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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

宣戦布告(V)

2010-05-25 21:50:59 | 映画(さ)
評価点:78点/2002年/日本

原作:麻生幾
監督・制作・脚本:石侍露堂

これほど命の重みを感じた邦画はない。

200X年、敦賀半島に国籍不明の潜水艦が不時着されたのが見つかった。
中を捜索すると、数名の乗組員の遺体が発見された。
武器もあり、何名かの兵士が日本に潜伏した可能性がある。
諸橋(古谷一行)内閣は、自衛隊ではなく、警察による捜索を決定するが、SATのメンバーがその兵士に殺されてしまう。

日本はいま普天間基地の移設問題で紛糾しているが、この映画を観るとさらに考えさせられるだろう。
日本ではほとんど話題にならかったので、僕は全く知らなかったが、監督はこの映画を完成させるために苦心したらしい。
それもそのはずで、日本政府や自衛隊を鋭く描いた内容で、タイトルからは想像できないほどリアルだ。

今回は、職場の先輩に借りて観た。
あまり期待していなかったので、余計におもしろいと感じた。

沖縄に基地はいらない、日本に米軍はいらないと豪語する人々にこそ観てもらいたい。
一つの議論の契機にはなるだろう。

▼以下はネタバレあり▼

僕はタカ派ではない。
僕はハト派でもない。
僕は右でもなければ、左でもない。
ここで書く内容は、僕の政治的な立場を抜きには語ることができないため、そういう「火種」ができるのは仕方がないと考えている。
けれども、僕の意図はあくまでこの映画の批評だ。
このブログを政治の議論の場にする気はない。

なぜなら、僕は政治について人並み以上の知識を持ち合わせているわけでないからだ。
もちろん、一人の国民として、政治に興味がないとは言う気はない。
知るべきだし、語るべきだと思う。
けれども、ここはその場ではない。
そのことを念頭において下を読み進めてほしい。

本当にほとんど期待していなかったからか、非常におもしろく思えた。
また、最近「希望の国」という小林よしのりの対談集を読んだところだったので、余計にそう思えたのかも知れない。
(おっと、だからと言って、よしりんに傾倒する気はないけれども)

この映画の展開は、実際に起こりうるかどうかは別にして、非常にリアリティがある。
リアリティがあることと、実際に起こりうるかは別問題だ。
少なくとも「亡国のイージス」なんかよりも、数倍リアルだ。

この映画は政治家たちのやりとりと、自衛隊が敵とどのように対峙するかという二点が大きな軸になっている。
自衛隊と北東共和国(勿論北朝鮮をモデルとしていることは誰でもわかることだが。)の兵士とのやりとりはどちらかというと、演出の色が濃い。
それはこの映画が立っているスタンスが、そのように描きたかったからだろう。
だから自衛隊の武器の描写や作戦が甘いとか、そんなに自衛隊はもろくないとかいう議論は的外れだろう。
自衛隊が丸裸にされるほど、日本では自衛隊の権限がないことを強調するための演出に過ぎない。
ゴジラでも慢性的に登場する世界であれば別だが、日本では、確かに発砲もままならないだろう。
自衛隊が次々に死んでいき、その別れがやたらとセンチメンタルなのも、その演出の一つだ。
だからあえてそこを野次ることはしない。

先に自衛隊に触れてしまったので、先にそちらを続けよう。
彼らは命を張れと政府から指示されるが、彼らに与えられた武器は全て許可を得てからでないと使用できない。
さらに、この映画の状況であれば、兵士がどういう目的で潜伏しているかもわからないため、先制攻撃はできない。
もっと言えば、交渉の場に至ることを先に求められ、発砲されても、相手のその発砲理由が明確な敵意がなければ、反撃さえできないだろう。
犯罪者の車のタイヤを撃っただけで、警察が記者会見を開く国である。
敵意を持った国かどうかを判断できなければ、国際問題に発展するとして、きっとこの映画の状況になるだろう。

