※ ここでいう人間とは、本来的な社会的な存在としての「じんかん」という意味ではない。
また、武士や農民、職人、商人という個々の身分に分化されていた近代以前の人々を、抽象的な人を作りだすという意味においての「人間」という意味でもない。
ここでいう人間とは、人類という言葉に近い、生命体としての、人間である。
さて、今朝通勤途中で女子高校生をみた。
彼女は生命体としての原始的魅力をふんだんに発揮したコスチュームに身を包んでいた。
要するに、すんごくスカートが短かった。
見方を変えれば、彼女はほとんど裸だった。
見つけてすぐに目を背けてため息をつきながらも、ある意味で最も人間らしい姿なのかも知れない、と考え直した。
考えてみれば、人間の歴史は、生命体としての人間の進化というよりは、人間の潜在的な力を外に出していく物語である。
人間の物理的な腕の力をスコップに変えて外に出した。
そうすることで、人間が負うべき物理的な労力を負わなくてすむようになった。
今ではトンネルを掘るのに、大部分は人間の物理的な力を要することなく、機械で行うことができるという。
穴を掘りながら、同時に外壁を築き、その舗装や補強を行うことができる。
大勢の人間が内側に持っていた力を、外に出していくことで、可能になったことだ。
屈強な肉体は、今ではそれほど必要ではなくなった。
勿論、不要とまでは言えないが、それでもかつてに比べて格段に不要になったといえるだろう。
少し前、電車の宙吊り広告に「外脳」という言葉が掲げられていた。
パソコンだったか、スマートフォンだったかについて書かれてあった雑誌の広告だった。
すごくおもしろい表現だと思ったし、それは本当に的を射ていると感じた。
スマートフォンはまさに、今まで人間が脳内で行っていたことを、外に出してしまったのだ。
スケジュール管理にしても、アラーム機能にしても、連絡先を覚えておくことにしても、そのほか様々な機能はすべて、人間がかつては自分の中に備えていた力だったはずだ。
現在では、それが外に出ていることで、人間はそこまで記憶力や計算能力を必要としなくなったわけだ。
それはなにも現代の最新の科学技術だけではあるまい。
文字や書物を開発することで、稗田阿礼(ひえだのあれ)が覚えていたはずの歴史は全て書物に書き起こされることになった。
内部にあった潜在的な能力(それが全員にあったものでなかったとしても)は、今や外に出すことができる。
そうすることで、多くの人がある程度平等に扱うことができるようになった。
トンネルを掘る技術を持ち合わせてない僕でも、その機械をある程度動かすことはできるだろう。
(適切に、正確に、とまでは言わなくとも、かつてのトンネル掘りに要求されていた能力とは、比べものにならないほど容易に行えるはずだ)
人間の進化、歴史を、このような文脈で考えることができるだろう。
このように考えると、「最近の若者は…」というエジプト人もぼやいたという例のテーマは、実は共時的な問題ではなく、通時的な問題なのかもしれない。
要するに、人は自分で何かをする、その能力を養おうとして時代を重ねてきたのではなく、自分ではなく他の道具や機械をつかって楽をするために、工夫してきた。
年寄りが当たり前にできたことも、若者はそれを内部にもっていなくてもかまわなくなった。
「最近の若い者は…」と感じるのも無理はないのかも知れない。
多くのことをできる、苦労するという発想は、ある意味では時代へ逆行しているといえなくもない。
科学は万能ではないと言われて久しい。
そもそも、科学は万能だのだと考えた科学者はいないだろう。
だが、いま科学が解明しようとしてもしきれないものが、もしかしたら最後に残る人間性なのかもしれない。
それは人間が外に出せないものであり、どれだけ自分たちの苦労や煩いを外に出して楽を目指したとしても、残らざるを得ないもの。
それが、人間の本質なのかもしれない。
思えば、どれだけ追求しても、本当の人間の美なるものは、再現できない。
だからこそ、人間は「見た目が9割」と感じてしまうのだ。
これだけ情報が進んで科学が発達した今、到達したのは、人間の原始的な、外面の美である。
どれだけ仕事ができようと、お金を儲けようと、結局生命の美にはかなわない。
同様に、内面の美にも人は惹かれている。
性格の良さ、あるいは人間的ぬくもり。
これらは、人間がどれだけ科学的技術をもってしても外に出すことができない再現不可能性をもつ。
これまで人は数多くの近未来を描いてきた。
どれだけ人間の技術が発達しても、残るものがある。
