない。
むしろお馬鹿な人間たちが登場する「トレインスポッティング」のほうがはるかに苦々しい。
けれども、うまく乗れなかった人もいただろう。
話が進むほどに違和感がふつふつと沸いてくる。
このエリザベスの計画が「実行しうるかどうか」というよりも、説明されていないところが気になるためだ。
特に「あれ?」と思うのは、サイモンがどのような状態で「入院」するに至ったのかという点だ。
映画の冒頭ではフランクに殴られて気絶していたところを救急搬送されて入院したように思う。
しかし、実際にはその間に人を殺し、絵を描くし、自宅まで戻っていた。
この部分が完全にサイモンだけにゆだねられているというのは不自然だ。
サイモンの姿を様々な方法で――例えば防犯カメラなど――捉えることは可能だったのではないか。
そういう違和感だ。
とはいえ、おもしろい映画であることは間違いない。
私のように素直な人間は「はぁ、そうだったのか」と納得してしまう。
きちんと楽しめる映画ではないだろうか。
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