だが、彼らは異常なほど自分たちの立場を言葉にする。
それは確かに異常だが、きっと心の叫びだろう。
命を張れと言われても、反撃一つできない。
挙げ句の果てに、国際問題になるから撤退しろという命令まで来る。
最前線で戦っている姿をモニターで見る政治家と、殺されそうになっている自衛隊との対比が著しい。
ゲームを観ているかのようなのんきな態度には腹立たしいが、しかし、それは本当だろうと感じる。

その意味で、この映画に登場する「死」は、どれも重たい。
あっけなく死ぬという意味ではない。
死が死としてしっかりと命の重みを伝えている。
勿論、敵側の北東軍も同じだ。
捕虜になるよりは死を選ぶ、という覚悟を見せる兵士たちには、敵味方関係なく兵士への敬意が込められている。
「ホワイトアウト」なんていうしょうもないアクション映画や、「踊る」シリーズを初めとする人の血を涙に変換するような物語が多い中で、この映画は死のなんたるやを正しく伝えている。
僕たちは誰に命を預け、誰の命を守ろうとするのか。
もし、自分の街に敵意を持った兵士が乗り込んできたら、逃げる以外にどんな選択肢がとれるだろうか。
それを考えさせるには十分な映画だった気がする。

政治家たちの動きも、リアリティ溢れている。
諸橋総理は、当初、多くの他の大臣と同じように、事態を軽く見ている。
なぜだろう。
彼自身に危機管理意識が低かったといえばそれまでだが、どんな日本の総理大臣でも同じようになっただろう。
なぜなら、阿部謹也が言うように、日本人には強力な〈個人〉がいるのではなく、ただ〈世間〉があるだけだからだ。
つまり、〈人間〉が意志決定するのではなく、場の〈空気〉が意志決定していくからだ。
死者が出ないうちには、その〈空気〉は危機がない。
だから、野党の批判や支持率の低下だけが彼らの基準となる。
だが、民間人まで死者が及ぶと、今度は〈空気〉が変わる。
諸橋が自衛隊を出動させるという決断を下したのは、彼の意志が固まったからではない。
周りの〈空気〉が彼に決断させただけだ。
だから、異議のある者、といわれても誰も反論できなかったのだ。

そのプロセスが非常に巧みだ。
リアリティがあるのはそのためだ。

そして、国のことを必死で考えているのが、実は在日韓国人二世だったということも、おもしろい。
韓国や北朝鮮への配慮だったのかも知れないが、それはリアルだ。
日本人よりも、より日本の国や国民と言うことを考えているのは、日本国籍を持っている日本人ではないだろう。
アプリオリに日本国籍を持っている人間よりも、アポステリオリに国籍を獲得した人間のほうが、国への期待や責任感が大きい。
皮肉のようだが、それは確かだろう。
慢心した同じ秘書官が、女遊びの果てに情報を漏洩していたことも、また、リアルだ。

この映画では、結局腹をくくった政治家たちが、危険なリスクを冒して事態を打開する。
だが、実際に起こったらどうなるだろか。
大切なのは、そのイマジネーションだ。
それは、〈世間〉という〈他者〉が強力なご意見番である日本では、国民が考えなければならない。
国民の考えがメディアを動かし、メディアが政治家を動かす。
その病理的な日本人のあり方を批判することなく、実際的な危機に対応するためには、その視点が不可欠だ。

そこにタカ派もハト派も、右も左もない。
今ここにある危機にどう対応するのか、という「パンチの早さ」、レスポンスの早さは、立場や思想を越える。
気の優しい人だから人に殴られたら殴られたままになるわけではないだろう。
殴ること、殴られることを前提に人間関係を組むことはできないにしても、いざとなったらどうするか、という議論はやはり必要な気がする。

この映画のラストでは、合同慰霊祭が開かれた会場から秘書官らが出てくる。
この慰霊祭は明らかに靖国神社である。
靖国にこの事件の犠牲者を祀ろうとしたことが、この映画の投げかける問題の大きさを示唆している。

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