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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

夏目漱石「それから」

2019-07-23 19:45:09 | 読書のススメ
三四郎」に続く、三部作の二作目。

こちらも新聞に連載されていた作品だ。
今更何を、というところかもしれないが、読んでいなかったので、読んだ。

東京の大学に通っていた代助は、帰郷したが定職にも就かずにぶらぶらしていた。
父は名家だったので、毎月父親から援助してもらっていた。
いいかげん三十歳になったのだからと、縁談をもちかけられては断ってきた。
彼の頭の中には、ふつふつと三千代という親友の細君がよぎってくる。
三千代は親友の平岡と結婚し、その仲を取り持ってやったのが代助だった。
だが、平岡は仕事で失敗し、同じように帰郷していた。
三千代は心労もあり身体を壊し、代助から見れば不幸な女性のように映っていた。
代助の兄や、兄嫁から結婚するように促されるが……。

「三四郎」は大学生を主人公(視点人物)として描かれているが、そのあと故郷に帰ったあとの男が主人公である。
その意味で、本当に「三四郎」の「それから」を描いている。
それぞれもちろん連続性はないが、連続した一つの物語のように読みたくなるのも無理はない。
また「こころ」も知っている私としては、「こころ」が(隠された)三角関係を描いた作品だと読みたくなるのも無理はない。

▼以下はネタバレあり▼

「三四郎」が非常に巧みにプロットが隠されていたのに対して、こちらはわかりやすい三角関係だ。
ことさら「三四郎」が愚直な男として描かれていたのに対して、三千代がことさらかわいそうな女性として描かれる。
石原千秋が指摘するように「誘う三千代」としての物語は十分に読めるだろう。

果たして代助は能動的に彼女を自分の妻として迎えたいと思っていたのか。
それとも、三千代に誘われるがまま、知らぬ間に受動的な恋に陥っていたのか。
往々にして男女の関係というものは、共犯関係であるものだろう。
男尊女卑どころか、女性の可能性さえ「書く」対象にならなかかった明治時代において、この関係性は新しい。

代助と、平岡、そして三千代の三人が次第に接近しそして感情の交換をしていく様子は、真綿でしめられていくような苦しさがある。
これを読んでいた読者はまるで人気マンガを読んでいる私たちのように心待ちにしていたのだろうか。
代助が、実際に三千代に接近していくのは物語の後半だ。
私たちは読んでいなくとも、そのあらかたの筋を知っていることが多いので、当時の連載を読んでいた人たちとは同じ形でテクスト(言語的表象空間)を構築することはできない。
次第に水が低きに流れるように、運命的な結論を代助は選択する。

それは、平岡という友人からその妻を奪う、というものだった。
平岡は職を変わり大きく生活様式を変えようとしていた。
三千代はその平岡から半ば蔑ろにされていたと言っていい。
一方で名家に育った代助は、それだけの男であり、社会的な地位を何ら得ていない。
代助から見れば、何も生み出さないどころか汚点にしか成らない三千代との恋よりも、父親がもってくる縁談に飛びつく方がよほど「利益」があるように見える。
だが、損得勘定と恋愛という究極のディレンマを抱えた中、彼は恋愛を選ぶ。

常識や世間と言った桎梏を今でも取り払うのが難しいのに、ましてやまだまだ近代的な精神やしきたりが根付いていなかったころの代助の選択はいかなるものだったのか。
社会的な禁忌を犯すというエロスは、どんな時代でも魅力的なものなのだろう。

彼が実際に新しい職を探すことができたのか、これもまた読者に全く明かされずに結末を迎えるというなんとも読者泣かせの終幕に、胸をかきむしられずにはいられない。


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