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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ゼア・ウィル・ビー・ブラッド(V)

2010-01-10 09:16:45 | 映画(さ)
評価点:87点/2007年/アメリカ

監督・脚本:ポール・トーマス・アンダーソン

アメリカの歴史が知りたい? ならこの映画を見なさい。

1900年初頭、アメリカの西部で金を掘り小銭を稼いでいたダニエル・プレインヴュー(ダニエル・デイ=ルイス)は、あるとき自分の掘っていたトンネルから石油を発見する。
数年後、自らを石油屋と名乗るほど事業を拡大していたダニエルの元へ、石油が出るかもしれない、という情報が寄せられる。
半信半疑だった彼は、息子とともに現地を訪れると、そこには地震でむき出しになった石油があった。
石油が出るともくろんだダニエルは、すぐさま一帯の土地を買いあさり、事業を始めたが…。

英国映画誌で2000年代再考の映画として選ばれたのがこの「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」である。
最近その記事が載っていたので、年始に見ることにした。
ほかのノミネート作品は「マルホランド・ドライブ」、「エターナル・サンシャイン」や「メメント」「ノーカントリー」などだったらしい。
その4作品を見る限り、映画好きが好きな映画、という印象だ。
この作品も、ますます外国語字幕映画が減るような日本の一般受けはしないだろう。
オスカーにもノミネートされ、また受賞した作品だが、日本の公開はごく一部だった。
僕はタイトルだけは知っていたが、石油王についての話、という程度で、ほとんど予備知識なしで見た。

やはり一般受けはしない。
しかし、すごく良い映画だ。
僕にとってのこの十年最高の作品かどうかはわからないが、確かにおもしろい作品だとは思う。
ノミネートされた残りの作品が好きならば、チェックする価値はあるだろう。

▼以下はネタバレあり▼

予備知識なしで見たこともあり、物語がどういう方向へ転がろうとしているのか途中までは全く見えなかった。
いや、エンドロールまで見えなかったといってもいいだろう。
それくらい物語の核心部分は隠されて展開する。

よく言われるが、小説は本当に言いたいことを隠しながら語るものだということばを、そのまま映画にも適応したくなるような映画だ。
その意味では「ノーカントリー」によく似た雰囲気がある。
表層の物語を追うだけではこの映画は単なる成功譚に過ぎない。
だが、深層に流れている物語、あらゆる人物や出来事が象徴性を持ち合わせていることに気づけば、この映画は俄然おもしろくなる。
この映画のテーマは、「石油におけるアメリカの歴史」である。

まず象徴的なのは、ダニエルという男が、金を掘っているということだ。
足を痛めて手にする324ドルという小金のために、一生を捧げるような凡庸な人物だった。
これは、ゴールドラッシュにわくかつてのアメリカを象徴している。
何もない土地に唯一の価値を、金に求めていた時代である。
時代設定は違うが、その後石油を発見するという流れは、アメリカの歴史が金から石油へとその経済基盤が変化していくことを象徴する。

石油を発見する男は、一人息子しかいないという天涯孤独の人物である。
街の住人たちを家族だ、と言って聞かせる男には、そのことばとは真逆に家族らしい人物はいない。
女性一人だって娶ろうとはしない。
彼には仕事上のつきあい以外に、人生を豊かにするための個人的な家族はいない。
ダニエル自身は、それでもかまわないと思っているが、しきりに息子や後に登場する弟を取引現場に連れて行くことで、決定的な孤独を感じていることは言うまでもない。

この映画のもう人のテーマは、この男の孤独である。
一人息子も、実は捨て子だった、とラストで息子に言い放つ。
これが事実だったかどうかは、劇中からは判断できない。
だが、事実かどうかが問題なのではなく、別れ際にそれを言い放つことそのものが、問題なのである。
事実はどうあれ、彼は息子HWを、息子としては扱わなかったということだ。

また、弟と名乗るハリーも、実はダニエルに取り入りたかったという打算の関係だった。
彼の血族は、ことごとく仕事の「パートナー」であり、個人的な「ファミリー」になることはない。
彼自身もまた、家族を個人的なつながりではなく、仕事をともにするものたちと考えていた。
息子のHWにしても、交渉を有利に進めるための手段であったことは間違いない。
一人ではできない、といって聴力を失った息子を捨て、弟をパートナーにすげ替える。
彼にとっては家族は仕事仲間と同義なのだ。
そして、その「家族」=弟が実は偽りであったことに気づき、殺人を犯す。
もはや彼には石油という黒い血でつながりあう人間しかいなくなってしまう。

だが、パイプラインを引くため、教会で洗礼を受ける際に彼は涙ながらに告白する。
「私は息子を見捨てたのだ!」
あの涙は本当だろう。
それは、家族を捨てたというような一般人の涙ではなく、自分はどこまでも家族を持つことができない孤独な人間なのだということを、傷口に塩を塗りたくるがごとく、突きつけられたのだ。
そこには一人の男の性(さが)が描かれている。

息子との決別は、ダニエルにとって、人間はパートナーか商売敵しかいないことを端的に表すシークエンスになっている。
彼は決定的に孤独だった。
たとえ、どれだけビジネスの才覚があったとしてもだ。

彼の人物像は、ダニエル・プレインヴューという個人だけではなく、それがアメリカそのものである。
それが、金から石油という流れであり、牧師との関係である。
キリスト教徒でなければ、牧師のイーライ・サンダー(ポール・ダノ)の言動はいささか奇妙に映る。
僕はキリスト教徒ではないので、こういう書き方をしてしまうが、彼の言動はキリスト教徒であってもおそらく奇異に映るだろう。
なぜなら、そのように映画いているからだ。
荒れ果てた牧草地帯に、ぽつんと建った教会に集まる人々は、それ以外につながりが示されないから余計に、奇異に映る。
腰が痛いからといって、悪魔のせいにしてしまうイーライはやはり共感しがたい。
なぜそのように描いたのかといえば、それは近代のアメリカにおいて、宗教はもはや信仰の対象ではなくなっていたからだ。
だから、近代合理主義の先端を走る石油屋のダニエルにとっては、全く理不尽な儀式に思えて仕方がないのだ。

おもしろいのはラストのイーライである。
彼は街を出て布教活動するという名目で、株に手を出してしまう。
それは宗教が資本主義に組み込まれてしまったことを象徴し、そしてそれが「失敗」だったことを象徴する。
世界恐慌に襲われた資本主義は、当然宗教までも飲み込んでしまう。
石油屋に権利を主張し、懇願するキリスト教徒(もはや本来的な意味でのキリスト教徒とは言えないが)は、殺されてしまう。
石油屋=アメリカは、宗教さえも殺してしまうのである。

大きな屋敷に一人住み続ける男は、執事に告げる。
「すべて終わった。」
それは彼の人生が終わったことを示しているのではない。
むしろ、石油と欲望しかない彼の王国がうやっと立ち上がったのだ。
それはもちろん、アメリカの帝国主義ができあがった瞬間だ。
アメリカはこの後、戦勝国となり、世界をリードし続けることになる。
だが、彼には一人で住むには大きすぎる屋敷と、石油という黒い血しかない。
〈他者〉などいないし、つながりはパートナーかもしくは商売敵だけだ。
孤独な男は、孤独な国を象徴している。

ただ、彼にには商売の才覚と、築き上げた権力だけは、あるのだ。

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