評価点:73点/1980年/イギリス・アメリカ
監督:デヴィッド・リンチ
彼は〈人間〉になれたのだろうか。
19世紀、ロンドンの興行師バイツ(フレディ・ジョーンズ)が見せ物小屋で見せていたのは、「エレファント・マン」と呼ばれる謎の男だった。
その噂を聞きつけた医師トリーブス(アンソニー・ホプキンス)は、バイツと契約し、研究しようとする。
ジョン・メリックという名をもつその男は、生まれつきの奇形だった。
デヴィッド・リンチの初期作品で、実話を元にした作品である。
かなり有名なので、見たことがある人も多いだろう。
僕はリンチ作品をそれほど見ていないので、良い機会なので見ることにした。
心斎橋でリンチの展覧会が開かれている。
できれば見にいこうと思うのだが、その予習もかねて、というところだ。
リンチにしてはオーソドックスな分かりやすい話だ。
まだ見ていない人は、見ていてもいいだろう。
モノクロ映画なので、ちょっと抵抗感はあるものの、テーマは今でも十分おもしろい。
▼以下はネタバレあり▼
リンチは僕の最も苦手な監督であり、最も不安にさせる監督である。
常識的な発想を裏切り続け、かつ、その中でも独りよがりの作品ではなく、おもしろい作品を撮る。
そんなまさに「奇才」の初期作品だ。
ずいぶん古い作品だが、小さいレンタルショップにも置かれているくらい、有名な作品でもある。
話は実話で、それほど難解なものではない。
ただ、ウィキで調べる限り、完全に史実に基づいて構成されているわけではないようだ。
特に興行師バイツの扱いは完全に悪として描かれている劇中に対して、史実ではサーカス時代にヨーロッパを回って結構な額を儲けるような、そんな生活だったようだ。
それはともかく、そのあたりにリンチとしての手腕や考えが反映されていると言えるだろう。
結末から考えて、「メリックが人間になろうとしてなりそこなった物語」くらいにまとめられるだろう。
ジョンは、人間的な生活が送れることに満足して、他の人間と同じように横たわって眠りたいと考える。
そこで、実際に横たわってみると、そのまま窒息死してしまう。
具体的な死を予感させる描写はないが、史実から言えば、死んでいると考えるべきだろう。
ジョン・メリックはそれまでずっと人間的扱いをされてこなかった。
興行師にはその外形から「エレファント・マン」と名付けられ、21歳になるまで会話さえ怖くてできなかった。
食事もまともなものを口にさせてもらえず、それでいて聖書をそらんずるという知性を持ちあせていた。
彼の悲しみはそこにある。
彼は豊かな知性をもっていた。
それがゆえに、自分の不遇の運命に翻弄され続けてきたのだ。
もし、自分を本当にエレファント・マン程度にしか認識できなかったとしたら、彼はそれほど悩まなかっただろう。
だが、彼は知性を持っていたのだ。
トリーブスに出会ってからは、劇的に彼の扱いが変化する。
自分の部屋をあてがわれ、女優に劇場まで招待されるほどになる。
だが、彼は主治医にこう話す。
「治すことはできないのですか?」
彼はどこまでも「普通の人」になりたがった。
自分の内面が、他の人間と同様であることに気づけば気づくほど、彼の「人間になりたい」という欲求は高まっていく。
その極みが、駅で逃げ込んだトイレで叫ぶ言葉に象徴される。
「僕は人間なんだ! こんな姿でも人間なんだよ!」
ラストで彼は「人間のように」横たわることを夢見て、そして死んでいく。
彼は人間になりたかったのだ。
そこには計り知れない悲しみがある。
だが、本当の悲しみは、彼自身で一つ気づかなかった点があることだ。
それは、彼は紛れもなく人間だったということだ。
彼は人間になりたがった。
人間でない容姿をもつ自分を呪っていた。
だが、彼は人間としての人生を経験している。
それは、周りの人間によって自分の価値が決定されるという人間の性(さが)を知ったことだ。
彼は興行師の前では、単なる商売道具だった。
だが、医者の前では研究対象となった。
貴族たちの前では、それは社会貢献の道具となった。
一般人の中では、恐ろしいモンスターだった。
女優の前では、美しい心を持つ「ロミオ」だった。
それは人間そのものに他ならない。
人間は多元的な自己を抱え込みながら生きている。
「普通の人間」だって、両手で支えきれないほどの問題を抱えて生まれてきて、そして死んでいく。
不条理な運命に出会うのは、誰もが同じ事だ。
医者も彼を見ながら真剣に悩む。
「俺は彼を金儲けの道具にしているのか。あの興行師と変わらないのか」
人間かどうかは、容姿で決まるのではない。
そのことに、彼は最後まで気づけなかった。
それこそが、この物語の最大の悲しみではないだろうか。
彼が「普通」と思っていた人間たちに、彼はいじめられつづけたのだ。
そして、その「誤謬」もまた、人間の証拠だ。
監督:デヴィッド・リンチ