それが、「動物としての欲望」であり、それは再現不可能なものだ。
それこそが、外面的、内面的な美を追究する態度に他ならない。
僕が今日見た女子高校生は、ある意味では人間として最も進化した人種だったのかもしれない。
動物としての原始的な欲、性欲を十二分に発揮しようとするその態度は、進化として必然的であったとさえ思える。
食べるという食欲を謳歌しながらも、それでも性的な魅力を兼ね備えること。
確かに現代社会が病とも言えるほど美にこだわっているのは疑いようのない事実だ。
人間の科学や知恵が行き着く先には人間にしか表現できないものが人間内部に残るはずだ。
とすればそれは、何かを生み出そうという創造性であり、欲望のエロスそのものなのではないか。
「人間らしさとは何か」という言い方は陳腐だが、その一つの答えがそれなのかもしれない。
また、武士や農民、職人、商人という個々の身分に分化されていた近代以前の人々を、抽象的な人を作りだすという意味においての「人間」という意味でもない。
ここでいう人間とは、人類という言葉に近い、生命体としての、人間である。
さて、今朝通勤途中で女子高校生をみた。
彼女は生命体としての原始的魅力をふんだんに発揮したコスチュームに身を包んでいた。
要するに、すんごくスカートが短かった。
見方を変えれば、彼女はほとんど裸だった。
見つけてすぐに目を背けてため息をつきながらも、ある意味で最も人間らしい姿なのかも知れない、と考え直した。
考えてみれば、人間の歴史は、生命体としての人間の進化というよりは、人間の潜在的な力を外に出していく物語である。
人間の物理的な腕の力をスコップに変えて外に出した。
そうすることで、人間が負うべき物理的な労力を負わなくてすむようになった。
今ではトンネルを掘るのに、大部分は人間の物理的な力を要することなく、機械で行うことができるという。
穴を掘りながら、同時に外壁を築き、その舗装や補強を行うことができる。
大勢の人間が内側に持っていた力を、外に出していくことで、可能になったことだ。
屈強な肉体は、今ではそれほど必要ではなくなった。
勿論、不要とまでは言えないが、それでもかつてに比べて格段に不要になったといえるだろう。
少し前、電車の宙吊り広告に「外脳」という言葉が掲げられていた。
パソコンだったか、スマートフォンだったかについて書かれてあった雑誌の広告だった。
すごくおもしろい表現だと思ったし、それは本当に的を射ていると感じた。
スマートフォンはまさに、今まで人間が脳内で行っていたことを、外に出してしまったのだ。
スケジュール管理にしても、アラーム機能にしても、連絡先を覚えておくことにしても、そのほか様々な機能はすべて、人間がかつては自分の中に備えていた力だったはずだ。
現在では、それが外に出ていることで、人間はそこまで記憶力や計算能力を必要としなくなったわけだ。
それはなにも現代の最新の科学技術だけではあるまい。
文字や書物を開発することで、稗田阿礼(ひえだのあれ)が覚えていたはずの歴史は全て書物に書き起こされることになった。
内部にあった潜在的な能力(それが全員にあったものでなかったとしても)は、今や外に出すことができる。
そうすることで、多くの人がある程度平等に扱うことができるようになった。
トンネルを掘る技術を持ち合わせてない僕でも、その機械をある程度動かすことはできるだろう。
(適切に、正確に、とまでは言わなくとも、かつてのトンネル掘りに要求されていた能力とは、比べものにならないほど容易に行えるはずだ)
人間の進化、歴史を、このような文脈で考えることができるだろう。
このように考えると、「最近の若者は…」というエジプト人もぼやいたという例のテーマは、実は共時的な問題ではなく、通時的な問題なのかもしれない。
要するに、人は自分で何かをする、その能力を養おうとして時代を重ねてきたのではなく、自分ではなく他の道具や機械をつかって楽をするために、工夫してきた。
年寄りが当たり前にできたことも、若者はそれを内部にもっていなくてもかまわなくなった。
「最近の若い者は…」と感じるのも無理はないのかも知れない。
多くのことをできる、苦労するという発想は、ある意味では時代へ逆行しているといえなくもない。
科学は万能ではないと言われて久しい。
そもそも、科学は万能だのだと考えた科学者はいないだろう。
だが、いま科学が解明しようとしてもしきれないものが、もしかしたら最後に残る人間性なのかもしれない。
それは人間が外に出せないものであり、どれだけ自分たちの苦労や煩いを外に出して楽を目指したとしても、残らざるを得ないもの。
