secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

となりのトトロ(V)

2009-04-05 20:33:25 | 映画(た)
評価点:85点/1988年/日本

監督・原作:宮崎駿

メイの内在的存在としてのトトロ。

母親の静養のため、田舎の村に父(声/糸井重里)とサツキ(声/日高のり子)、メイ(声/坂本千夏)二人の娘三人が、引っ越してくる。
長らく使われていなかった古い家には、マックロクロスケというススワタリが住んでいた。
ある日、幼いメイが隣の山に遊びに行くと、トトロ(声/高木均)という妖怪(?)が住んでいることを発見する。
だが、後に父親とサツキが同じ道を通ってみたが、そこには何もなかった…。

「トトロ」といって、それが何か分からなければ、この国ではもはや生きていけない、と思えるほど認知度の高い作品である。
宮崎駿監督作の中でも、特に支持されている作品で、今でもグッズは売れ続けているようだ。
映画公開された作品は「となりのトトロ」だけで、特に、シリーズ化もされているわけではないのに、
これだけキャラクター人気が高い作品も珍しいだろう。
やはり、この作品には、他の映画やアニメにはない魅力があるに違いない。
 
▼以下はネタバレあり▼

メイ、サツキという名前を聞けば分かるかもしれないが、この二人の娘の名前には、「五月」というメタファーが隠されている。
「五月」とは、本格的に夏の盛りを迎えていく季節であり、これから成長しようとしているメイ、サツキらをシンボリックに表わしている。
もっと具体的に人間の成長過程の中で言えば、「発見していなかったものを発見していく」時期である。
トトロを発見するのも、自分の「したい」ことを発見するのも、この「五月」という季節に象徴されている。
「ラピュタ」のパズーや、「風の谷」のナウシカとも違う、もっと幼少期の「発見」が、作品の一つのテーマとなっている。

この物語のいわゆる主人公は誰か、と問われれば、やはり妹のメイであろう。
サツキもこの作品では重要な役どころではあるものの、終盤で母親の御見舞いに行こうとするメイが、途中で迷ってしまい、
そして〈援助者〉のトトロに救われることで無事たどり着く、という展開を考えると、メイが主人公の、メイの物語であるといえる。
また、このように整理すると、この物語も、「ラピュタ」と同じように「往来」の物語であることが確認できる。
あるところから、ある別のところへ行き、そしてまた元の場所に戻ってくるという「浦島型」の物語であると言えよう。
その行き来によって、メイは一つ成長するのである。

では、表題にもなっている「トトロ」の役割を次に考えてみたい。
先ほど〈援助者〉と呼んだが、これは、昔話にもみられる、目的を達成しようとしている主人公を助けてくれる者である。
例えば、「白雪姫」の七人の小人、あるいは「シンデレラ」の魔女などが代表的である。

この〈援助者〉としてのトトロという捉え方に異論はなかろう。
トトロは、メイやサツキが困ったときに、助けてくれる者として、その無表情でカワイイ姿を見せてくれる。
同じく猫バスもメイたちを助けてくれる者であり、彼(彼女?)も、やはり〈援助者〉として物語の中で機能する。

トトロたちの設定は、作品の中では具体的に明らかにされていない。
その謎の部分が、より僕たちの好奇心を駆り立てるわけだが、問題は、トトロの具体的設定ではない。
なぜメイたちにだけ「発見」できたか、という点である。

僕は今、この問いに対して、二通りの説明を用意した。
一つは、純真な子どもにしかトトロは見えない、あるいは会ってくれないというものだ。
これは多くの人が思いつく説明ではないだろうか。
エゴや葛藤を経験した大人は、「そこ」を通り抜けたときにどうしても忘れてしまうもの、
それがトトロと出会う条件なのだ、という説明である。
確かに、昔の僕らならば、彼らと出会うチャンスがあったかもしれない。
あるいは「千と千尋」と同じように出会っていたとしても、彼らを僕らのほうが忘れてしまったのかもしれない。
いずれにしても、メイたちでなければ「発見」できなかったことは、確かであろう。

だが、この説明ではあまり面白くはない。
この程度の解釈ならば、敢えて今更説明する必要もない。
僕は次のような〈読み〉も可能なのではないか、と考える。

その〈読み〉を提出する前に、時代設定と、都会/田舎という対立について触れておく。
トトロが今、僕らと出会うことがないのは、科学技術が発達して、人間に住む場所を奪われてしまったからだ、
という説明も可能である。
トトロの森を守ろうだとか、トトロの森を探そうだとかいう企画は、自然保護を考えるうえで興味深い取り組みである。
だが、自然さえあればトトロと出会う可能性がある、という考え方は、僕はあまり好まない。
もし、トトロの森がなくなったためにトトロがいなくなったとしたら、それは、問題を安易に摩り替えている気がするのである。
トトロは、実体ある「生物」ではない。
やはり半生物であり、半妖怪のような存在なのだ。
住むところがなくなれば、いなくなるという考え方は、生物学的過ぎる。

トトロの森があろうとなかろうと、トトロは存在しうるし、森があってもいなくなることもある。
例えば、トトロの森がなくなったことによって、トトロがいなくなるようなことがあるとするなら、
それは、トトロの森を壊してしまったコトにあるのではなく、森を壊してしまった人の心に、原因があるのだろう。
昭和30年代を舞台にしているからとか、そんな森はもうなくなったからとか、そういった表層的な読みは、あまり良くないのではないか、と思う。

話を戻そう。
なぜトトロはメイたちだけに「発見」できたのだろうか。
それは、トトロが、メイたちにとって内在的存在だからである、と考えたい。
分かりやすい言葉でいうなら、
「トトロは、メイの潜在的な強さの象徴である」ということだ。
なぜなら、子どもという生者と、死者が未分化な存在であるということと、視点人物がメイであると考えるからである。

よく、子どもは勘が鋭いとか、霊的なことに敏感だと言われたりする。
また、赤ん坊は生まれたときすぐに誕生するのではなく、少し成長してから「生者」とする信仰も、日本にはある。
これはすぐに子どもが死んでしまう確率が、低くなかったためであるが、いずれにしても、子どもには、大人にはない霊的な感覚がすぐれていることは、日本古来の信仰だと考えていいだろう。

そう考えると、トトロが見えたのがメイという幼い子どもだったから、という説明も客観性を得てくるだろう。
だが、僕はもっと踏み込んで、子ども固有の力強さとして、この問題を考えたいのである。
平たく言えば、大人には理解しがたい子どものある種の強さとしての「トトロ」を考えたいのだ。
先ほど言ったように、子どもには不思議な力が備わっている。
新潟の地震で2歳の男の子が、何十時間もの間閉じ込められていたにもかかわらず、生還したことは記憶に新しい。
このような強さが、トトロというメタファーなのではないだろうか、ということである。
子どもの強さ、この強さを具現化、具体化、可視化したものがトトロという子どもにしか見えない存在なのではないか、ということだ。

メイやサツキたちは、道に迷ったとき、トトロに助けられる。
だが、単にトトロはメイたちを助ける「他者」ではなく、メイたちにもともと備わっていた、表に現れた潜在的な強さがトトロなのではないか。
トトロは、メイの「他者」ではなく、「自己」そのものなのだ。

神隠しにあったと思った子どもがひょっこり帰ってくる。
この映画の大人たちから考えると、メイたちをめぐる事件は、このように言える。
だが、大人たちにはなぜ帰ってこられたのか、わからない。
なぜなら、それは大人たちには理解できない子どもの強さであり、大人たちがなくしてしまった強さだからである。

トトロが、メイの内在的な強さであることのもう一つの理由は、視点人物がメイであり、この作品世界全体がメイの心のフィルターを通した世界であるからだ。
この「トトロ」の世界は、希望に満ち溢れ、発見に満ちている。
全てのものは美しく、全てのものは好奇心をそそるものとして描かれている。
なぜなら、この世界観はメイの眼を通して描かれたものであるからだ。
そのメイが捉えたトトロとは、やはり自身の不思議な強さを「他者」として捉えたに他ならない。

このように考えると、サツキは、その強さの上限であり、メイがその強さの下限であるという説明もできる。
「社会」に順応し始めたサツキは、そろそろその内在的存在としてのトトロを、失いつつあるのだ。
それが、カンタとの恋の兆候だ。
カンタは、他所からきたサツキに関して、少なからず興味を抱いているように見える。
それは異性を意識し、一つの社会に出て行く年齢に達したからと説明できる。
相手のサツキも、次第に思春期を迎え、内在的存在であるトトロが失われて、成長し「成人」となる兆しを見せているのだ。

メイは逆に、ようやく「好き」「嫌い」を主張できる年齢に達した。
一人で歩き、対象をはねつけたり、受け入れたりする選択ができるような年齢だ。
内在的な自己を、もう一人の他者として認識できる下限の年齢であるということだ。

このように説明すると、この映画の魅力も説明できるのではないだろうか。
トトロがいる森は、自然が破壊されてしまった現代における憧憬としてではなく、子どもから大人になり、過ぎ去ってしまった心象が、そこに描かれているから、僕たちの心をずっと惹き付け続けるのだ。

幼い頃、誰もがトトロを見出している。
だが、それはすでに過ぎ去ってしまったものであるから、映画の中の風景のように、あまりにまぶしく、そして綺麗に映るのだ。
もちろん、昭和30年代のあの風景が、またその懐かしさと淋しさを、引き立てることは間違いない。
しかし、トトロが本当にいなくなった理由は、「時代」にはない。
昭和30年が、すべての観客が「懐かしい」と思える時代設定ではないはずだ。
その理由は、僕たちが大人になってしまったからなのだ。
だから、大人である、ある時期を過ぎ去ってしまった人の心を、こんなにもとらえて離さないのだ。


(2005/6/5執筆)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 世界の中心で、愛を叫ぶ(V) | トップ | ウォッチメン »

コメントを投稿

映画(た)」カテゴリの最新記事