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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

世界の中心で、愛を叫ぶ(V)

2009-04-02 21:29:46 | 映画(さ)
評価点:42点/2004年/日本

監督:行定勲

そんなオチ要らんねん。

すっかり大人になり、結婚を間近に控えた朔太郎(大沢たかお)は、結婚相手がなぜか自分の故郷にいることを知って、急遽帰郷する。
そこで、忘れていた高校の頃の思い出がよみがえってくる。
それは、高校のある日、校長先生の御葬式の日から始まる。
遅れてきた朔太郎は、アキ(長澤まさみ)が弔辞を読んでいるところをみる。
真摯な態度のアキを見た朔太郎と、アキは次第に惹かれあう。
カセットテープを通じたやりとりで、朔太郎はアキに告白する。
しかし、彼らの恋は、思わぬ方向に向かっていく。

「セカチュー」といえば、誰でもわかるだろう。
なんでも略したがる東京人の感覚は理解できないが、ともかく「純愛」というテーマで流行ったラブストーリーの映画化作品である。

不本意ながら、僕も原作を読み、連続ドラマも少しだけ見た。
その完結として、映画を観たわけだ。
原作を読んだときも思ったが、やはりまだ解せない。
「なぜこんなに流行したのだろうか」
こんなもの、純愛でもなんでもない気がするのは、僕が歳をとってしまったからなのか。

いや、やはりそれだけではあるまい。
 
▼以下はネタバレあり▼

原作の映画化。
そのため原作との共通点が数多く見受けられる。
原作にも言及したい点があるので、それを明らかにしながら、話を進めていこう。

ストーリーの要綱はほとんど同じだ。
違う部分が、映画化に伴って付け加えられた部分だが、それは後で話すことにしよう。

この映画は、かなり原作に忠実だと言えるだろう。
それはストーリーばかりではない。
文体が醸し出す雰囲気を、見事に捉えた「色」と「リズム」を持っている。
非常にきれいで、透明感ある映像は、原作の文体から発するイメージに、驚くほど重なる。
だが、僕はこの透明感ある美しい映像こそ、この話の限界性であり、自己完結性(=「世界の中心」)を象徴しているように思う。

ずばり言えば、「世界の中心」というタイトルが示しているのは、朔太郎の自己完結性である。
この世界は、高校生の朔太郎が見える範囲でしかないのだ。
日本の地方の高校生である朔太郎が「世界の中心で、愛を叫」べる理由はここにある。
朔太郎は、自己だけで完結してしまっている。
要するに、世界には自分しかおらず、他者がいないのだ。
自分と、自分と非常に近い人間しかいない世界。

彼は、過去に終わってしまった恋をただセンチメンタルに思い出しているだけだ。
彼とアキとの物語は、彼にとっての物語にすぎず、そこに誰も介入する余地はない。
彼だけの世界、彼自身が美化してしまえる一人だけの世界だ。
だから彼が思い出す出来事はすべて美しい。
原作でも、映画でも、見事にその脆弱で美しい「only」の世界を、再現している。

それを純真とか、純愛とか呼ぶなら、そうだろう。
だが、そんな脆弱な世界で、葛藤など起こりようもないし、感動など生まれるはずもない。
彼は、自分の昔を振り返り、「あのころは良かった」と懐古しているだけだ。
それがどんなつらい思い出であろうと、すばらしい日々であろうと、次の一歩がなければ、全く迫ってこない。
なぜなら、そんな「物語」は多かれ少なかれ誰にでもあることだし、所詮は過去なのだ。
そこからどういう一歩を踏み出すのか、これしか本として、映画として、テーマにはなり得ない。

僕は、映画に求めていたのは、この一点だ。
現在の朔太郎(大沢たかお)がどのようにして、今を発見するか。
超美麗な過去の思い出と出会うことをきっかけにしても、今どうその過去と向き合い、その過去を克服するか、という点だけを僕は着目していた。
なぜなら、原作にはその点が全く欠如していて、単なる「卒業アルバムをみて青春の思い出に浸る男」しか描かれていなかったからだ。

映画のほうは、期待通りなのか、その現在が描かれていた。
大沢たかおが、故郷に戻り、そこで発見したテープを元に、過去にあった出来事を、想起して、再会する物語になっている。
テープを元にしたものだから、当然、テープにまつわるエピソードが増え、極度に純化されたいい思い出だけが想起されるような仕組みが設定されることになった。