それが、人間の本質なのかもしれない。
思えば、どれだけ追求しても、本当の人間の美なるものは、再現できない。
だからこそ、人間は「見た目が9割」と感じてしまうのだ。
これだけ情報が進んで科学が発達した今、到達したのは、人間の原始的な、外面の美である。
どれだけ仕事ができようと、お金を儲けようと、結局生命の美にはかなわない。
同様に、内面の美にも人は惹かれている。
性格の良さ、あるいは人間的ぬくもり。
これらは、人間がどれだけ科学的技術をもってしても外に出すことができない再現不可能性をもつ。
これまで人は数多くの近未来を描いてきた。
どれだけ人間の技術が発達しても、残るものがある。
それが、「動物としての欲望」であり、それは再現不可能なものだ。
それこそが、外面的、内面的な美を追究する態度に他ならない。
僕が今日見た女子高校生は、ある意味では人間として最も進化した人種だったのかもしれない。
動物としての原始的な欲、性欲を十二分に発揮しようとするその態度は、進化として必然的であったとさえ思える。
食べるという食欲を謳歌しながらも、それでも性的な魅力を兼ね備えること。
確かに現代社会が病とも言えるほど美にこだわっているのは疑いようのない事実だ。
人間の科学や知恵が行き着く先には人間にしか表現できないものが人間内部に残るはずだ。
とすればそれは、何かを生み出そうという創造性であり、欲望のエロスそのものなのではないか。
「人間らしさとは何か」という言い方は陳腐だが、その一つの答えがそれなのかもしれない。
性犯罪を誘発する原因になってる。
自分はミニスカートは反対です。
連休だというのに体調不良に陥りました。
今日は何とか映画を1本、と思っていますが、無理かもしれません…。
だからこんな時間に更新です。
>Zさん
書き込みありがとうございます。
二つの誤解があるようなので、補足説明させていただきます。
一つは、上の記事で僕は「女子高生はミニスカートにした方が良い」と考えているわけではない、ということです。
ミニスカートにしようが、ロングスカートにしようが、そしてズボンにしようが、僕にはどうでもよいことです。
(どちらかというとズボンにしたほうがややこしくなくていいんじゃないかと思うけれども)
問題は、そういうことでははなく、「なぜ女子高生はミニスカートをはきたがるのか」ということを考えたのです。
時には下にジャージをはいてまでもミニスカートにしています。
男の僕には全く理解できなかったので、そこに何らかの説明をしてみたかったわけです。
ミニスカートを肯定、奨励しているわけではありません。
もう一つは、女子高校生にまつわる犯罪とミスにカートの因果関係です。
僕としては、これは無関係です。
あるとすれば、女子高校生を「ブランド化」「商品化」してしまっているメディアにこそ、その責任があると思います。
もしZさんがいわれるとおり、「女子高校生のミニスカートは、性犯罪を誘発する原因になってる」という理論で話をするなら、プールやビーチだとレイプが起こっても仕方がないという話になってしまいます。
女子高校生のミスカートの中に、無限大の幻想を抱かせているのは、女子高校生のスカートそのものではなく、メディアではないでしょうか。
その一つに、女子高校生でもないのに、制服をわざわざ買って街を闊歩している人(女性)がいることも、その好例だと思います。
僕は男なので、女性の立場から考えるとまた違った議論になるかもしれません。
仕事中ですが、初コメントさせてもらいます。
実はスカートを短くすることに意義はないんじゃないか…なんて思ってます。
たとえば、男性的視点を意識したりっていうのを持っていない。
だから、本能的(筆者の言葉では、原始的な欲)というのは、なんとなくそう思えます。
ふと、考えたのでコメントしました。
失礼!
返信遅れました。
最近、あまり映画館にいっていません。
今月はライブがあったり、仕事の研修会があったりと忙しそうです。
マラソンもまた出ることになっているから余計ですね。
更新は停滞期ですが、すみません。
>せがーるさん
はじめまして。
お忙しいお仕事中、ありがとうございます。
過剰に鏡を見ている人は、他者意識を通り越して、自意識しかないのでしょう。
スカートをやたらと短く履く女子高校生も同じなのかもしれません。
昔、高校生くらいの頃「鏡ばかりみていると自分しかみえなくなるよ」と校長か誰かが言っていた気がします。
だってそんなに人のこと細かく見てないでしょ?
って僕だけですかね。