secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ブラインドネス

2009-01-01 12:49:15 | 映画(は)
評価点:81点/2008年/カナダ・ブラジル・日本合作映画

原作:ジョゼ・サラマーゴ
監督:フェルナンド・メイレレス(「ナイロビの蜂」ほか)

見えることと見えないことの往来の物語。

大都市で日本人の男性(伊勢谷友介)がいきなり車を止めた。
周りの車が交通渋滞する中、声をかけると、「見えないのだ」と訴える。
訳がわからないまま、親切な一人の男が自宅まで送り届けると、男は車を盗んでしまう。
車が盗まれたことも知らずに妻が帰ってくるのを待っていると、妻は病院に連れていく。
だが、原因は不明で、待つように支持されるのみだった。
翌日その眼科医も自分の目が見えないことに気づき、世界中でその「白い闇」が蔓延しているという報道が。
精神科病棟を改装した「白い闇」を発症した人間の隔離施設に送られた眼科医と、失明したと嘘をついた妻は、悲惨な隔離施設の実態を目の当たりにする(見えないけど)。

今年の春頃からずっと予告編をしていた作品で、多くの人がそれは観たことだろう。
僕は主演がジュリアン・ムーアだと知って、「ハンニバル」以降彼女にことごとく裏切られていたため、不安と期待で映画館を訪れた。
日本では、役者に木村佳乃と伊勢谷友介が起用されていることでも話題になった。
僕が観たときにはけっこう賑わっていたようだが、「レッドクリフ」と「ウォーリー」に圧倒され気味で、興行的には伸び悩んでいるようだ。

それもそのはずで、この映画はかなり人を選ぶ。
特に女性には厳しい内容があるので、しんどい人も出るだろう。
恋人と二人で観に行くようなそんな淡い物語ではないし、生やさしい内容でもない。
テーマはどこまでも哲学的で、社会的というよりも、もっと根源的だ。
ちょっとした覚悟とパワーが必要だと言うことは知っていた方がいい。
逆に言えば、それ以上のネタは映画館で観た方がいい。
テーマはすごくシンプルだが、口にしてしまうと軽く聞こえる。
だが、この映画に込められているシンプルなテーマは、正鵠を射ている。
それは、事前に知るべき事ではなく、じっくりと映画を観ることで、その重さを感じてほしい。

▼以下はネタバレあり▼

視覚とは現代ではなくてはならない感覚器官になりつつある。
バリアフリーが叫ばれるなかで、ネットにしろ映像にしろ視覚的な効果や勝ちはむしろ重視される傾向さえある。
あらゆるメディアは視覚的健常者をターゲットにしている。
その意味では視覚障害者に優しい社会などは絵空事になっている感がある。

それでも社会が回るのは健常者が圧倒的なマジョリティであるからだ。
障害者に行きやすい社会を考えることが健常者にできるから社会が決定的な崩壊を起こさずに成立しているのだろう。
もちろん障害者が健常者と同じレベルで生き、配慮を要する必要性さえないことが究極的目標ではあるが。

ともかくこの映画は、映画と言う表現媒体である以上、視覚的な健常者に向けての映画であることは肯定できるはずだ。
見える僕たちが見えなくなったとしたら?
視覚を失うことで何を得るのか。

視力を失った人間が視力を回復するまでの物語であるので、この話も広く、往来のパターンをとる。
どんな視点を獲得するのかがテーマだろう。
テーマは至ってシンプルだ。
たとえ視力が回復したとしても、もはや彼らは見えないことはないだろう。
人間のつながりは視力に左右されることはない。
大切なのは相手を見ることではなく感じることなのだ。
見ることはその一つではあるがすべてではない。
それを知るために、彼らは大きな代償を払うことになる。

隔離施設では、はじめ、人々は手と手を取り合って協力しながら生きることを考える。
これは、自分たちがマイノリティであり、保護されるべき人間たちで、外の世界と隔絶されているとはいえ、外の世界が健全に機能しているからだ。
自分たちは「普通」ではないことが、他人同士で支え合うべきだと考えている。
だが、その関係は外の世界が崩れることで急に崩壊し始める。
どれだけ悪事を働いたところで、あるいはどれだけ献身的に人々と共生したところで、戻るべき場所がなく、その生活を評価してくれる者もいない。
そのことが中の世界の、隔離施設内まで浸透してしまう。
それは見えないことが日常化してしまうこととほとんど同義であり、同時だ。
見えないことが常態化すると、人は当たり前だが、視覚的な恥じらいはなくなってしまう。
廊下で汚物はまくし、食べ物はあちらこちらにこぼす。
掃除するという発想はなくなり、エントロピーは増大する。

その姿が真に恐ろしいのは、唯一観ることができる眼科医の妻と、観客だけだ。
観客は眼科医の妻の目を通して、その悲惨さを目の当たりにすることになる。
そして、妻はおびえ続けることになる。
もし私まで見えなくなったらどうしようか。
見えなくなる恐怖と見えてしまう恐怖。
見えるのと見えないのと、どちらが幸せなのかわからないが、「見えない恐怖」と戦うことになる。

この映画がアイロニカルなのは、その閉鎖された環境から脱出しても、カタルシスは得られないと言うところだ。
やがて崩壊に向かう施設は、食べ物という経済力によって貴金属だけでなく、人間の尊厳までも売るように腐敗が蔓延する。
ジュリアン・ムーアはなぜ拒まなかったのだろうか。
その答えを見いだすには、僕はもう一度観る必要があるだろう。

ともかく、崩壊した施設をでても、解答は得られない。
むしろ、世界そのものが崩壊していることを改めてつきつけられるようになる。
施設では見えないことを前提としていたのに、外界では見えることを前提とした作りでしかない。
人々は餓え、そして奪い合う。
ある者は犬に骸を喰われ、ある者は教会に逃げ込む。
それはまるでゾンビが町を徘徊しているようなものだ。
僕はこの映画を人に聞かれたとき、ゾンビ映画だと言ったことがある。
その指摘は間違いではないだろう。
盲目に陥った人は、「28日後…」で理性を失った人と何ら変わりはない。

だがそれは盲人が、という意味ではない。
この映画が提示するのは、第一患者である伊勢谷がたどり着く答えにある。
「僕たちは何も見えていなかったのではないか」ということだ。
つまり、見ることによってしか見ようとしていない人間たちは、何も見えていないのと同じなのだ。
年齢や外見や肌の色、そんなものは、人間を構成しているほんのささいな部分であり、その部分でしかも人をはかれないのであれば、それは盲人と同じなのだ。
路頭に迷う感染者たちは、盲目になったとたん、ゾンビとなった。
それは見ることしか重視していなかったからに他ならない。
光を奪われたとたん、あるいは闇を奪われたとたん、何もできなくなるのはそのためだ。
それでも必死に生きようとするなら、それは視覚情報以外の情報を頼りにするしかない。
それは、感じることなのだ。

なぜ固有名詞がほとんど出てこないのだろう。
なぜ人種がこれほどまでに多種多様なのだろう。
それはこの映画が特定の固有的な記号によって社会的コードによって読解されてしまうことを恐れてのことだろう。
つまり、この映画は普遍性に満ちているのである。

果たして僕らは、この「白い闇」を経て、何を得るだろうか。

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