彼は〈人間〉になれたのだろうか。
19世紀、ロンドンの興行師バイツ(フレディ・ジョーンズ)が見せ物小屋で見せていたのは、「エレファント・マン」と呼ばれる謎の男だった。
その噂を聞きつけた医師トリーブス(アンソニー・ホプキンス)は、バイツと契約し、研究しようとする。
ジョン・メリックという名をもつその男は、生まれつきの奇形だった。
デヴィッド・リンチの初期作品で、実話を元にした作品である。
かなり有名なので、見たことがある人も多いだろう。
僕はリンチ作品をそれほど見ていないので、良い機会なので見ることにした。
心斎橋でリンチの展覧会が開かれている。
できれば見にいこうと思うのだが、その予習もかねて、というところだ。
リンチにしてはオーソドックスな分かりやすい話だ。
まだ見ていない人は、見ていてもいいだろう。
モノクロ映画なので、ちょっと抵抗感はあるものの、テーマは今でも十分おもしろい。
▼以下はネタバレあり▼
リンチは僕の最も苦手な監督であり、最も不安にさせる監督である。
常識的な発想を裏切り続け、かつ、その中でも独りよがりの作品ではなく、おもしろい作品を撮る。
そんなまさに「奇才」の初期作品だ。
ずいぶん古い作品だが、小さいレンタルショップにも置かれているくらい、有名な作品でもある。
話は実話で、それほど難解なものではない。
ただ、ウィキで調べる限り、完全に史実に基づいて構成されているわけではないようだ。
特に興行師バイツの扱いは完全に悪として描かれている劇中に対して、史実ではサーカス時代にヨーロッパを回って結構な額を儲けるような、そんな生活だったようだ。
それはともかく、そのあたりにリンチとしての手腕や考えが反映されていると言えるだろう。
結末から考えて、「メリックが人間になろうとしてなりそこなった物語」くらいにまとめられるだろう。
ジョンは、人間的な生活が送れることに満足して、他の人間と同じように横たわって眠りたいと考える。
そこで、実際に横たわってみると、そのまま窒息死してしまう。
具体的な死を予感させる描写はないが、史実から言えば、死んでいると考えるべきだろう。
ジョン・メリックはそれまでずっと人間的扱いをされてこなかった。
興行師にはその外形から「エレファント・マン」と名付けられ、21歳になるまで会話さえ怖くてできなかった。
食事もまともなものを口にさせてもらえず、それでいて聖書をそらんずるという知性を持ちあせていた。
彼の悲しみはそこにある。
彼は豊かな知性をもっていた。
それがゆえに、自分の不遇の運命に翻弄され続けてきたのだ。
もし、自分を本当にエレファント・マン程度にしか認識できなかったとしたら、彼はそれほど悩まなかっただろう。
だが、彼は知性を持っていたのだ。
トリーブスに出会ってからは、劇的に彼の扱いが変化する。
自分の部屋をあてがわれ、女優に劇場まで招待されるほどになる。
だが、彼は主治医にこう話す。
「治すことはできないのですか?」
彼はどこまでも「普通の人」になりたがった。
自分の内面が、他の人間と同様であることに気づけば気づくほど、彼の「人間になりたい」という欲求は高まっていく。
その極みが、駅で逃げ込んだトイレで叫ぶ言葉に象徴される。
「僕は人間なんだ! こんな姿でも人間なんだよ!」
ラストで彼は「人間のように」横たわることを夢見て、そして死んでいく。
彼は人間になりたかったのだ。
そこには計り知れない悲しみがある。
だが、本当の悲しみは、彼自身で一つ気づかなかった点があることだ。
それは、彼は紛れもなく人間だったということだ。
彼は人間になりたがった。
人間でない容姿をもつ自分を呪っていた。
だが、彼は人間としての人生を経験している。
それは、周りの人間によって自分の価値が決定されるという人間の性(さが)を知ったことだ。
彼は興行師の前では、単なる商売道具だった。
だが、医者の前では研究対象となった。
貴族たちの前では、それは社会貢献の道具となった。
一般人の中では、恐ろしいモンスターだった。
女優の前では、美しい心を持つ「ロミオ」だった。
それは人間そのものに他ならない。
人間は多元的な自己を抱え込みながら生きている。
「普通の人間」だって、両手で支えきれないほどの問題を抱えて生まれてきて、そして死んでいく。
不条理な運命に出会うのは、誰もが同じ事だ。
医者も彼を見ながら真剣に悩む。
「俺は彼を金儲けの道具にしているのか。あの興行師と変わらないのか」
人間かどうかは、容姿で決まるのではない。
そのことに、彼は最後まで気づけなかった。
それこそが、この物語の最大の悲しみではないだろうか。
彼が「普通」と思っていた人間たちに、彼はいじめられつづけたのだ。
そして、その「誤謬」もまた、人間の証拠だ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます