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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

下弦の月~ラスト・クォーター

2009-01-01 12:36:38 | 映画(ら)
評価点:28点/2004年/日本

監督・脚本:二階健

こういう映画があるから、邦画を観にいく気がなくなるんだよね~。

望月美月(栗山千明)は、19歳の誕生日になった日、親友に、彼氏である安西知己(成宮寛貴)と浮気したことを告げられる。
父親が浮気相手と再婚するという家庭環境にある美月は、自分の居場所を見出せずにいると、洋館に迷い込んでしまう。
そこは、自分がずっと夢の中で見ていた館であり、ずっと頭の中に残っていたメロディが流れていた。
そのメロディを奏でていたのは、ロンドンに住んでいるという、アダムと名乗るギタリスト(HYDE)だった。

矢沢あいという少女漫画家の映画化作品。
少女漫画に疎い僕は、この原作を知らずに見に行った。
俗に言うミニ・シアター系の映画館で上映されていて、僕が観にいった映画館では七割から八割くらいの入りだった。
そのほとんどが、アダム役のHYDEが目当ての客層のようだった。

▼以下はネタバレあり▼

僕は、正直観にいきたくなかったが、どうしても観にいく条件がそろってしまったので、観にいくことにした。
その際、他の観客とは違い、HYDEの演技云々よりも、映画としてどうなのか、というしっかりとした評価基準を定めることを心がけた。
ラルク・ファンである僕が、この映画を語る条件は、そこにしか発生し得ないと考えたからである。

前置きが長くなってしまったが、この映画は三つのパートに完全に分かれている。
それは、構造的に分かれているといった問題ではなく、映画の雰囲気が、はじめ・中・終わりで決定的に違ってしまっているのである。

「はじめ」。
彼氏と別れることになり、家にも居場所のない美月が、謎のギタリスト・アダムに導かれ、交通事故を起してしまうところまでが、ここで言う「はじめ」である。
この「はじめ」では、謎ばかりが提示されることになる。
アダムとは誰か。
アダムと美月の関係はどのようなものか。
なぜ美月は、アダムの住む館を夢に見、
アダムの奏でるメロディを知っているのか。
そして、交通事故に遭った美月は、どういう状態にあるのか。
……といった「謎」である。

だが、ここで問題になるのは、謎が「謎」として提示されないことである。
このように「謎」をいくつか並べることが出来るようになるのは、映画を観終わった時点での話である。
見ている最中――映画が展開している時――は、何が謎で、何が謎でないのか、それさえわからない。
端的に言えば、「いま何が起こっているのか」ということさえ分からないのである。
意味ありげなシーンや、謎めいたアダムは、提示されるが、それのどのあたりに着目すればいいのかさえわからない。
よって、すべてが伏線としての記号性を持たないという、なんとも皮肉な状況に陥ってしまう。

それに加えて、映像が極端に日常と非日常を行き来する。
日本の典型的といっていいベッドタウンに住む美月の日常性と、勝手にランプがついていくという明らかに非日常の世界である洋館。
このふたつのギャップが激しすぎて、作品世界の統一感が失われてしまっている。
こうして観客は、どんどん異化体験しつづけ、どんどん作品世界から取り残されてしまう。

冒頭だけみるかぎり、この映画は失敗しているのである。

そして「中」。
同じ日に交通事故に遭った白石蛍(黒川智花)とその同級生が、洋館に閉じ込められているイヴ(栗山千明)と対話しながら、イヴの謎を調べていくという部分が「中」に当たる。
ここでは、「はじめ」で示されたような「謎」が解明されていく。
その様子は、テレビの二時間サスペンスの素人探偵を見ているかのようである。
この「中」では、実質的に主人公の交替が行なわれ、二人がほとんど主人公のように立ち回る。
恋人の知己さえも、そこでは「部外者」となってしまう。

要するに、「中」で、映画は安物のサスペンスに転換され、「リング」で呪われたビデオを見た記者たちが
その真相を突き止めようとするかの如く、謎を解いて回るのである。
この時点で漸く、話の全貌が判ってくる。
アダムと上条さやか(伊藤歩)とが19年前死に別れ、その生まれ変わりが美月だったというのである。

ここで新たな問題が生まれる。
生まれ変わることを約束したイヴは、アダムの愛に引かれ続けることになり、魂と肉体とが乖離してしまっている。
それを一致させるためには、さやかとしてではなく、美月として生きていく意味を見出さなければならないのである。
しかし、美月の生きている世界に、彼女をつなぎとめるような居場所(それはアイデンティティと言ってもいい)はない。
その問題にどういう答えを見出すか、というのが「おわり」である。

「おわり」の大半は、アダムを選ぶか、知己を選ぶか、という美月による男の選択になる。
ここで重要なのは、どちらを選ぶかという問題ではない。
なぜその相手を選ぶか、という理由である。

しかし、この選択肢、理由も含めて、ほとんど選択の余地はない。
なぜなら、美月は、さやかの生まれ変わりだからである。
さやかは、アダムと真に結ばれるために輪廻転生する。
転生した美月は、アダムと結ばれるという明確な目的(運命)をもってうまれてきたということである。

その運命と、浮気性で「付き合っているだけ」の知己とを天秤にかけることは、ほとんどできない。
それをひっくり返すということは、アダムの存在や、アダムとの愛を否定することと同じだ。
もっと言えば、この映画そのものの否定である。
この映画は、輪廻した女の物語なのだから。

しかし、彼女の答えは、「もう一度ちゃんと美月の人生をやり直したい!」という稚拙で説得力に欠ける結論に至る。
知己の「俺にはお前が、お前には俺がいなきゃだめなんだよ」という浮気性の言葉を信じてしまうのである。
映画としては、その結論しかなかったといえばそれまでだ。
しかし、ここでこのような安易な理由による稚拙な回答では、アダムとの恋愛はなんだったのだといいたくなる。

このように、この映画は三つのパートに分かれる。
それも、映画の雰囲気がまるごと変わってしまう。
お化け屋敷 → 謎解き → 二股をかけた男の選択
とまったく違う話が展開され、しかも結論は釈然としない回答のため、物語が完遂したというカタルシスもない。
これでは、映画としての統一感も、メッセージ性もなにもなくなってしまう。

このような統一感のない展開にするくらいなら、アダムとさやかとの出会いから、知己を選ぶまでを時系列順位に描いていった方が、余程感動できたのではないか。

それだけではない。
この映画で致命的なのは、「月」というキーワードの使い方である。
月の周期は19年であるそうだ。
なるほど、それは良く知らないが、そうなのだろう。
今見ている月は、19年後じゃないと見られないそうだ。
なるほど、そうはそうだろう。

だから、アダムが現れたのはさやかが死んで、美月のうまれた19年後なのだ。
ん? ちょっと待ってくれ。
アダムが現れることと、月の関係は一体何なのだ?
アダムが歌った最後の曲が「ラスト・クオーター」。
だからといって、同じ月が見える19年後に現れる意味は何なのか、
まったく説明してくれない。

19年に一度同じ月が見えるというのは、一見非常に強力な理由があるように見えるが、それと死んだアダムが現れることとは、まったく問題が別だ。
転生した女の人が一番ピチピチで、一番かわいい時期に現れたかったというのなら、まだ説得力がある。
しかし、タイトルに「下弦の月 ラスト・クオーター」という意味ありげな言葉が並んでいるが、映画の内容とは、まったく因果関係がない。
さやかが月が好きだった、あるいは、アダムが月の伝説(そんなものがあるのかは知らないが)を信じていた、
というようなエピソードがあるならまだしも、そんなものはない。
ものすごい取って付けたような設定である。

こうして完全にこの映画がもつ主題やメッセージ性が解体されてしまう。
生暖かいビールをグラスに注いだようなものである。
泡ばかりがキレイで、結局液体部分のビールそのものはない。
意味ありげな衣装、意味ありげなメロディ、大掛かりな洋館、誰もが喜びそうな純愛、神秘的な輪廻転生、そして、月。
それらは、キレイな泡である。
しかし、映画として、物語として、内容となるものは、なにひとつない。

もちろん、映画に何を求めるか、によって、仰々しく装飾された「泡」だけに価値を見出すという言い分も分かる。
だが、何も語らない映画など、表現する資格さえありはしない。

唯一の見所は、栗山千明の類まれなる存在感と、HYDEの演技になっていない演技か。
ラルク・ファンの意見としては、笑えるシーンはかなりあった。
特に、ハーフだったという設定でプロモーション・ビデオにでているHYDEは、「キル・ビル Vol.1」以来の可笑しさだった。
その「キル・ビル」に出ている栗山千明は、一人異彩を放っていた。
こんな映画に出ないで、もっと大きく育ってほしいものである。

(2004/10/27執筆)

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