過去は淡々と、ゆっくりしたテンポで展開される。
現在は、失ってしまった悲しみと再会することで揺れ動く心理を、比較的早いテンポで展開される。
この映画で「泣く」余地が残されているとすれば、大沢たかおの、迫真の演技による「現在」の朔太郎のシーンだけだろう。
過去の出来事は、あまりにテンポが遅く、起伏なく、抑揚なく、緩急なく続くため、感動どころか話についていくだけでやっとになってしまう。
あくびで涙が出るのも無理はない。

だが、ラストに向かうにつれて、大根役者(もはや役者としても認めたくない)の柴咲コウが、実は物語のキーポイントであることが明かされ始める。
過去がすべて明かされると、衝撃のオチもまた明かされるのだ。

「朔太郎は、小学生(当時)と結婚しようとしている!!」

柴咲は、朔太郎が高校の頃の恋人アキが亡くなった時、
同じ病院に見舞いに来ていた小学生だったのだ。
柴咲が、足を引きずっていたのは、アキの最後の手紙を渡す途中に、交通事故に遭ったときのものだったのだ。
朔太郎は成長して、年齢差もあまり感じられなくなったとはいえ、朔太郎が当時の小学生と付き合って、結婚しようとしていたことを知らされると、彼のロリコンぶりが露呈されて、一気に興ざめしてしまう。
小学生と結婚(恋愛の対象)しようとしていたことが、とても気持悪く、不自然に思えてしまう。

それまでスローテンポで過去の回想が挿入されていたぶん、いきなりそのような衝撃的なオチが発表されるとは、誰が予想しただろう。
「アンブレイカブル」でのオチよりも、もっとびっくりさせられた。
純愛、純愛と謳われながら、物語を無理やりに盛り上げようとしたとしか考えられないオチが待っているとは。
もう、「トホホ」としか言いようがない。
だれが小学生と結婚させてほしいと言ったのだ。
新たな出発が、小学生との結婚だなんて、純愛どころか、気持悪さしか伝わってこない。
ラブストーリーにこんなオチは全く必要がない。

映画のセオリーを無視した映画が、あんなに売れたのは、どうしてだろう。

また、やはりこの映画版でも、白血病の扱いが不透明で、配慮に欠けると思う。
どうしても必然性を感じられない。
少し前まで、文学では肺結核が一つのテーマでさえあった。
肺結核という単語が出てくるだけで、「泣けた」のだ。
それと同じような効果が、この映画の「白血病」という単語に感じられる。
アキを殺すため、もっと正確に言えば、アキをゆっくり殺すために、何の必然性もなく白血病にしたように感じてしまう。
確かに、ガンや白血病は大変重い病気であることが、市民権を得てしまっている。
けれど、だからといって、このような安易なやりかたで利用してしまっていいものか。

いうまでもなく、ガンや白血病がテーマそのものであれば、全く問題ないと思う。
マンガの「ブラックジャックによろしく」は、雑誌「モーニング」を立ち読みしながら泣きそうになったくらいだ。
だが、この「世界の中心で~」は、明らかに「アキを殺すためだけ」の手段として「白血病を用いている」。
このやり方は果たしていいのだろうか。

恐らく、映画や原作の出来がすばらしく良いと感じられれば、そんな疑問もうまれなかったのだろう。
しかし、いかんせん、感動を呼ぶための誘発剤のような位置付けでしかない、この使い方はは、あまりに配慮が欠けたものだと思う。

作品の中で朔太郎がラジオに「彼女が白血病になってしまった」と、投稿するシーンで、翌日アキが、「そんなこと書くのはいけないことだ」とたしなめる。
僕にはそういうシーンをあざとく書いてしまう原作者の態度が、安易だと思えるのだ。

最後に一点。
柴咲コウなる大根についてである。
彼女がスクリーンに登場した瞬間から僕は違和感を持ち、物語が進むにつれて怒りさえもつようになった。
大沢たかおが鬼気迫る演技を見せているにもかかわらず、このアンポンタンは、台詞もまともに読めない。
挙句の果てに、物語で最も重要で、観客を泣かせるか泣かせないかというキーマンになっている役どころでありながら、
まったくその使命を全うしていないようなラスト。

「スパイダーマン2」では、ヒロインにキックをかましたくなったが、柴咲には、「20tハンマー」で頭をカチ割りたくなった。
余りに酷い。
映画そのものが、すばらしいと言えるには程遠いから、目立たないのだろうが、もし出来がいい映画だったとしたら、ゴルゴにスナイパー・ライフルで撃たれるかもしれない。

いずれにしても、こんなクソ映画がヒットするとは、日本も真剣にメディア・リテラシーの教育を推進していく必要があるのではないか。
映像や画像、音声に対して何の教育も組まれていないのは、先進諸国では日本くらいだそうだ。

(2005/5/29執筆)

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